たったひとつの真実
「最初に『好きだ』と言われたのは……去年の初秋のことだったかな」
岡田の行きつけの店だというバーのカウンターで、岡田がぽつりと呟いた。テーブルに置くと同時に、グラスの中の氷がカラン…と小さな音を立てた。
「よくあることなんだが、社会に出たばかりの若い子が抱く単なる憧れだろうと思って、『ありがとう』とだけ答えて……それで、終わりになるはずだったんだ。いつもならば」
梓は、ただ黙って岡田の独白ともいえる言葉を聞いていた。初めて聞いた名前の、綺麗な色のカクテルを飲みながら。
「だけど、彼女は諦めなかった……事あるごとに、上司と部下という関係を越えた気遣いや意思表示を見せてきて。気付いたら、ただの部下として以上に『可愛い』と思う自分がそこにいたよ」
そこで岡田は、過去を思い出したのか淡く微笑んで見せた。優しい微笑みなのに、どこか苦い自嘲を含んでいるように見えたのは、果たして梓の目の錯覚だったのか。
「自覚すればするほど、焦ったよ。何しろ私はこの歳で……おまけに一度妻まで亡くしているだろう? 妻に申し訳ないと思う気持ちもあったし、彼女のご両親はどう思われるだろう、とか、何より、彼女の未来の可能性まで潰してしまうんじゃないかという思いが交錯して……年をとればとるほど臆病になるというのはほんとうだな」
はは…と岡田は情けなさそうな顔で笑った。
「…なあんだ。じゃあ亮子が言ってた、係長があたしを好いているって噂はデマだった訳ですね。ホント、人の噂というものは……」
優樹菜の想い人の件といい、いい加減なものだと梓は思った。
「ああ、それはあながちデマでもないかな」
「えっ!?」
そこで岡田は、唐突にやわらかい────何か懐かしいものを見るような瞳になって、梓を見返してきた。梓の胸が、一瞬高鳴る。
「…坂本くんは、亡くなった妻に似ているんだ。妻も元気な人でね、食べるのが何よりも大好きと豪語する女性だった」
なあんだと梓は思う。ときめきを返せと、冗談交じりに内心で呟きながら。
「何があっても……私より先立つことなんてないと─────あの頃は真剣に思っていたのに。乳癌だとわかった時には、もう遅かった。既に手の施しようのないほどに進行していて……あんなにも健康的だった妻が日に日に痩せ細っていくのを見るのは、身を切られる思いだったよ…………」
そうだったのか。だから梓が入社した頃、岡田はどこか遠くを見るような、それでいて優しい目をしてよく梓を見ていたのかと、六年目にしてようやく得心がいった。
「…話を戻しますけど。千葉さんには、その想いをそのまま伝えてあげればいいと思います。『嫌いと言ってくれ』と言われて何も答えられなかったのは……係長の心がもう決まっているも同然だったからでしょう? その後、事態がどう転ぼうが……ふたりとも後悔しない結果にしかならないと、あたし個人は思います」
そう。理屈でいくら武装していても、とっさに出た反応こそがその人間の本心だと、梓は思っているから。だから、岡田の肩をたたきながら、そう告げた。
「─────不思議だな。坂本くんに言われると、妻に言われているような気さえしてくるよ。そんなこと、あるはずもないのに」
岡田の辛そうだった表情が幾分和らいだのを見て、梓の心もいくらか軽くなる。少しでもお役に立てたのなら、よいのだけど。
「……ああ。私の話ばかりしてしまって悪かったね。それで坂本くんと沢村くんは、何がどうなってああなっていたんだい?」
予想もしていなかった言葉を告げられて、カクテルを傾けていた梓は、派手にむせてしまい、かなり苦しい思いを強いられることになった。
「あっ ああ、済まないっ 大丈夫かい!?」
「は、はい……何とか」
ハンカチで口元を拭きながら、梓は何とか落ち着きを取り戻す。アルコールも適度に回っていたし、何より岡田の相当込み入った話まで聞かせてもらってしまったし、もうこの際いいかと思い、気付いたら話し出していた。この春からの、一連の出来事を─────。
「…………そうか…」
新しい水割りを手に、岡田がぽつりと呟く。梓はといえば、バーテンに新作だというカクテルを作ってもらい、半ば上機嫌、半ば困惑という不可思議な気分を味わっていた。
「サイテーですよね、あたし……勝手に千葉さんが沢村くんを好きだと思い込んで、勝手に仲をとりもとうとしてました。沢村くんが千葉さんの気持ちを知ってたからよかったものの、そうでなかったら千葉さんを更に傷つけるところでした。可愛い後輩のため、なんて言って、有難迷惑にしかならないことをやっちゃうところでした…………」
