本が好き
四年生の僕は永里三依さんと出会ってからというもの、本の虜になってしまっていた。
「これも面白いよ~」と、彼女が薦める本はどれも魅力的であり、その後の知識として、 とても有益となるものばかりだった。
彼女が愛読する本は、どれも独自の世界観があり、初見は受け入れ難い印象がある。し かし、自分をその世界に委ねてしまえば、もはやページをめくる手を止めることはできな かった。
永里さんとの交流は本を通して行われた。僕が彼女に教えてもらった本を読み、それの 感想を伝える。おおげさに面白かったと言うのもくやしくて、まーまーとか、なかなかと か曖昧な書評をするのもしばしばだった。 それでも、永里さんはいまでも変わらない、綺麗な歯並びを見せて笑うのだった。僕に とって彼女は本の師匠だったのだ。
永里さんとの学校生活を送ったのはたった一年間ではあったが、貴重なことを学ばせて もらい、この出会いがなければ人生を損する可能性だってあっただろう。大袈裟かもしれ ないが、僕にとっては大切な出会いだった。
彼女の性格はとてもマイペースであり、楽を追求することに命を賭けているようなとこ ろがある。永里さんは図書委員に出入りの禁止をされているのだが、放課後は毎日という ほど図書館に入り浸っていた。 図書館の蔵書数は多く、目的の本を見つけるのには一苦労するほどであったが、永里さ んにかかれば、どこに何が本棚に収められているのか記憶しているらしく、迷うことなく 探している本を発見することができた。
「これも面白いよ」
「うん。読んでみるよ」
放課後の二十分だけ味わう、図書室の空気が好きだった。永里さんと仲が良くなること は避けていたのだが、あまりにここは居心地が良かった。永里さんは図書室で気兼 ねなく読書をするのが日常となっているためか、机や椅子に寝転がりながら読むことがあ り、すさまじく行儀が悪かった。
彼女いわく、「頭が重いから顎が接触していないと集中して読めない」とのことだ。
僕も敷布団では枕に顎を乗せて、雑誌や漫画を読んだりするため気持ちはわからなくも ない。わからなくもないが、一応ここは図書室である。六年生の先輩達が自習をしていた りするわけで、図書委員が注意をするのは至極当然である。
僕も何度か永里さんにそれとなく注意をしたこともあった。
「気持ちはわかるけど、図書委員がこっちをにらんでるからやめなよ」
「うーん。どうしても本の読むペースを考えるとねー」と、椅子を二つ占領して作られた 簡易ベッドで横になりながら、ミステリー小説を食い入るように読んでいる。
背中越しに刺さってくる図書委員の目線が痛い。その中には僕達と同じ学年もいるわけ で、罪悪感を感じてしまう。
蝉が鬱陶しくなりはじめた頃だっただろうか。永里さんに興味をもちはじめてしまった ために、どのように本という存在をとらえているか尋ねてみた。
「どうしてそんなに本を読んでいるの?」
本からは目線を動かさないで、こちらに答える。
「好きだからよ」
「好きだから、か」
永里さんの言葉は一直線に届いてくる。
「ここの図書室の本を全部読んでやろうと思うの」
「全部?」
途方もない冊数である。
「後、八百二十四冊だけなんだよ」
「八百二十四冊って、図書室の蔵書数数えてるの?」
「ううん。図書委員に聞いたの。今、この図書室にある本は何冊かって」
何でそんなにも本が好きになれるのだろうか。彼女の場合は趣味とは一線を越している 。
「五千冊ぐらいって言ってたから、ここで五千冊読んだら私の勝ちなんだ」と、相変わら ず糸切り歯を剥き出しにして笑う永里さん。素直に好きだと言える永里さんが羨ましかっ た。
いつもの放課後の空気を図書室で味わっているときに、永里さんは脈絡もなく言った。
「瞬。これから瞬って呼ぶ。瞬も私のこと三依って呼んでね」
突然だった。いつのまにか、僕と永里さんは下の名前で呼び合う関係となってしまいそ うになる。
「やめて! それだけは駄目だ!」
取り乱しすぎたと反省しながら、持ち上げかけた腰を椅子に戻す。静寂な空間に僕の声 が響き渡ってしまった。
「どうして?」
突然僕が叫んだことに驚くこともせず、目を瞬きしながら僕に尋ねる。
それは心と心を繋いでしまうような気がした。いづれ、自ら切り離してしまうというの に。
「僕はすぐいなくなるんだ」
「いなくなる? 転校するの?」
「うん。そう、なんだ」と、僕はごまかすように笑う。
図書室で叫んでしまった自分が恥ずかしくなる。
「別れが辛くなるのはなんでだと思う?」
思いがけない質問をされて戸惑う。
「楽しみ、悲しみ、喜び、怒り、そういったものが共有できなくなるからだと思う」
「共有できることは嬉しいことだよね?」
もちろんそうだ。共有できることは嬉しいことである。もちろん永遠にという条件付きでだ。
「あなたは、出会いを大切にしたくないの?」
「そんなことはない!」
「今までもこうやって、出会いを無駄にしてきたの? そうだとしたら、あなたはひどく もったいないことをしている」
別れがどれだけ悲しいか、永里さんわかっていないだけだ。
「わたしは、出会いのほうが大切だと思う」
「出会いのほうが?」
「そうでなければ、必然的に出会ったことを後悔することにならない?」
僕は、母さんと出会ったことを後悔している? 僕は今までの出会いをそんなふうにと らえていたのだろうか。そんなことはないはずだ。
「違う。僕は別れのほうが怖いだけだ」
「そう。なら約束しましょう」
「約束?」
「わたしはあなたと同じ中学校に入学する」
出会って、まだ三ヶ月の僕とそんな約束をするなんて有り得るわけがない。
「適当なことを言うな」
「適当なことなんて言ってない。わたしは出会いを大切にするって宣言しちゃったからね」
「僕は浜延中学に入学するんだ」と、意地悪く受験が必要な私立の中学校の名前をあげる 。
「そう。覚えとく」
簡単に嘘をつくな。どうにもならないことだってあるんだから。
「瞬に別れた後の世界を教えてあげるよ」
「別れた後の世界だったら、もう知ってるんだ」
返事をすることもなく、永里さんは本の世界へと再び入っていく。
『どちらが正しいか証明するつもりなんだ』と、影子が呟くように言葉を漏らす。
『強い子ね』
強い、弱いじゃない。永里さんがただ意地を張っているだけだ。
僕は転校するまで図書室に行き続けたのだが、永里さんと何事もなかったかのように放 課後の時間を共有する。
転校する春休み直前に一通の手紙を渡されるまでは、勢いで口を滑らしてしまっただけ だと思っていた。いや、今こうやって再開するまでは半信半疑だったのだろう。
手紙にはこう書かれていた。
-図書室にある本は全て読み終わりました。準備は整ったので、受験勉強を開始したい と思います。
彼女は四年間で、五千冊の本を読み終えたのだ。
『貴方の負けよ。瞬』と、影子が清々しそうに言った。
ー追伸。浜延中学にあなたがいなかった場合、殺すからね。
僕は、勉強しなければ本気で殺されると思ったことを覚えているよ。