入学式
受験当日には拝められなかった桜が咲き誇り、新入生を迎える。見頃な桜は、花びらを散らし風に乗り踊っていた。
そんな最中に正門の前で立ち尽くす僕。
不思議な感覚が僕を襲っていた。例えるならば、そう。心臓が膨らんだり、縮んだり、伸びたり、押さえ付けられたり。
簡単に言えば緊張していた。何度となく繰り返した転校初日の比ではない緊張感。
手汗は酷く、視線が気になる。何をここまで怯えているのか、自身でも理解不能であった。
一度深呼吸をしてみよう。大きく酸素を取り込む。肺が膨らんでいくのがわかる。限界まで吸い込んだところで、ゆっくりと短く二酸化炭素を放出していく。肺が同時に縮んでいくのがわかる。
そして同時に緊張は外界へと散るはず。
『情けないほど緊張してるわね』
喧しい。
僕だって好き好んで緊張しているわけではない。
浜延中学校へと初めて登校するために学生服で身を包んだ僕は、何やらよくわからない悪霊に呪われたようだ。
心臓が忙しなく動き回って、呼吸が苦しい。
いくら精神統一を行ってもまるで駄目。ヤカンが沸騰したかのように、身体もカタカタと震える。
このまま回れ右をして帰ってしまいたいほど、浜延中学校が異世界に見えていた。
こうやって突っ立ってる間にも、僕と同じ新入生が校内へと進んでいく。ほとんどが母親もしくは父親と並んでいた。僕の隣には誰もいない。
校門に先輩達が飾り付けしてくれたのであろう、入学おめでとうと読み取れる看板が視界に入ってくる。緑色に染められたハッポウスチロールを木材の板に貼付けて表現された文字。ハッポウスチロールを使用しているためか立体感が生じて中々面白い。隙間を埋めるように桜の花びらを見立てたのであろう、桃色の折り紙が所狭しと貼られていた。そして細長い円柱型の木材にしっかりとネジで打ち込んで高々と持ち上げられている。
祝いの言葉を花むけとした看板は校門に橋を架けるかのように堂々と掲げられていた。
さらに、校内のT字路に沿って植えられた桜の木からのプレゼント、桜吹雪だ。新たな出発点に迎えられた新入生はさぞかし幸福であろう。
しかしごめんなさい。僕はそんなものはどうでもよかった。ひとまずの攻略対象はこの入学おめでとうの看板を潜ること。一人であることがさらに不安を掻き立ててしまっていた。
こうやって立ち尽くしている間にも新入生が次々と校内へと歩を進める。皆それぞれの輝きを放ち、颯爽と歩く姿は格好よかった。
落ち着け! 落ち着くんだ! 落ち着けばこの鉛のような足を持ち上げることが出来るはず。
『ちょっとは落ち着きなさいよ』と、あからさまなため息をつく影子。
喧しい。
僕だっていつ何時でもクールでありたい。
『なでなでしてあげようか? そしたら落ち着くかもしれないよ?』
僕の影からヒョッコリと上半身を覗かせて僕の頭を優しく撫でる影子。正確に言うならば僕の影の頭であるのだけれど。坂道でのあの出来事から、影子は僕の影から分離して行動することが可能であることを知った。いつから可能になったかはわからない。わからないが、少なくとも影子は僕をつかって楽しんでいるであろうことは理解できた。
あー、もうっ! 鬱陶しい!