ほんとうに、危なかった。もしほんとうに沢村が優樹菜に心変わりしていたら、あんな一途なコを更に苦しめるところだった。何が「可愛い後輩のため」だ。自分のしたことは、ただ自分が楽になりたいがための自己満足だったのではないかと、梓は自己嫌悪で押しつぶされそうな気分になる。
「あんまり気にし過ぎないほうがいい。もし私が君の立場だったとしても、きっと同じことをしていたと思うから」
岡田はそう言ってくれるけれど、梓の心は晴れない。あんなにも、あんなにも沢村はまっすぐ想ってくれたのに。もう、嫌われてしまったかも知れないなと思ったとたん、梓の胸がズキズキと痛み出した。せっかくの美味しいカクテルもすっかり味がわからなくなってしまい、グラスの中身を一気にあおってしまった。
「……でも。これでよかったんですよね。あたしなんかより、そのうちもっとお似合いの女の子が現れますよ。沢村くんは、やればできるひとなんだから、周りの女の子がきっとほっとかないでしょうしね」
できるだけ明るく言ったのに。一瞬驚いたような顔をした岡田が、すぐに優しい微笑みを浮かべて、梓の頭を子どもにするかのように優しく撫でる。
「──────好きなんだね。沢村くんのことが」
「え?」
一瞬、何を言われたのか梓にはわからなかった。その意味を正しく理解した途端、思いきり首を横に振って。唇は、慌てて否定の言葉を口にしていた。
「い、いやいやいやいや、係長、何言ってるんですか。そんな訳、あるはずないじゃないですか。沢村くんは、ただの後輩で……」
「じゃあ。君はいま、どうして泣いているんだい─────?」
優しい岡田の声に、ほとんど無意識に手を顔に当てていた。頬を伝うのは、まぎれもない透明な雫で…………。
……好き? あたしが? 沢村くんを──────?
「すぐに認められない気持ちは、私には誰よりもよくわかるよ。何しろ経験者だからね」
岡田の声も耳に入らないほど、梓の頭の中は混乱に彩られていて。梓はもう一度、自分自身の内心の言葉を反芻する。胸に浮かぶのは、去年からずっと見守ってきた……沢村の姿。
『何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────』
沢村の声が、脳裏によみがえる。
そう…か。優樹菜が岡田でなく沢村を見ているとしか思えなかったのは、自分自身が沢村のことばかり無意識に目で追っていたから、だったのか。もっと冷静に客観的に見ていれば、優樹菜の見ているのがほんとうは誰だったのかなんて、すぐにわかったかも知れないのに。そしていま、こんなに傷ついているのは─────もう、あんな風に想ってもらえないとわかっているからだったのか。いまさら自覚しても、もう遅いけれど…………。
「係長」
「ん?」
「今日は、サイテーな者同士、もうとことん飲みましょうっ!!」
もう何も考えたくなくて、梓はグラスを掲げ、岡田の持っていたグラスにチン…と音を立てて軽くぶつけた…………。
* * *
ゆらゆらゆら。まるでラクダにでも乗って揺られているような心地よい揺れに、梓はいつしか深い眠りから覚めてまどろんでいた。
あー……すごい、気持ちいー…こんな首都圏のど真ん中にラクダなんかいる訳ないってわかってるけど、すごいいー気持ち……このまま寝ちゃいたいくらい。
冷静に考えれば、それは誰かの背中だということにすぐ気付くけれど、酔いが回りまくった頭ではなかなかそこに考えがたどりつかない。そうなると、相手は岡田しかいない訳で……。
「あー…かかりちょー……」
喉からは掠れきった予想以上に小さい声しか出てこなくて、梓自身がびっくりしてしまうほどだった。岡田の耳には届いていないのか、返答はない。目も開けないままで、梓は続ける。
「あらしたちって、ばかみたいれすねー……いーとしこいて、じぶんのきもちにもきづけらいなんてー」
半ば呂律も回っていないけれど、梓の唇は止まらない。
「れもかかりちょーはまだいーれすよー。まだきらわれてらいんらからー。せーしんせーいはにゃせば、きっとちばしゃんもわかってくれまふよー。あらしみたいに、さいてーなことやっておこらしちったんじゃないんれすからー」
けたけたけた…と自分でも何が可笑しいのかわからないのに、笑いが止まらない。
