電車にて
「なんで荷物を置いていったことに気づかないんだよ」
『えっ! 私のせいにする気なの? 』と、声を荒げて叫ぶ。
「馬鹿! 馬鹿! 動いてる、動いてるってば」
影子が身振り手振りで感情を表現するため、僕の影は不自然に揺らめく。
『瞬が私のせいにするからよ』
影子自身も素に戻り、僕の影へと戻る。
「ま、荷物の中はたいした物入ってないからいいか」
幸運にも財布はズボンのポケット、切符は財布の中に入れてあるので最低限必要なものは揃っていてくれた。念のためにポケットの財布を取り出して、切符が入っているのを確認。無事入っていることがわかり、ホッと不安を吐き出す。胸を撫で下ろし、立ち尽くしたまま窓の外を眺めてみる。
一定の速度で進むことを始めていた電車は、時折床を滑らすように揺れた。バランスを保ちながらも流れる風景から目線を外さない。初めて一人で乗った電車は、線路の上を生真面目に進んでいく。窓の外はいまだ見知った風景が続いている。そんなことで安心してしまうカゴの鳥みたいな自分が、まだまだ餓鬼であることを再確認してしまう。
婆ちゃんの家に行くのは、一年ぶりぐらいだ。最後に行ったのは、四校目を転校して、ついでに立ち寄った時であった。その時も久しぶりに再開したのだが、婆ちゃんは膝を痛めており歩くのに支障をきたしていたのを覚えてる。
『ほら! あそこ空いてるよ』
空席を探して、当てもなく歩いていると四人掛けの椅子が誰にも座られずに残っていた。腰を下ろし、これでゆっくりと窓の外を眺められるなと落ち着く。
毎日、飽きもせずに同じ風景を見つづけているのだろう。膝の上に広げた雑誌を読んでいる人や眠っている人、携帯電話をいじくっている人と実に様々に行動している。窓を眺めているのは少数で、だいたいは自分の世界を確立していた。
だから、僕は窓を眺めているのだろう。流れていく景色は常に現実のものだ。窓の外に見える世界は僕自身も生活していて、毎日を費やしてきている。だけど、僕がいた痕跡が残る場所なんてほんの一部だ。窓の外に広がる世界も、いずれ僕と何らかの繋がりが生まれるのだろうか。こんなに広いのならば、僕にとって生きていくのには必要の無い場所があるのではないかと考えてしまう。
たぶん、こんなことを考えていたならば、父さんや婆ちゃん、そして母さんが知ると悲しむのではないだろう。三年間だけではあったが、僕の世界に大きく影響を与えたのは母さんであるのは間違いない。何年も昔からありつづけているのであろう、目の前に広がる景色よりもずっと大切な人である。こんなに広いのに、母さんという、ちっぽけな人間よりも心の深くまで関わってはこない。
最初の駅に停車して、人々が慌ただしく入れ代わっていく。婆ちゃんと同年齢ぐらいだろう、ゆっくりとこちらへ向かってくるおばちゃんがいた。少し小太りなおばちゃんは杖で身体を支えて、三本足で歩みを進める。どうやら、僕が座っている四人掛けの椅子に空席があるのを見つけたようで、重い腰を椅子にゆっくりと沈めていく。そして、同じように窓を眺め始めた。
僕も視線を外して再び窓に戻す。早くも電車に飽きてきたので、霞んできた目を軽く擦る。
『暇だな~』と、眠気を僕に移すかのように欠伸をする影子。おばちゃんは窓の外を見つめながら何を考えているのだろうか? その瞳に何が写っているのか無性に気になりはじめる。何も考えていないのかもしれないし、思いも寄らないことを考えているのかもしれない。どちらにせよ、たぶん、僕よりも深く大切に景色を眺めているのだろう。だって、あんなに幸せそうな表情をしているんだから。
おばちゃんは、あんパンのような頬っぺたを持ち上げるように笑っていた。
トンネルの中に入ったのか、一際大きく電車の揺れが、椅子の下から伝わってくる。規則的なリズムが僕の体を駆け巡っている。
「まあ」と、おばちゃんの感嘆の声が漏れる。トンネルを抜けた瞬間、窓が白く瞬く。
『海! ほら、海! 』
はしゃぐ声すらも、僕の眠気を助長するだけとなる。
メトロノームのような揺れが断続的に続き、僕の頭を徐々に白くしていく。眺める景色がぼやけて、異様な形に見えはじめると同時に、瞼を持ち上げるのが億劫となる。
『ねー。ねーってば!』
背もたれに深く沈んで、おばちゃんの幸せそうな横顔を見ながら、ゆっくりと僕自身の世界へと落ちていく。綺麗な青と白が眼の中に焼き付いて離れなかった。
「海だ......」
何処までも続く線路と海。僕はまだまだちっぽけだなと、とろけるように瞼を落としていく。閉じた瞼を透してもなお、光が僕を包んでいた。