大人の段階
脳みそがゼリーのようにぽよぽよと揺れる。今まで、僕は異性というものに興味を抱くことがなかった。
そして、これからも変わらないと思っていたのだが、これしきのことで動揺する自分がいる。
たったこれだけのことで、この様なのだ。
「......な、何してるんだお前! 頭沸いてるんじゃないの?」
ばか、あほ、まぬけ、おたんこなす。
頭を回転させるのには最悪な状態で、思いつくかぎりの罵りを言葉にする。自分で言葉にしながらも、幼稚でみっともないとわかっている。しかし、口を閉ざしていると冷静さが消えてしまいそうだった。
沈黙しながら面と面を向けることが、恥ずかしくてたまらない。心臓が暴れて、顔は燃えあがり、自分でも抑制することが出来ない感情が外部に放たれてしまう。
たかが影、されど影。生を授かってから、もしくはそれ以前から、共に人生を歩んできた。生みの親よりも、誰よりも早く僕の隣で、見守ってくれていた。
ただ、周囲の人達が気づかないだけで、常に一緒にいてくれのだ。
「瞬。身長、何センチ?」
僕を落ち着かせるように尋ねてくる。影子の声で、ふらふらと飛んでいる自我をなんとか捕らえて、未だ湯気を立てる頭で思い出す。
「......百六十に届いてない。百五十八」
ぶっきらぼうに返事をする。いつまでも子供じゃないんだと虚勢をはる。影子は会話の端々で、僕を子供扱いにする癖があるのだ。それだけならまだ良いのだが、からかいながら幸福そうな声色であるのがよろしくない。
ここ一年で身長は十センチは伸びたのではないだろうか。視界が僅かに高く、広くなったのは気のせいではないと思う。
「いつも一緒にいるからよくわからないけど、本当に大きくなったよね」
珍しく、掛け値なしに褒めたたえる影子に、いささかの不安が過ぎる。確かに褒めることは良くあるのだが、たいてい余計な一言がお子様ランチのようについてくる。
しかし、今のは暗に含まれた褒め言葉ではなく、素直に受け取ることができる称賛だった。
「どうしたの? 影子らしくないね」
呼吸を繰り返すことで、心臓はいつものリズムで鼓動を再開する。笑みを顔に張り付けて、胸の内に秘める不安を表にださない余裕もでてきた。
「ごめんね。そんな不安そうな表情しないでよ。そんなに珍しい?」
しかし、それは上手くいかず、影子には心を覗きこまれるようにして暴かれるのだ。全く感情を隠し切ることが出来ていない。
それなりに冷静さを取り戻していた僕は、影子がいつの日か交わした約束を掘り返していたのを思い出す。
影子の存在が他の人にばれてはいけない。
出来るだけ自分の身体を大切にする。
これまで、影子は自分のことを詳細に語ることはなく、僕も影子に問い詰めることを避けてきた。
知りうることは、影子を失わない条件だけ。
関心が無かった、と言えば嘘になる。だけど、僕が望むことはただ一つであり、それだけで僕は十分であり、自分を強く支える。身体は大きくなったが、これだけは変わることはない。
幼少時代に影子と小指を結び、二人で誓った。一生、友達でいること。
これまで、この二つの条件を破ることはなかったはずだ。
再び、契った約束のことを思い出す必要はないだろう。
しかし、今しがた影子は、僕自身に思い出させるように言葉へと変換して確認した。
それが意味することが何なのかがわからないほど、愚かではない。
確認したかったこととは、三つ目の条件のことであろう。
影という世界がどのような仕組みになっているのかはわからない。確か、大人になったら影子は教えてくれると言っていたが、それと無関係ではないのだろう。
大人になるとは、どのような基準であるかは曖昧な事柄である。
二十歳を超えたら、大人の仲間入りだと僕は考えていた。それまでは色んな夢を見て、あるいは探して、意志のむくまま行動することが許されるはずだと思っていた。
まだまだ遠い未来のことであり、影子はそれまで側にいてくれるはずだ、と。
しかし、影子にとって子供と大人の境界線とは、今がその瞬間なのかもしれない。
だから、再度僕に確認してきたのだろう。
大人になるとは、心の在り方であると、本の中で教わったこともある。女性は早くに大人の思考を身につけるとも学んだことがある。
どの考えも正しく、大人が意味することは様々な解釈があるのだろう。
坂道を上りきり、身長が伸びて、中学校に入学する。影子にとっては、それが大人だということなのだろうか。
「影子は一体、何なんだ?」
本当は聞きたくなかった。
だけど、影子から一方的に説明を受けることだけは嫌だった。だから、その前に自分から聞き出したという大義名分を作りたかっただけである。
たぶん、これはただの強がりで、僕が情けないだけなのだろう。今もこうやって先送りにしてきた既成事実があるのだから。
三つ目の条件とは、いずれ影子のことは忘れなければならない、である。
影子は確かに存在しているが、影であることには変わりはない。掬えば隙間から零れるような脆さも感じることがあった。
このことを尋ねることは、何かしら致命的な亀裂を生じさせてしまうのではないかと、恐れていたのだろう。
『うん。私のことを教えてあげる』
影子は、初めて自分のことを語り明かす。
耳を塞いでしまいたかったが、身体は固まっているばかりで、何もできない。
ただただ、嫌な汗が背中をつたうのみだった。