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〇〇から始まる恋?


 その日の終業後。軽い残業の後、自分とタッチの差でオフィスを出てしまった後輩を追いかけて、梓は慌ててオフィスを後にする。あの後急ぎの仕事が入ってしまったため、「祝いに飲みに行こう」の一言すら後輩本人に告げることができなかったのだ。


「ちょ…っ 待って、沢村く…!」


 普段は男に負けないほどの仕事ぶりを誇っていても、さすがに女性である梓の脚で男の沢村に追いつくのは、骨が折れた。間にエレベーター一回分のロスを挟んでいるから、なおさらだ。ようやく追いついたのは、駐車場で沢村が自分の車らしいものに乗りかける直前だった。


「坂本先輩!? どうしたんですか、何かご用があるなら、携帯にかけてくれればよかったのに」


「あ」


 言われるまで、完全に失念していた。


「そんなに息切れするほど走って……それほど急ぎの用があったんですか?」


「急ぎって訳でもないけど…いや、初契約のお祝いをさ、してやんなきゃと思ってさ……」


 何とか呼吸を整えながら告げると、沢村は瞬時に驚いたような顔をして。それから、恐縮するような表情を浮かべて、顔の前で両手を振って見せた。


「いえいえ、そんなこといいんですよっ」


「いくないって。誰だって初契約とった時には先輩に奢ってもらって、そんで自分が先輩になった時には後輩に同じことしてやんの。そうやって、順番に回っていくんだよ」


 笑顔でそう言ってやると、沢村は「そういうものですか…」と呟いた。


「そーゆーもんなのっ さ、飲み行こうかって、車だから今日はダメかあ。それとも、代行車代金くらいおまけしたげるから、今日行くのとどっちがいい?」


 言いながら沢村の腕に軽く手をかけると、沢村は一瞬考え込んだような表情を見せて。それから。


「祝いって、飲み以外でもいいんですか?」


 と訊いてきた。


「それは、祝ってもらう本人の意向次第だね。形に残るものがいいっつって物をもらった人もいるし、一緒に遊びに行った人もいるし」


 と、過去の事例を思い出して軽く言っただけだったのだが。まさか、それ以上の衝撃的な要求をされるなんて、この時の梓には思いもよらなかった。


「なら、先輩に一緒に行ってもらいたい場所があるんスよ。ちょっと、ひとりじゃ行けないところで」


「ああ、沢村くんがそれでいいなら構わないよ。あたしでお役に立てるんならいくらでも」


 彼女と行きたい店の下見にでも行きたいのかな、などと梓は考えたので、まったく深く考えずに答えていた。


「で、どこ行くの?」


「とりあえず、助手席に乗ってもらえます?」


「はいはーい」


 やはり深く考えないまま、沢村に促されるままに助手席に乗り込んだ。


 何か変だなと思い始めたのは、車が繁華街とはまるで別方向に進んでいくことに気付いた頃だった。知る人ぞ知る隠れ家的な店なのだろうか?


「ねえ、どのへん向かってんの?」


「もう少しですよ」


 梓も免許は持っているが、普段はペーパードライバーに近いため────営業という仕事柄、場合によっては社用車を運転せざるを得ない場合もあるから、完全なペーパードライバーとも言いきれないのだ─────入り組んだ道にはそれほど詳しくない。だから、気付かなかった。沢村が、どこに向かおうとしているのか。


「着きましたよ」


 車が到着した場所を見て、梓は驚いた。そこは、お店の駐車場などでもなく、市内でよく使われているイベント会場の駐車場であったから。さすがに時間が時間なだけに、イベントもとっくに終わって、広い駐車場にもちらほらと車が点在するのみだが。


「なに、ここ○○プラザじゃないの? こんなとこにお店なんかあんの?」


「あれ、俺どっかの店に行くって言いましたっけ?」


 『他の人の目があるところではあれだけど、二人だけの時は「俺」でも構わないよ、気疲れするでしょ』と前に告げた通り、沢村の口調もくだけたものになっている。


「『ひとりじゃ行けないとこに行く』って言ったじゃん。だから、あたしてっきり、彼女とのデートの下見にでも行くんだと思って……」


「俺、彼女なんていませんよ。好きなひとならいますけど」


 しれっとして言う沢村に、梓の好奇心が刺激される。例の優樹菜ならいいのに、というか優樹菜であってほしいという思いが心を満たしていく。これからずっと、誤解されたままなのはたまらないからだ。


「へえ、そんなひといたんだ。あたしの知ってるひと?」


「よーく知ってるひとだと思いますよ」


 ということは、優樹菜ではないということか。まさか、亮子だなんて言う訳ではあるまいな?


