届かぬ想い
──────さあ。一世一代の大ボラを吹こうか。
夕刻になったというのに、屋上はまだまだ明るくて。夏が近いことを、とことん実感させる。
「うーん、この季節の屋上は気持ちいいねー。あー、そろそろ夏服も買いに行かなきゃなー」
「話って…何ですか」
浮かれた声を上げる梓とは対照的に、沢村の声はどこか硬い。まるで、梓がいまから言わんとしていることを予想しているかのように。
「まあそんな焦らないで。少しはリラックスしなよー」
「話って何ですか」
故意に明るく装っている梓を見透かすような、真剣な瞳が梓の瞳を射抜く。虚勢を張っていられなくなってしまいそうだったが、それでも梓は全身全霊の勇気を奮い立たせて、極力何気なさを装って言葉を紡ぐ。
「……あー…せっかく、『好きだ』なんて言ってくれたけどさ。あたしやっぱり、君のことは後輩としか思えないんだよね」
できることなら、いますぐこの場から逃げてしまいたい。声が震えないようにするだけで精いっぱいで、沢村の顔がまっすぐ見られなくて、手すりに手をかけて沢村に背を向けて空を仰ぐ。
「だから、こんな五歳も上の女のことなんかとっとと忘れて、次に行ったほうが賢明だよ? 君はまだまだ若いんだし」
できるだけ年上であることを強調するような口調で続ける。
「それは……俺には万が一の可能性すらないということですか」
「そうそう、千葉さん。さっき医務室で少し話したんだけど、あのコ中身もすっごく可愛いねえ。あんなコなら、すごいお似合いだよ。結婚でもしたら、キューピッド役としてスピーチでもしたげよっか」
「……何で俺の顔を見て言わないんですか」
「あのコも君に好意持ってるみたいだし、いま声をかけたらきっとすぐつきあえるよ。うん、こんなアラサー女よりそっちのほうがいいに決まってるって!」
「何で質問に答えてくれないんですかっ 俺の目を見て、もう一度同じ台詞を言ってくださいよ!」
唐突に手首を掴まれて、強引にそちらを向かされる。マズい、と梓は思った。いま沢村の顔を見たら、平気な顔でなんかいられない!
「あ……」
もう、笑顔なんて作れない。
「俺のことが迷惑なら、そう言ったらいいでしょう!? なのに、何でそこで他の女の名前なんて出てくるんですか!」
「だ…だって、あたしは他人に嫉妬するくらい君のことが好きだなんて、言えないものっ あんな、あそこまで我を忘れるくらい好きかなんて、答えられないもの…っ だったら、もっと好きだと言ってくれるコに行ったほうが、君にとっても幸せじゃないっ!!」
もう、冷静を装ってなどいられない。
「…千葉がそう言ったんですか。俺の名前を出して、『好きだ』って?」
「名前は言わなかったけど……あたしと仲がいい人なんて、他にいないじゃない…だから」
あたしなんかよりあのコとつきあったほうが、きっと幸せになれるから───────。
もっとスマートに話を進めるつもりだったのに、なんてザマだと梓は思う。どうして沢村が絡むと、自分はこんなにみっともなくなるのだろう?
俯いたまま、沢村の顔が見られない梓の手を引いて、沢村は歩き出す。確固たる目的地でも決めているかのように、迷いのない足取りだった。
「ちょ…っ ど、どこ行くの!?」
「医務室へ。多分千葉もまだ帰っていないでしょう。こうなったら、千葉も含めて三人で話しましょう。そのほうが早い」
なんということを言い出すのだ、この男は!? あんな、心も身体も弱っている彼女に決定的なショックを与えようというのか!?
