ホームにて
最低限必要な物は婆ちゃんの家に送り、中学校への入学手続きも済ました。残るは僕自信を婆ちゃんの家へとたどり着かせることにより、取り合えずは落ち着くことができるだろう。
「無理しないでよ。父さん」
「瞬も婆ちゃんに迷惑かけるなよ。もう歳なんだからな」
電車に乗り込む前に、父さんと言葉を交わす。様々な人々が、思い思いに行き交う。ベビーカーを押して歩く母親、手を繋いで歩く老夫婦、帽子とリュックサックを背負った少年と、目的地を目指して、あるいは当てもなく、自分の意思を持って進んでいく。僕も様々な人々の中の一人となり、婆ちゃんの家へと向かう。父さんは大勢の人々が集まる都心部へ。
「たまには顔出しに行くよ」
「一人で来ることができるのか? 」と、僕を子供扱いにする。
「大丈夫だよ! たぶん」
「暇なら来い。人混みがものすごいぞ」
駅内のアナウンスが、電車の発車を知らせる。同時に、電車から空気が漏れるようなエンジン音が響いた。
「ほら、もう電車の中で座っていなさい。長旅になるんだから座っていないときついだろ? 」
僕は無理を言って、一人で婆ちゃん家まで行くことをお願いした。何となく、一人で小旅行気分を味わいたい気分だったのだ。電車に乗っている時間は四時間ぐらいだと言っていたので、小旅行気分を味わうぐらいなら十分な長距離である。
ゆっくりとドアが開き、大勢の人々が出たり入ったりする。僕もステップで躓かないよう、ホームから電車へと飛び込むように移動した。
「切符を無くすんじゃないぞ」
「うん。大丈夫」と、ポケットの中に入った切符を取り出してヒラヒラさせる。
何か言い残したことはないかな、と考えるも出てこない。電車に向かって、急ぎ足で入ってくる人達が増えはじめる。
「頑張れ」と、父さんが言うと同時に父さんと僕との間に仕切が割り込んできた。ドアの閉じる結合音が響く。
窓越しに父さんの顔を見る。父さんが口ぱくで何かを伝えていた。僕はそれが何を言っているのか、目を懲らして必死で解読を試みる。
「い......て......ら、しあい。行ってらっしゃい! 」
そうだ、いつもの出迎えの言葉を忘れていたんだ。
たとえ父さんが深夜遅くに帰ってくることがあっても、いつもベランダから帰ってくる道を眺めて待ち続けていた。電灯だけが照らす暗い夜道を革の鞄を持ち、靴を響かせ、ネクタイを緩めながら帰ってくるのだ。だから、ベランダから父さんの姿を確認すると急いで玄関前で立ち尽くして待つ。
影子には、『玄関で待たなくてもいいじゃない』と、いつも馬鹿にされていた。ただ、我が家に帰宅した父さんが寂しいのではないかと思うと、待っておらずにはいられないのだ。いつも、「ただいま」と、声をかけるだけで嬉しそうにこう言うのだ。
「別に寝てても良いんだぞ」と、決まって大きな手の平で掻き乱すように撫でる。本当のことを言うと、あまり撫でられるのは好きではなかった。母さんと違い、触れかたというか動かしかたというか、コツが全くなっていないのだ。
それでも、「お帰りなさい」と、僕も言葉を返す。それだけのためではあったが、父さんを待ち続けて起きていることには、大きな意味があった。
出発を知らせる音がけたたましく駅内を響き渡る。
窓越しに、僕は負けるもんかと叫んだ。
「行ってきまーーーす」
周りの人達が何事かと様子を見ているが、どうでもよかった。電車が動き出す。ゆっくりと父さんの顔が、窓からフェードアウトしていく。踏み切りを滑走するリズムが段々速くなっていく。同時に僕たちがいたホームから、距離が遠くなっていった。小さくなっていくホームを眺めながら、心の隙間に寂しさが侵入してくる。
『泣いたりしないでよ』と、影子が声をかけてきた。
「泣かないよ。」と、周りに気づかれない程度の小声で呟く。
こんなことで泣いていたら、これから涙の雨をどれくら降らさなければならないだろう。
『座りましょう。少し大人になった瞬くん』と、明るく喋りかけてくる。
「馬鹿にしてるだろう? 」
『そんなことないわ。ただ強くなったんじゃないかなと思っちゃって』
大小様々な家が連なる道を横に流しながら、電車はどこまでも進んでいく。不安もあるけど、期待もある。これからどんな世界が待っているのか楽しみとさえ思うことさえ出来る。
『あ』「あ」
同時に僕と影子は大事なことに気づき、阿呆な声をあげる。
ホームに荷物を置いていってしまった。
やっぱりこの先不安だらけだと、考え直す僕と影子だった。