チャックを開けた少年
すっかり眠気が吹っ飛んでしまった僕は、今更ながらホームに荷物を置き忘れたことを後悔する。漫画や小説などは時間を潰すには打って付けと言っても良い。最初に漫画や小説を書き始めた人には頭が上がらない。心の中をさらけ出して、自分自身の裸を見られている気分であったに違いないのだ。しかし、今手元にはそれが無いことが、とてもくやしい。
ただぼんやりしているのも限界が迫ってきた。残念ながら仮眠をとった僕は最強だ。暇つぶしの手段が見つからないので、元気が有り余って我慢出来ずに次の駅には降りてしまうかもしれない。
窓の外は目新しい景色を流すことはなく、僕も人間観察でもしようかと周りを見渡す。トイレを済ましたのだろうか、少年がこちらに戻ってくるところだった。
『イヤン』
「ぷっ、おほっ! おほん、あ~」
あいつ、チャック全開だ。それを見て、吹き出しそうになるが咳込んだふりをしてごまかす。
電車の揺れにふらつきながら、僕と同じように自分が座っていた席に腰を下ろす。帽子を被ったまま細い目で、なぜか僕の顔をまじまじと眺めてくる。チャックは開けたままだ。
『貴方、何か見つめられてない?』
やっぱりそうなのか。僕もさっきから視線が突き刺さって気持ち悪かったのだ。睨まれるにしても、何かをした覚えはない。そうだとすると何だろうか?
『トイレの中で私と話していたのが聞こえてたのかしら?』
僕は体を震わせる。そんなことはあってはならない。そしたら、影子がいなくなってしまうかもしれないじゃないか。
まだ、少年は帽子のつばで影をさした目でこちらを見ている。このままでは落ち着いてくれない心臓を宥めるために、僕は尋ねた。
「な、何? どうしたの?」
突然声をかけてしまったせいか、少年は目を大きく開けて慌てる。
「え? ああ、何でもない何でもない」
筋肉質な腕を持ち上げてハエを追い払うように振る。
あの慌てようは何だろうか。慌てるにしても、度がすぎている。やっぱり、トイレで影子と喋っていたのを聞かれたのかもしれない。
『何か様子がおかしいわね』
影子も怪しく思い、警戒しているようだ。僕は影子と交わした幼い頃の約束を思い出していた。
影子の存在を気づかれる可能性は限りなく低い。低いけれど、理由を知らなければ正解が分からない。
「さっきから、こっち見てない?」
「本当ワリー! ちょっと気になることがあってな」
その気になってることが何なのかが、僕たちは気になっていると言うのに。素直に教えれば良いものを。
『探りをいれましょう』
探り? 一体どうやって探るのだろうか。イマイチ意味を掴めない中、影子が続ける。
『トイレでも気にしてたね、と尋ねて』
悪くない質問のような気がする。不自然ではない、当たり前な疑問点だ。
「僕のこと、トイレでも気にしてたよね? 」
「うーん。聞くべきか聞かざるべきか」と、顎をさすりながら少年は悩んでいた。焦らすように僕を待たせる。
僕も慌てずに少年の言葉を待つことにした。
「お前、風間津瞬か?」
「え」
なんで僕の名前を知っているんだ。もしかして、こいつも影子の声が聞こえているのか。それにしてもおかしい。名字まで影子は口にしていないよな。
様々な憶測がグルグルと頭を掻き乱していく。それでも、混乱しているためか解答を導き出せないでいた。
「お前、浜延中学に入学したの?」
さらに頭の中に変なものを混ぜてくる。だめだ、僕が入学した中学校の名前だ。この少年は僕のことを全て知っているのかもしれない。
「な......なんで?」
「やっぱり、そうなのか!」と、嬉しそうに僕の肩を両手で小突いてくる。
「いや、だから何で?」
最寄り駅に到着したことを知らせるアナウンスが流れる。
「瞬。俺用事があるんだ。また、入学式でな」
席を立ち上がり、ホームへと駆けていく。大きな腕を振り回しながら別れを伝えている。
「ま、待って」と、少年を引き止めようと手を伸ばす。
気になることばかりを言い残していく。僕には何一つ理解することが出来なかった。ドアは閉まり、電車の中を後にしていく。
「あいつ、チャックを開けっ放しのまま行っちゃった」
伸ばした手を、何も掴めないまま下ろす。
『あははっ! そういうこと』
ちょっと待て。影子は何で納得しているんだ。あの会話の中でどこにヒントがある?
トイレに駆け込んで、影子に問い詰める。
「頼む。影子、僕は今何も分からないんだけど」
『いづれ、分かるわよ』と、小悪魔のように僕の質問をはぐらかす。何分か粘ってみるも、影子は何も教えてくれなかった。
諦めて、トイレを後にする。先程の会話を頭の中で繰り返しながら自分の座っていた席へと戻る。また、僕が座っている四人掛けの椅子に、入れ替わりとなった人が座っていた。