「や、やめてよ、沢村くんっ 彼女はいま、すごく弱ってるのよ、そんな時に話なんてできる訳ないでしょうっ!」
「いまじゃなきゃ、意味がないんですっ!!」
梓ですら気圧されるほどの迫力で言い切って、沢村は屋内へと歩を進める。梓が逃げられないように、しっかり手首を掴んだ上で、だ。
梓には、沢村がわからなくなってしまった。あんな、弱りきった彼女に更にに追い打ちをかけるような冷酷な真似をするような人間だとは、思ってもみなかった。それとも、自分と梓以外の人間はどうなってもいいとでも思っているのだろうか? もうそうだとしたら、梓は沢村をずいぶんと買い被っていたことになる。
エレベーターに半ば無理やり連れ込まれて、医務室のある階へと向かう。退勤するところらしい他の社員の好奇の目が梓には痛すぎたが、沢村は怒りが大きすぎるのか、まるで気にしている様子はない。どうしてこんなことになってしまったのだろう? 優樹菜に申し訳ない気持ちで胸がいっぱいになる。自分がもっとうまく立ち回っていれば、こんなことにはならなかっただろうに。チャイムと共に、エレベーターが目的の階に着く。沢村の手を振り解けないままエレベーターから連れ出されて、医務室へと向かう。梓はもう泣きたい気持ちでいっぱいだった。沢村の拳が医務室の扉をノックしようとしたまさにその時、予想もしていなかった大声が中から響き渡った。
「どうしてもっていうのなら、いっそのこと『お前なんか大嫌いだ』って言ってくださいよっ!! そうしたら、いくらものわかりの悪い私だって、きっぱり諦められますからっ!!」
「……っ!?」
梓には、信じられなかった。だって、中から聞こえたのは、弱りきって休んでいたはずの優樹菜の声だったのだから! いつも鈴を転がすような可愛らしい声の彼女が、興奮しきってあんな大声を上げるなんて、いったい何事が起きたというのだろう!? 梓と沢村はいまだ室内に入ってすらいないのだから、ふたりに対しての言葉ではないのだろう。相手はいったい誰なのかと思ったが、相手は沈黙を守っているのか、相手の声は聞こえない。
「─────もういいです。出ていってください。いますぐ私の前から消えてくださいっ!!」
わあっと優樹菜の、もう何も気にしていられないほどに追い詰められたような泣き声がその場に響いた。いったい、誰と、どんな話の果ての顛末だというのか。次の瞬間、またも信じられない声が梓の耳に届いた。梓のよく知る人物の、やはりこれまで聞いたこともないほどに苦々しい響きを宿した声だった。
「……後で家まで送っていくから。もう少し、ここで休んでいなさい」
カチャ…と静かな音と共に、ドアが開く。声で予想はしていたものの、姿を見てもまだ信じられなかった。声と同じく、いままで見たことがないほどに辛そうな表情を浮かべた、岡田係長そのひとだったから───────。
「…………」
驚きと、とんでもないところに居合わせてしまったという申し訳なさで、岡田の顔がまともに見られない。それは岡田も同じことだっただろう。気まずい空気が、二人の間に流れる。沈黙を破ったのは、既に梓の手首から手を放していた沢村の、怒りを抑えているかのような低い声だった。普段の、上司や先輩に対する態度とはまるで違う、ひとりの対等な大人の男としての、それだった。
「──────貴方たちは。『俺たちのため』とかもっともらしいことを言って、そうやって俺たちの想いをはぐらかすんだ。『まだ若いから勘違いしてるんだ』なんて、貴方たちは俺たちじゃないのに、どうしてそう言いきれるんです!? 若いからって、人を真剣に好きになる資格はないとでも言うんですか!? そんなのは、ただの貴方たちの思い上がりだ!!」
そこまで一気に言いきってから、治まりきらない怒りを吐き出すかのように、沢村ははあと息をつく。梓は口元を手で覆ったまま、何一つ言葉を発することができない。あまりにも、いま見聞きした現実が衝撃的すぎて。何も答えない岡田に一瞥もくれることなく、沢村はその横を通り過ぎながらやはり怒りを抑えているような低く硬い声で呟いた。
「……千葉は俺が送っていきます。今日はもう、彼女に顔を見せないでやってください。貴方に少しでも情があるのなら」
梓にはひとことも告げることなく、パタン…と静かな音を立てて医務室の扉が閉められる。その一連の動作が、まるで沢村の心から閉め出されたような錯覚を梓に与え、その手を震えさせる。優樹菜が言った「あのひと」とは、沢村のことではなかったのか? いま梓の目前にいるこのひとのことだったとすれば……自分は、とんでもない思い違いをしていたことになる。
それまで無言だった岡田は、いまやっと梓に気付いたかのように自嘲気味にふっと微笑い、中に聞こえないほどの声でそっと囁いた。
「……今夜は…飲みに行こうか──────」
その言葉に、梓はただ頷くことしかできなかった…………。
ついに明かされた意外な真実。
岡田の内心は? そして梓と沢村の行く末は……。




