彼女の真実、彼の想い
どうして梓が急にそんなことを言い出したのか。沢村巧にはわからなかった。
「あたしのこと好きだとか何とか言ってたけどさ、それってできる先輩に対するって自分で言うのも何だけどさ…尊敬とか憧れとかなんじゃないの? あたしがたまたま女だったから、勘違いしちゃってるだけなんだよ、きっと」
そんなんじゃないと反論しかけたその時、「学生時代からよくあったしさ」と付け足しのように付け加えられた一言で、沢村はすべてを悟った。
そうか。以前このひとに告白した奴らがそんな奴ばっかりだったから、自分の告白もそれと同じようにとらえられていたのか。冗談じゃない。そんな、彼女の表面だけしか見ていない連中と一緒にされてたまるものか。
「あ…あんたにあたしの何がわかるっていうのよ!? たかだか一年、仕事で一緒に過ごしただけの奴に!!」
普段の梓を知る者が見たら心底驚くに違いないほど、感情をあらわにした叫びだった。沢村だとて、こういう話をしている自覚がなかったら、きっと驚いていたことだろう。だから、彼女を好きになったきっかけを話すことにした。梓本人にしてみれば、絶対に誰にも知られたくない事柄だっただろうけれど、自分がどれだけ本気かわかってもらうために、背に腹はかえられなかった。
突然、脈絡のない話を始めた沢村に、梓は怪訝そうな表情を隠すことなくこちらを見つめてきた。彼女からすれば、当然のことだろう。実際、いままで話していた内容とはかすりもしない、沢村自身の独白のようなものだったから。沢村からしてみれば、あのことがなかったらいまごろ会社を辞めて、彼女のほんとうの姿など知ることもなくそのまま一生を終えていたかも知れなかったのだから、ある意味人生を変えてしまうほどの衝撃的な出来事だったのだ、あの晩のことは。
『─────他に好きなひとができた。別れてほしいんだ』
見知らぬ男の声が聞こえてきた時は、「おいおい、修羅場かよ。勘弁してくれ」としか思わなかったというのに。
『君はひとりでも生きていけるけど。彼女は俺がついていないとダメなんだ』
うわー、すげーありきたりなセリフ。てゆーか、んなセリフいまどきマジで使う奴いるんだ。先輩、男の趣味わりーなあ。
などと、失礼極まりない感想ばかり抱いていた沢村だったが、梓の態度には思わず感嘆し、毅然と立ち去る姿を是非鑑賞したいと思ってそちらを向いた瞬間。いままで感じたことのない何かを梓の横顔から感じ取って、ほとんど無意識に立ち上がっていた。あの時感じたそれが何だったのかは、いまでもわからない。けれど、その時の梓からは、放っておけない何かを感じたのだ。理屈ではなく、心の奥底で。
気付いたら、荷物をすべて持ってレジに向かっていた。財布を開けるのももどかしく、代金を渡して釣りを受け取るわずかな間にコートを羽織り、すぐにでも走れる準備を整える。受け取った釣りを財布に入れている間に、脚は既に走り出していた。ほんの数十秒前に出ていったばかりの梓を追って。彼女に追いついて、どうするのかなど考えていなかった。ただ、いまの彼女をひとりで放っておくことなど、この時の沢村にはできなかったのだ。理由なんて、自分にもわからないのに。
慰めたかった? 励ましたかった? 梓自身は放っておいてほしいかも知れないのに? 同じ会社の、指導係として接している後輩になんて見られたくなかったかも知れないのに? それでも、追わずにはいられなかったのだ。
いない─────? 店を出た時間差はほんの数十秒しかなかったというのに?
