素顔のままで
───────悔しさと怒りと恥ずかしさが頭の中を渦巻いて。
いま自分の心を占める感情を何と呼ぶものなのか、梓自身にもわからない。
いつだって、冷静ぶって。いつだって、格好つけて。いつだって……いい女ぶって。ホントの自分をさらけだすのは、家の中、それもひとりでいる時だけと決めていたのに。なのに、いまの自分はどうだ? 他のどんな時よりも見られたくないと思っていた泣き顔────それも嬉し涙とか悔し涙とかそんなんじゃなく、たかだか男にフラレた時に堪えられなかった涙を見られて。それもあそこなら絶対に誰にも見られないと思っていた場所に隠れていたというのに、しっかり見られて、他の人からは見られないようにと武士の情け(?)までかけられて。
完全に冷静さを欠いて、感情の昂るままに叫んでいたところを抱き締められて、必死に抵抗をしたにも関わらずすべて抑え込まれて、ほんとうにもうどうしていいのかわからなかった。いままで培ってきたすべてが、足元から崩れた気さえした。自分のすべてをかけて作り上げてきたものなんて所詮砂上の楼閣だったのだと、頭のどこかから声がする。それが悲しくて悔しくて情けなくて、自分でも気付かないうちに、瞳から涙が溢れ出していた。もう、止められないほどに。
「何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────」
いろんな感情がごっちゃになって、もう自分でも何が何やらわからなくなっている梓の耳に、静かな沢村の声が届く。かすかな、安堵感と共に。
すべての鎧も武器もなくなって。取り繕うことさえできない状態なのに。「そのままの自分でいい」と言われた気がした。社会の第一線で戦う者としては、それは失格を意味するのに。武装していなければ、自分さえ保っていられない気さえするのに───────。
「だから、俺は強くなろうと思ったんです。貴女を守りたいなんて、おこがましくてまだまだ言えませんが。せめて、貴女の支えになりたいと……少しでも、貴女のお役に立てるぐらいになろうと─────誓ったんです」
沢村の言葉が、自分の心にどう作用したのかは、梓にはわからなかった。けれど、涙は少しずつ止まり始め、あれほど昂っていた感情さえも凪いだ海の如く静まって行くのを、梓は確かに感じていた。
「他の誰にも、貴女のほんとうの姿を話すつもりなんかありません。貴女を傷つけるつもりなんか……初めからなかった。いや違うな。貴女を傷つけるものすべてから……貴女を守りたかった。いつだって、心から笑ってほしかったんです──────」
もう一度、梓の身体を強く抱き締めながら、沢村は告げた。嘘偽りなど、まるで感じ取れない真剣な声で。
「もう、独りで戦ってほしくなかった。まだまだ頼りにならない俺だけど、いつだって貴女のために持てるすべてをなげうってでも、貴女の盾になりたいと……思ったんです」
そこで沢村は、そっと梓を解放した。梓は化粧が崩れてぐしゃぐしゃになっていることも忘れ、彼の顔をじっと見上げていた。先ほどまでの激情も、すべて忘れたかのように。梓の手を握ったまま、沢村は続ける。
「この間は、初契約がとれて浮かれてました。『何でもいいからご褒美をやる』なんて言われて、つい我を忘れてしまって……貴女が嫌なら、無理に貴女を自分のものにしようなんて思いません。ただ時々、プライベートで会ったり話してくれるのを許してさえもらえれば…………」
優しい、けれど真剣な声。その瞳は誠実そのもので、疑う余地などないように思えた。ほんとうに……沢村の言葉は、気持ちは真実なのだろうかと思い始めたところで、その瞳に映る自分の姿を見てハッとする。
「ちょ、ちょっと待って! いまあたし、めちゃくちゃひどい顔になってるから!! ど、どこかトイレとか洗面所のある場所ない!?」
くるりと沢村に背を向けて、あわてて先刻落としたバッグを拾う。中からコンパクトを取り出して鏡にみずからの顔を映してみると、よくもまあ他人に見せられたものだと自分でも感心するほどのひどい化粧崩れをした顔がそこに映っていた。
「た、確かこの橋を渡った先にコンビニが……」
梓の剣幕に気圧されたような沢村の声を聞くや否や、梓は背を向けたまま歩き出していた。