「俺のことばっか訊いて、そういう先輩はどうなんですか。恋人とか好きなひとはいないんですか」


「あたし?」


 予想外の質問だった。


「いないよ、そんなん。いまのあたしは仕事が恋人なのよ~」


 そう答えたとたん、沢村の瞳が意味深な色を浮かべたが、梓は気付かない。


「ところで先輩、シートの左側にあるレバー。ちょっと上に引いてもらえます?」


 梓の向こう側を指差しながら、沢村が言う。梓は何の疑いも持たず、暗くてよく見えない中に左手を差し込んで、ごそごそとレバーを探す。


「レバー、レバー……あ、これかな?」


「それを、ゆっくり上に上げてください」


「はいはい」


 普段車にあまり乗らないから、沢村の意図にまるで気付かないままで、言われた通りにしてしまった。背中を預けていたシートが、ガクン!と勢いよく後ろに倒れて、何の気構えもしていなかった梓の身体も必然的にそれを追うように倒れ込んでしまったために、思わず悲鳴を上げてしまった。


「ひゃあっ!?」


 シートのおかげか痛みはほとんど感じないで済んだが、驚きのほうが大き過ぎて、とっさに目が開けられない。もう何も起こらないことを確認してから、ゆっくりと目を開けたとたん、近くの街灯が車の屋根に遮られてできる影とは明らかに違う影が自分に覆いかぶさっていることに気付いて、ぎょっとする。悲鳴が喉から漏れる前にその正体がよく見知っている人物だということに気付き、何とか悲鳴を喉に封じ込んだ。


「さわむら、くん…?」


 いったいいつの間に倒したのか、隣の運転席のシートも倒されており、そちらに座っていたはずの沢村が、サイドブレーキやシフトレバーを乗り越えてこちら側にやってきていた。梓の身体に体重をかけないように、器用に脚や腕をシートの端について、梓の顔を覗き込むような体勢の彼の顔は、暗さのせいでどんな表情を浮かべているのかわからない。


「─────自分にできることならいくらでもって言いましたよね」


 いつもより低い、感情の読み取れない声。


「確かに言った……けど」


 これいったい、どういう状況? 何か…沢村くん、いつもと違う感じで何だか怖いんですけど。


 突然の沢村の変貌に、梓の思考はついていけない。思考につられて動けないままだった両手首に沢村の手が伸びて、胸の上にあった両手が左右に広げらける。それでも思考は追いつかず、沢村の目的の見当もつかないまま、身体に力が入らない。


「だったら俺、先輩から是非もらいたいものがあるんです」


 言いながら、沢村の顔が近付いてくる。ここまでくるとさすがに目が慣れて、沢村の表情も見えるようになるが、真剣極まりない瞳がそこにあった。


「あ、の……」


「ちょっと黙ってもらえます?」


 思わず黙ったとたん、唇に温かいものが触れて、何も言えなくなってしまった。それが沢村の唇だと気付くのに、きっかり二秒ほどかかってしまい、梓がようやく正気を取り戻した時には沢村の顔は既に離れていて……。


「…ちょっと!? 確かに言ったけど、望みがこんなことだなんて聞いてないわよ!?」


 欲求不満の捌け口なら、よそあたってよ!!


 そう続けて、梓は両手にぐっと力込めた…が、両手ともぴくりとも動かない。抑え込んでいる沢村の力がそれを上回ったためだ。


「そんなんじゃありませんよ」


 落ち着いたままの沢村の声が、密室に響く。


「相手が先輩だから、したいと思っただけです。先輩じゃなかったら、こんなこと思いもしませんよ」


「はあ!?」


 梓の更なる反論は、再び封じられる。またしても近付いてきた沢村の唇によって!