自慢ではないが、沢村は決して鈍足ではない。学生時代は、ほとんど毎回リレーの選手に選ばれていたほどだ。しかもいまは、梓の姿を見逃すものかと目を皿のようにしていたのだから、見逃したということもない。となると、どこかそのへんのビルか店に入った? そうだとすると、沢村にはもうどうしようもない。焦りが心を占め始めた沢村の耳に、小さな、ともすれば聞き逃してしまいそうなほどの声が届いたのは、次の瞬間だった。
「……っ ひ…っ」
一瞬、誰かのしゃっくりかと思えるような声だった。けれど、沢村はその声が妙に気になって……気付いたら、そちらに向かって歩みを進めていた。
それは、ビルとビルの間─────通用口が違う側についていて、双方とも壁しかない側でありなおかつその先は突き当たりで誰もいないはずのそこに、沢村は気配を感じた。一瞬ネコか何かかと思ったが、そうではなかった。積み上げられた箱の向こう側で、座り込んでいるらしい女性の脚がちらりと見えて……顔も服装も見えないのに、沢村にはそれが梓だと確信できた。相手に気付かれないように、少しずつ身体をずらして角度を変えて、女性の顔を確認する。
「…っ!」
ほとんど無意識に確信していたが、改めて確認すると衝撃は段違いだった。
あの、梓が。普段は「竹を割ったような性格」と評されて、どんなことがあっても冷静に大人の対応で対処している梓が。まるで小さな子どものように、大粒の涙をぼろぼろとこぼし、けれど嗚咽すら漏らすまいと懸命に声を圧し殺して、こんな…誰からも見えないようなところで独りで泣いているなんて。沢村は、頭を強く殴られた錯覚を覚えるほどの衝撃を受けた。
家に帰りつくまでの時間も耐えられないほど────もしかしたら、あれ以上あの場にとどまっていたら決壊していたほど、梓の中では限界が迫っていたのだろうか? それならば、あの潔さも納得がいく。別れを切りだされて泣いて縋る女性も多いだろうが、既に心変わりをしている男をそれでつなぎとめることができる可能性は限りなく低いだろう。だから梓は、最後まで徹底的に自分のスタイルを崩さず、「いい女」を演じきったのか。相手を想うあまりに困らせたくなかったからなのか、それとも自身のそんな部分を見せたくないという自尊心からなのかはわからない。けれど梓は、完璧に演じきり、誰もが梓は「そういう女だ」と感嘆せずにはいられないほどだっただろう。ほんとうの梓の姿など、誰一人知ることもなく─────これまでもずっと、いまのように陰で独りで泣いていたのだろうか。こんな、お世辞にも綺麗とはいえないような場所で。誰にも気づかれないように声さえ押し殺して。
さりげなく、ほんとうにさりげなく少しずつ身をずらして、ビルの壁の端に寄り掛かるようにして、沢村はポケットから携帯を取り出して着信チェックでもしているような顔をして、いかにも人待ちをしているかのように装ってみせる。沢村のように、ほんの小さなきっかけから梓に気付く人間がいないとも限らない。だから、梓の姿がギリギリ見える位置に自分の身を置いて、他の誰からも梓の姿が見えないように─────梓が気の済むまでそうしていられるように、沢村はいつまでもその場に立ち尽くしていた。そして、梓が身じろぎをして立ち上がろうとする気配を察すると同時に、またさりげなく通行人にまぎれて夜の街に溶け込み、自分とは反対の方向────梓が利用している線の駅がある方向に彼女が向かうのを見届けてから、沢村はそれからようやく自分も帰路についた。
梓が気になりだしたのは、それからだった。
家に帰っても、食事をしていても、テレビを見ていても、頭を占めるのは梓のことばかり。いまごろまた独りで泣いているのだろうか、それとも彼との想い出の品でも放り投げているのだろうか、それともふたりで写した写真でも破っているのか─────考えても仕方のないことだとわかっていても、考えずにはいられなくて。深夜ベッドに入っても、なかなか寝付かれなかった。