「あらしがいちばんばかみたいれすよー。かってにひとりではやがてんして、かってにしきりばばみたいにちばしゃんとさーむらくんのなかをとりもとーなんてしちゃってー。こりゃーあらしのしょーらいはきまりれすねー、あーでもなこーどってけっこんしてなきゃできないかー、じゃあいっしょーけっこんれきなさそーなあらしじゃらめだあ、あはははははー」
笑っているうちに、何故か涙が溢れてきて……止まらない。それでも岡田は何も言わない。きっと、呆れ返っているのだろう。
「そんでいまさらさーむらくんがすきだなんてきづいても、もーおそいっての。おそすぎて、かめもなまけものもびっくりってなかんじれすよね、あずさがめなんてしんしゅはっけんーとかってしんぶんとかにのっちゃったりして…………」
もう、喉からは声すら出せなくて。嗚咽だけが、堰を切ったように溢れ出す。もう、自分でも止められない。
その途端、岡田の歩みが止まって。ゆっくりとしゃがみ込んだと思ったら、梓をそうっと固い何かの上に下ろした。一瞬地面かと思ったが、高さがそれほど変わらなかったことから考えて、公園のベンチかそこらなのだろう。
「……かかりちょー…?」
嗚咽交じりの声でその名を呼びつつ、まるで小さな子どものようにしゃくり上げながら、梓は目を開ける。まず目に入ったのは、街灯を背にしながら自分を見下ろす、誰かのシルエット。街灯の陰になって、顔すらよく見えない。
「──────いまの言葉。ほんとうですか?」
予想していたよりずいぶん若い声に、あれ、かかりちょーってばいつのまにわかがえったのー、ずるーい、あらしにもそのあんちえーじんぐおしえてくらさいよーなどと、梓は能天気な答えを返す。
「いまの言葉。もう一度言ってください」
なおも続く声。
「えー、あんちえーじんぐー?」
「じゃなくて!」
苛立ったような声が、耳を打つ。もーかかりちょーてば、そんなおおごえあげたらみみがいたいじゃないー、などと呟きながら、梓は懸命に目をこらす。まず目に入ったのは、ずいぶんとカジュアルな男物のジャケット。確か岡田は、今日はブランド物のスーツを着ていたと思ったが……。そんなことを考えている間にも、相手の顔がずいと近付いてきて、完全なる酔っ払いの梓にも、その顔立ちがハッキリ見えるようになった。
「あでー。かかりちょーってば、いつのまにせーけーしたんれすかー。これじゃまるで、さーむらくんみたいなかおれすよー」
けたけたけた。涙を流しながらも、可笑しくて笑ってしまう。
「係長じゃありませんよ。よく、顔を見てください」
「えー?」
言われてもう一度よく顔を見ると、確かに谷原章介似の岡田ではなく、ジャニーズ事務所の誰それに似ていると同僚たちが言っていた、沢村の顔にそっくりで……。
「あら、さーむらくんにそっくりなひとー。ごしんせつにおくってくれてたんれすかー、あじがとーごじゃいますー」
「そっくりさんじゃなくて! 沢村巧本人です!!」
そっくりさんじゃない? 本人? そんな言葉が、梓の頭にゆっくりと浸透していって……その意味を正しく理解した瞬間、まるで風船が破裂するかのように梓の思考が爆発して。その途端、信じられない速度で酔いがどこかへ吹っ飛んでしまった。
「ささささささささ、沢村くんっ!?」
「やっとわかってくれましたか」
やれやれとでも言いたげに、沢村が肩をすくめた。
「岡田係長が、先輩の携帯から電話してきたんですよ。『迎えに来なかったら、ちょうど週末の夜だし、彼女を連れてどこかのホテルに泊まるから』って。『自分もいい感じに酔っちゃってるし、独身生活も長いから、手を出さない自信がないなー』なんて言われたら、飛んでこない訳にいかないでしょう?」
そ、そんなこと言ったのか岡田係長、と梓は内心で呟く。思いもよらなかった面を見せられて、それなりの年数をつきあってきた梓ですら驚きの極致だ。
「俺もむしゃくしゃしてアパートでヤケ酒飲んでたから車も出せなくて……タクシーで駆けつけたら、誰かさんはぐーぐー呑気に寝ているし。店員さんにはそろそろ閉店だからって急がせられるし。とりあえず店を出なきゃっておぶって歩いてたら、誰かさんは係長だと思い込んで好き勝手なこと言ってるし。とんだ一日ですよ、まったく」
「ご…ごめんなさい」
もう、それしか言うことができない。
「い、いまもそうだけど、夕方も……あたし、てっきり千葉さんは沢村くんのことが好きだと思ってたから、あたしなんかより彼女とのほうが断然幸せになれると思って…」