「…っ!!」


 今度はまるで味わうように舌が唇の輪郭をなぞり、一瞬の隙を突いてわずかに開いた唇から中へと侵入してくる。


「…っ んーっ」


 必死に抵抗を試みるが、男の力にはかなわない。奥に引っ込めていた舌まで強引に絡めとられ、存分に口腔を蹂躙されてから、ようやく梓は解放された。互いに少々乱れた呼吸を整えながら、沢村は再び運転席へと戻り、運転席のシートを元通り起こす。


「なん…っ の、真似、よ…っ」


 いまだ整えきれない呼吸の中、途切れ途切れに言いながら、キッと沢村を睨みつける。その視線の鋭さに気付いていないはずもないのに、沢村は平然と「したかったから」と答えた。それを聞いた瞬間、シートを起こしたほうが楽であることも忘れ、梓はみずからの腹筋の力で勢いよく起き上がり、憤怒に燃える瞳で真正面から沢村を見据えた。梓が本気で怒っていることも、この一年の付き合いでわかっているだろうに、沢村はまったく動じることなくその視線をまっすぐ受け止めている。


「ざけんじゃないわよ、アラサーでフリーの女だったら、喜んでほいほいさせるとでも思った!? 女コケにすんのもいい加減にしなさいよっ!?」


「そんなんじゃないって、言ってるじゃないですかっ!!」


 梓の声に負けないぐらいの大声で、沢村が叫び返してきた。それにはさすがの梓も驚いて、一瞬押し黙ってしまう。


「『相手が先輩だからしたいと思った』って、俺ちゃんと言ったじゃないですか。信じてくれないんですか?」


「はあ?」


 梓には、何が何だかさっぱりわからない。


「先輩が好きだからに決まってるじゃないですか」


 さすがにその言葉は恥ずかしかったのか、沢村は夜目にもわかるほどに頬を朱く染めて、ハンドルの上部に両手をかけてフロントガラスの向こう側を見やった。


 好きって……沢村くんが? あたしを──────?


 梓の思考が一瞬止まり、それからじわじわと言われた言葉が心に浸透していく。


「………はああっ!?」


 思わず素っ頓狂な声を出してしまったとしても、梓には罪はないだろう。


「恥ずかしいじゃないですか、あんまり派手に驚かないでくださいよ」


 沢村の言葉を聞きながら、先刻と同じようにレバーを引いてシートを起こして、微調整をして体重をあずけてからそちらを向くと、沢村は気恥ずかしそうな苛立っているような、微妙な表情を浮かべた横顔を見せている。


「あんた何言ってんの?」


 梓の唇が、ほとんど無意識に言葉を紡ぎだしていた。


「あたしといくつ差があると思ってんの? 五歳よ、五歳!」


「わかってますよ」


 間髪入れずに返る、どこか拗ねた響きを残した声。


「まだまだ青二才のくせして生意気言うなっていうんでしょう」


 青二才? 確かに思わなくもないが、それより大きな期待感────今日の初契約の手際といい、こいつは大化けするかも知れないぞ、という、近い将来自分の地位を脅かすのではないかという焦燥感と同じくらいのそれだ────を沢村には抱いていたため、そんなことは頭からすっかり抜け落ちていた。思わずきょとんとした梓に気付いたのか、半ば恐る恐るの表情で沢村が下から梓の顔を覗き込んでくる。


「……違うんですか?」


「つか、経験不足はこれからの頑張り次第でいくらでも埋めていけるというのが、あたしの持論のひとつだけど?」


 ほとんど無意識に持論のひとつを展開した梓の前で、沢村の表情がぱあっと輝いた。それを見た梓は、つい先刻までの流れといまのそれとを結び付けて、ようやくそれが何を意味している言葉だったのかを悟った。しまったと思った時にはもう遅い。気付いた時には、歓声を上げて抱きついてくる沢村の胸の中に閉じ込められていた。


「ちょ、ちょっと沢村くん…!」


「五歳年上だって、俺は全然気にしないっスよーっ! つか先輩なら、十歳年上だって全然構わないぐらいっス!!」


「ちょっと待ってって…!!」


 必死で言い募るが、沢村は止まらない。気付いたら、再び唇を塞がれて、また何も言えなくなってしまった。


 頼むから、あたしの話を聞けっての!!


 梓の頭の中で、昼間聞いた亮子の言葉がぐるぐると回る。総務のユッキーナこと、千葉優樹菜のことだ。あんなに想ってくれている、若くて可愛い同期の女の子がいるというのに、何故自分なのだ? もしかして、頼りになる先輩に対する尊敬の念を、恋と勘違いしているのではないだろうか。そう言ってやりたいけれど、沢村の暴走は止まることなく、梓には発言する隙さえ与えられない。


 まあいまさらこれぐらいで照れる歳でもあるまいし、と梓は延々と続く若さゆえの過ちとしかいいようのない暴走を、冷静極まりない精神状態で受け容れていた……………。



それどころではないことを考えていた梓。それとも現実逃避?

次回、意外?な相手が参戦予定。

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