「とにかく話はあと! 先に化粧直させてっ こんな顔じゃ、電車にも乗れやしないわ!!」
言うが早いか、ほとんど小走りで歩き出す。
「あっ 先輩、待ってください!」
後から追いすがるような沢村の声にも、一度も振り返らずコンビニを目指す。さすがに明る過ぎるほどに明るいコンビニに入る時には、沢村を盾にして後から入り、他の誰にも顔を見せないようにしてトイレへと駆け込んだが。明るいトイレの鏡で改めて見ると、ほんとうにひどい顔をしていて。よくもまあ、沢村はこの顔を見てビビらなかったものだと感心してしまうほどだった。一度携帯用のクレンジングを使ってから、もう一度化粧をし直す。それくらいしないと、とてもではないが直しきれないほどだったから。そして気付く。沢村のスーツにも、顔拓とでもいうのだろうか、とにかくそういうものを、べったり付けてしまったのではないかと。
うあー、まいったー。満員電車から降りた後、たまにみかけるんだよね、たまたま隣り合わせた見知らぬ女にべったり化粧をこすりつけられちゃってるリーマンとか。あたしはずっと気をつけてたってのに、こんなところでやっちゃうなんてー。沢村くんにも悪いことしちゃったなあ、クリーニング代出させてもらわないと。
そもそもそんな事態に陥ったのは、沢村の信じられない告白がきっかけだということをすっかり忘れている梓である。化粧を何とか直してからトイレから出ると、その前の通路で所在なさ気に雑誌をパラ見している沢村の姿が目に入った。
「あ、済みました?」
笑顔が眩しいのは、照明のせいなのか、それとも自分の心のせいなのか。
「……ごめん」
「? 何がですか?」
「スーツ。べったり化粧、付けちゃったよね?」
ほんとうに申し訳なくて小さめの声で言うと、沢村は「何だ、そんなことか」と言いたげな顔で笑ってみせた。
「上着の前を開けてましたから、汚れたのはワイシャツだけで済みましたよ。前さえ閉めちゃえば、全然わかりません」
「でも内側は汚れちゃったよね。クリーニング代は出すから」
「いいですって。そもそもそうなった原因は俺なんですから」
トイレを借りた礼代わりに適当に飲み物を買って、ふたり揃ってコンビニを出る。駅までは、歩いてあと十分くらいだった。
何を話していいのかわからずに、梓は何も言えない。沢村も何も言わない。ふたりでゆっくりと歩きながら、駅へと向かって、電車に乗る。電車の中はちょうど学校帰りや仕事帰りの人たちでごった返していたが、無言のままに沢村が色々と気を遣ってくれて、梓はそれほど辛い思いをしなくて済んだ。最近ではそれが当たり前のようになっていて、いままで気がつかなかったけれど……梓自身が気付かないほどにさりげなく、沢村は自分を労わってくれていたのかと思うと、これまで気付かなかった自分の鈍さが情けなくなってくる。いったい、いつから? やっぱり、あの初冬の日以来なのだろうか。
「じゃ、俺はここで」
乗り換えのために降りた駅で、沢村は笑顔で手を上げる。
「また明日、よろしくお願いします」
「あ、うん。頑張ろうね」
それだけ言って、実にあっさりとふたりは別れる。梓とは違うホームへと向かう沢村の後ろ姿を見つめながら、梓はひとり、つい数十分前のことを思い出す。
『何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────』
素のままの梓でいいと。沢村は言った。虚勢も意地もすべて取り払った、素顔のままの梓でいいと…………。
ほんとうに。このままのあたしでいいのかな。何も気負わない、何も飾らない自分で……。
何だかとても、気分が軽くなった気がした。そんなこと、いままで誰にも言われたことはなかった。いつだって誰だって、梓の見せている面をほんとうの彼女だと思っていて。「支えたい」なんて…ましてや「守りたい」なんて、言われたことはなかった。梓自身が隙を見せなかったせいもあるのだけど。五歳も年下の男の子─────優樹菜と同じく、二十代に入った相手に『子』なんて失礼だけど─────に、甘えても…よいのだろうか。
自分でもわからない感情を胸に抱えたまま、梓はそっときびすを返した。
少しずつ縮まっていくような、梓と沢村の距離…。
梓は果たして素直になれるのか。