「千葉とは、偶然似たような境遇だってわかって、互いに異性の気持ちについて相談し合ってただけです。あっちのほうが歳も離れてるし、奥さんのこともあるから大変だったみたいですけど」
まあでも。係長のあの反応からすると、彼女の想いも近い将来報われるのではないかと、梓はそっと思う。ほんとうに素直で一途なあのコだから。係長も、好きにならずにはいられなかったのだろう。
「で、あっちのことは置いといて。さっき。何て言いました?」
「さっき?」
脳裏に一瞬、亀やナマケモノの着ぐるみを着た自分の姿がよぎるが、その次の瞬間、まるで走馬灯のようにみずからが発した言葉の数々が一気に駆け巡って、梓の顔がまるで活火山の活動のごとく噴火する。頬が熱くて、仕方がない。
「な、何も言ってないっ」
「嘘ばっかり。じゃあ何でそんなに顔が赤いんですか~?」
にやにやにや。ほんとうに楽しそうな顔で沢村が迫ってくるので、梓はとっさにベンチに突っ伏して顔を隠す。
「酔っ払ってたから、あたしは何も覚えてないっ」
顔を覆っていた手を取られて、半ば横たわったまま沢村のほうを向かされる。
「ねえ先輩。誰のことが好きって気付いたんですか~? 教えてくださいよ~」
わかっているくせに、沢村の追求の手は緩まない。
「知らない知らない、もう何も知らないっ あたしののーみそは今日はもう閉店ガラガラっ はい、おしまいっ」
目尻に、先ほどまでとはまるで違う涙が滲む。できることなら、このまま死んでしまいたいと思うほどの恥ずかしさだ。梓の涙を見て、さすがにいじめすぎたとでも思ったのか、沢村はそっと梓の手首を掴んでいた手を放して。優しく両肩を支えて、ゆっくりと梓の身体を起こさせてベンチに座らせる。そうして自分は、梓の前の地面に跪いて、今度は優しい笑顔を浮かべて梓の顔を覗き込んでくる。
「先輩。もう意地悪は言いませんから。だから、教えてください。先輩の心の中にはいま、誰が住み着いているんですか─────?」
ずるい、と梓は思う。そんな風に優しく訊かれたら、もう想いが抑えられないではないか。すん、と鼻を一度鳴らしてから、そっと口を開いた…………。
* * *
その後。とくに何が変わったということもなく、日々は過ぎて。世間はすっかり夏真っ盛りになっていた。
「それじゃ、外回りに行ってきまーす」
椅子の背もたれにかけていた薄手の上着を手にとって、梓は上司に声をかけて。背後に座っていた人物を振り返る。
「ほら沢村くん、行くよ。早くしないとよそに先越されちゃうからねっ」
「はいっ!」
「いやあ、坂本くんは相変わらず元気がいいねえ」
などと上司連中に言われるほどの、相変わらずのパワフルさを誇っていた。
優樹菜と岡田はその後、「公私混同はしたくない」という岡田の希望の元、会社の皆には秘密でつきあい始め、プライベートでは仲睦まじく過ごしているようだ。四人の関係に偶然気付いた亮子を含め、時々女三人で遊びに行ったりして、梓ともそれなりに仲良くやっている。
そして、当の梓と沢村はといえば。
「今日こそD社から契約とるよー、気合い入れてこっ!」
「はいっ!!」
仕事の上では相変わらずだったが。会社を出てしばらくしたところで、沢村が梓の耳元で小声で囁く。
「今回の契約、俺がメインになってとれたら、来月の連休に一緒に泊まりがけででかけてくれます?」
それを聞いた梓の瞳が、いたずらっぽく輝く。
「そうねえ……考えてもいいわよ。だけど、恋人としてはまだまだ、かな。せめて、あたしと同じくらいの成績を一人であげられるようになってくれないと」
「う…っ 道のりはまだまだ長いっスね……」
沢村の表情が途端に陰りを見せる。
「嫌なら別にいいのよ~? あたしもあと二年も経ったら三十路突入だし、親にもそろそろ『見合いでも何でもしてとっとと嫁に行け!』ってせっつかれてるのよね~……」
背中を見せながら後半部分はひとりごとのように呟くと、ちらりと横目で見た沢村の顔に、みるみるうちに気合いが充電されていくのが目に見えてわかった。
「頑張りますっ 押忍っ!!」
「ちょ…っ どこの格闘家よー」
梓の笑い声が、夏の空に吸い込まれていった…………。
──────そして今日も、新たな一日が始まるのである。
という訳で、皆さん落ち着くところに落ち着きました。
予想されていた方はいたかな?
果たして沢村くんは、梓を完全にものにすることができたのか?
それは皆さんのご想像にお任せ致します。
まあでも、「必ず最後に愛は勝つ」ということで(笑)