声を発してしまいそうになるのだけれど、何とか喉元まで競り上がったものを飲み込む。
しかし、身体はコントロールすることが出来なかったらしい。頭の上で両手をパタパタと叩く。
端から見たならばどのように思われるのだろうかと考えると恥ずかしくなってきた。
何となく周囲を一瞥して、ため息を一つ。心臓の鼓動は通常通りのリズムを刻んでいた。
「......なんか吹っ切れたな」
小さく呟いて、ため息をもう一つ。
固まったままだった足はいつのまにか軽くなっており、自然と大地を踏み締めていた。
ゆっくりと校内へと、中学生という、僕にとっては大きな世界への境界線を超える。
今この瞬間確かに僕は一段上へと階段を上ったのだろう。
校内を改めて見渡すと、そこは僕と同じ服装をした人達であふれていた。まだ型崩れをしていない真っ黒な学生服と同様に真っ黒なズボンで身を包み、女子は男子のそれより柔らかい真っ黒な生地の学生服に深い緑色のスカートを身につけている。
上級生や先生方が手取り足取り新入生が戸惑わないように誘導してくれているのが目につく。
協力して会場準備、清掃、飾り付けなど一生懸命に取り組んだのであろう、確実に目が届く場所に校舎内地図や入学式のプログラム、部活動紹介など細かく記された提示板が設置されいる。
T字のアスファルトであしらった路面。それぞれ北校舎、東校舎、西校舎と三つの校舎が構える。西校舎の隣に体育館があり、併設するように部室や運動器具置場などに使用するであろう建物が三つ。北校舎の裏は最近において芝生を植林された校庭が広がっており、日光を反射して緑色に視界を眩しく覆う。
そして一際人数を集めている場所は北校舎前の提示板。クラス配置を告知する看板らしく一際大勢の新入生が吸い寄せられている。
「あそこから順々に確認していってください」と、名も知らぬ美人な先輩が不慣れな校内を手引してくれた。
そして、「入学おめでとう!」とにこやかに祝ってくれたので、恥ずかしくて俯き加減だった顔を何とか持ち上げた。僕は、「どうも」と軽くお辞儀を返してクラス配置を確認するために人垣の中に突っ込んでいくための心の準備をする。
「......うわ。行きたくね~」
『春にはナンセンスな光景だわ。見事な桜も花びらを散らすわけね......。』
結構な人数でのおしくらまんじゅう。このままゆっくりと諦観して、人が少なくなってから行動するのが賢い選択であろう。
そう、わかってはいたのだが......いつのまにやら人混みにもまれてしまっていた。
「......うぷ。ぐえ!」
心急いてしまったのがまずかった。人混みの最後方から、ピョンピョンと跳ねているうちに、後方からなだれ込む群れ成す人にまで注意を払うことを怠ってしまい、津波のごとく人垣の真っ只中へと飲み込まれていく。
はるうららというこの季節。非常に暑苦しいったらありゃしない。
心ばかりの抵抗を試みるが、津波を押し返すのは何とも非効率であることを悟り、進路を提示板のほうへと構える。
このまま提示板の方に突進することに変更。
闘争心がふつふつと湧き出てきた僕は、人垣を掻き分けることを決意する。
『......やめてくれない?』
本気で拒絶を表す影子の口調。影子の特徴でもあるのだが、心の底からの拒絶を放つ口調は、低く感情が篭らない。
今発した影子の口調もまさしくそれだった。
ま、影子には申し訳ないけど無視させてもらいます。
掻き分ける。人混みを泳ぐように掻き分けていく。
僕の服装は乱れ、髪もボサボサになるほど無理矢理身体をねじ込む。
「......んっ?」
目の前に一際大きな背中が障害物となり立ちはだかるが、構わずそれの腋の下の隙間を縫うように入り込んでいく。
何とかクラス分け提示板が数人の背中越しにではあるが視界にちらつくようになってきていた。
「うわっ! 何だ何だっ! 気持ち悪いなっ!」
誰かもわからない大きな背中の男は、急に腋の下から人間の顔が生えてきたことに驚いたようだ。
「プはっ! ゴメンゴメン」とさらに腋の下から左手を生やすように、そいつに念仏を唱えるような手を作り謝罪する。
「あれ? 瞬......か?」
「えっ? 電車で会った人?」
見上げた男の顔は見覚えがあった。
電車で偶然に出会った奴だ。チャックを開けっ放しだった人物の記憶が脳裏に蘇る。何故か僕の素性を把握していた人物であることも、ついでに思い出す。
謎の男の腋の下から見上げる僕は、警戒心をあらわにした視線を外さないように睨みつけた。