寝不足の頭を抱えながら出社した沢村の前に現れたのは、いつもと変わらない────否、変わらないのは態度と笑顔だけで、心なしか化粧もいつもより濃い目で、ケアをしても間に合わなかったのか目元もいくらか腫れていて……目ざとい女性社員に指摘されてもまるで慌てることなく、
「最近買った村上の本が読み終わらなくってさ~。つい夜更かしして読んじゃったよー。おかげで寝不足だわ顔色もよくないわで、さんざん。まあ面白かったからいいけどさ、これで面白くなかったら本放り投げてるところよ」
と普段と変わらずけろりとして答えたから、誰も疑うことなく「あるある」などと笑ってその話はそこで終わりになった。
「沢村くん、何ぼーっとしてんの。ほら、B社さんのアポに遅れるよ、さっさと支度して!」
「は、はいっ!!」
あまりにも。あまりにもいつもと変わらなかったから、沢村のほうが慌ててしまうほどだった。
「あそこは遅れるとうるさいからねー、よく覚えておきなね」
梓の後に続きながら、沢村は思わず自分より頭一つ分低い梓の背を凝視してしまう。いままで意識したことはなかったが、細い…細い肩だった。腕だって首だって、自分のそれとは違い過ぎるほどに細く、力いっぱい抱き締めでもしたら、折れてしまうのではないだろうかと不安になるほどだった。こんな細い身体で、あんなにも深く苦しい悲しみに耐えていたのか。誰にも頼ることなく、誰にも真相を明かすこともなく─────ずっと独りで。
そう思ったら、沢村は堪らなくなった。少しでも、彼女の肩にかかる重圧を減らしてあげたいと思った。彼女の心を苛む憂いを、なくしてあげたいと思った。彼女がほんとうの意味で笑っていられるように、守りたいと思った──────。
橋の欄干に腕を乗せて川を眺めながら、沢村が長い話を終えた時。その耳に、ドサ…と何かが落ちる音が届いた。思わずそちらを見ると、梓の足元に彼女が持っていたさまざまな資料が入っていたショルダーバックが落ちていて、当の梓は真っ赤な顔をして震える両手で口元を覆っていて……その表情は、想い出の中の彼女と同じように初めて見せる、どうしていいのかわからないと言いたげな、戸惑いと羞恥のみに彩られた表情だった。
「──────どう…して………」
梓の唇が、震える声を紡ぐ。
「どうしてよりによってそんなとこ見てるのよ!?」
「だから、偶然だって……」
「偶然でも何でも、そんなとこにいないでよっ 気付かないでよっ」
無茶苦茶な言い分だ。とても梓の言うこととは思えない。
「何で追いかけてくるのよっ 何で見つけるのよっ」
もう、梓自身さえも自分が何を言っているのかわかっていないのかも知れない。
「あんたがそんなことしなければ……そんなこと話したりなんかしなければ、あたしはいままでのあたしのままでいられたのに!」
いまにも泣き出しそうな声と表情だった。あの時と同じ────否、あの時と違って、彼女にそんな思いをさせているのが誰でもない自分だとわかっているからこそ、胸が締めつけられそうになるほどせつないそれだった。気付いたら沢村は走り出して、梓をその胸の中に抱きしめていた。
「は、放してよっ!!」
胸の中で梓が力いっぱいの抵抗を見せるが、沢村は頑として退かなかった。どれだけ胸や腕をたたかれようが、腕を伸ばしてきた梓に何度頬をひっぱたかれようが、絶対にその身体を抱き締める腕の力を緩めることなく、梓が根負けしておとなしくその身を委ねるまで、抱き締め続けていた。
そんなふたりの姿を、ひっきりなしに通り過ぎる車のヘッドライトが照らし続ける。それでも沢村は、ようやく腕の中に閉じ込めた愛しい存在を、強く、けれど決して壊してしまわないように大事に大事に抱き締めていた。他の誰にも渡したくないと思う心のままに。
悲しみからではなく、恐らくは羞恥や屈辱のために涙をこぼし、肩を震わせる彼女の身体を抱き締めながら、彼女の内面を知ったあの日からずっと伝えたかった言葉を、もう一度繰り返す。
「何度でも言います。尊敬や憧れなんかじゃない。等身大の貴女だからこそ、俺は貴女が好きなんです───────」
初めての?沢村くんの内心暴露話です。
守りたいと思った相手ができた時、男は大人へと変貌を遂げるのでしょう。




