お兄様、「奪った」ってどういうことですか? ~断罪された弟は、隣国の幼なじみに攫われる~
「私の愛するものから、奪い続けたのは誰だ」
バシン!
思いきり頬を打たれ、凌雪璃は目を見ひらいた。宴の会場は、突然の出来事にざわついている。雪璃はじんじんと痛む頬を押さえ、自分を打った凌承玉を見上げた。
「お兄、様?」
「……雪璃」
自分を冷然と睨む兄は、こんな時でも美しかった。
兄の承玉は、雪璃の四歳上の二十歳。豊かな黒髪を持ち、白い肌は玉のよう。Ωには稀有な長身で、麗しい衣装を見事に着こなしており、翻った紅の袖には、金銀の鳳凰が幽玄に舞っている。
対する弟の雪璃は、淡い茶の髪に大きな瞳の、愛らしい少年である。Ωらしく小柄な体に、丈の合っていない派手な衣装を纏っていた。艶やかな緋牡丹が躍る衣に合わせるよう、丸い目尻や唇に紅を差している。
可憐と言えなくはないが、素材で勝負している承玉に対し、いささか野暮に見えた。
(え~っ? なんで殴られたの~?)
雪璃は、頬を押さえて困惑していた。
たった一人の兄が、ついに婚約するというから。
お祝いしたくて、自分なりに一生懸命髪を結い、とっておきの簪を挿して、お洒落をしてやってきたのに。
そうしたら、承玉が婚約者の王太子と並んで座っているのを見つけたので、「お兄様、おめでとう」って声をかけただけなのに、立ち上がった兄に頬をブッ叩かれたのだ。
頭にハテナを飛ばす雪璃を、承玉の肩を抱く美男子が嘲笑した。
「ふん。色ボケた格好をしてるだけあって、頭が鈍いらしいな」
「へ?」
なんか俺、悪口言われてる?
わけもわからず小首をかしげると、承玉の婚約者である霍天祐は鼻で笑った。
「噂通り、下劣な弟だ。貴様の色仕掛けなぞ、俺には通用しない」
「……はあ~?」
雪璃は、逆方向に首を倒した。
(何言ってんの、このひと~? 妄想きつくない~?)
雪璃の動揺をよそに、承玉はとろけそうな笑みを浮かべている。
「天祐……弟のことを好きになるかと思ってた」
「ふん。誰が、こんなケバケバしい不細工を愛するか」
と目の前でいちゃつきだす二人を、雪璃は胡乱な目で眺めた。
(ほっぺ痛いし、去っていいかな。去ろう)
すたこらさっさと退散しようとした雪璃に目ざとく気づき、天祐は居丈高に「待て」と命じる。
「……なんですか?」
「逃げ足が速いのは悪党の特徴か。皆の前で、承玉への今までの非礼を詫びて貰おう」
「ん?」
ひれいって、なに? またも首をかしげていると、承玉が傷ついたように言う。
「わかんないの? お前が僕に何をしてきたか……」
「えっ、なにかしたっけ?」
雪璃は混乱する。思い出すかぎり、兄の承玉とは良好な関係を築いてきたはずなのだが。
すると、承玉は目尻に涙を浮かべ、手を高く振り上げた。
(うわぁ、またビンタだ!)
とっさに避けようとした雪璃だが、すでに承玉の友人の弘毅に羽交い絞めにされていた。
「逃がすか!」
「ちょ、ちょっとぉ……ふぎゃ!?」
逆の頬も強かに張り飛ばされ、雪璃は悶絶する。
「痛いよ! 何するの~?」
「うるさい! 承玉はもっと痛かったんだぞ!」
弘毅が涙ながらに叫ぶ。
痛む両頬を押さえ、雪璃は狼狽して尋ねた。
「俺が何したって言うの~?」
「本当に分からないの? 酷い……」
承玉の黒い瞳が、傷ついたように揺れる。
さっきから、リアクションするばかりで、ちっとも核心に迫らない承玉に、雪璃は困り果てた。いったい、お兄様は俺の何に怒ってるんだろう?
(俺は、お祝いに来ただけなのに~!)
承玉のかわりに、天祐と弘毅が軽蔑に塗れた声で雪璃を糾弾する。
「奪う側からすると、大したことはないんだろうな……ならば、その空っぽのおつむに解るように説明してやる。……お前は、承玉の大切な衣や宝石を奪い、しまいには婚約者まで奪ったのだろう!」
激昂する天祐の声に、周囲はざわつく。
「ええ? 雪璃殿は、そんな真似を?」
「何て我儘なんだ」
宴席のあちこちから、非難の声が上がる。弘毅も言う。
「今着てる衣だって、もともとは承玉のものだったんだろ!? ご両親に甘えて、自分のものにしたんだってな!」
「浅ましい奴め。美しい承玉が羨ましかったのだろうが……貧相な貴様には、ちっとも似合っていない。下品で残念な仕上がりだ」
天祐は雪璃の容姿を鼻で笑う。「たしかに華美なだけよね」と周囲に追い打ちをかけられ、雪璃は羞恥で真っ赤になり、抗議する。
「ひどい、そんな言い方……!」
「黙れ。承玉は凌家の正当な後継者だ。それなのに貴様は分を弁えず、承玉の大切なものを奪い続けた! その罪は軽くないぞ」
天祐は嗜虐的な笑みを浮かべ、彼の最愛の肩を抱いた。
承玉もまた、涙のたまった目で雪璃を睨んでいる。麗しい承玉の弱弱しい姿は可憐で、周囲は感嘆の息を漏らした。
「承玉様に謝れ!」
ヒートアップする宴会場に、雪璃は目を丸くし、慌てて叫ぶ。
「うそ……俺、そんなことしてないよ~!」
間の抜けた抗議が宴席に響き、客たちから失笑が漏れた。
「ふざけないで!」
承玉は立ち上がり、さらに手を振り上げる。言葉よりも手が先に出る承玉に、雪璃は「ひゃあ」と悲鳴を上げ、飛びすさった。
「やめて~!」
「やめてって……僕がそう言って、止めてくれたことあった? いい加減に、自分のしたことをみとめて!」
兄は涙ながらに弟を叱責する。必死の逃亡空しく、弘毅に捕まった雪璃は、今日の為に整えた髪から簪を抜き取られてしまう。
「ああっ、返して!」
「何言ってるの。この簪は、僕のものでしょう? それに、この衣も……宝石も全部……雪璃が僕から取っていったものじゃないか!」
「な、何を言ってるの、お兄様? これは俺のだよ~?」
罪を認めない雪璃に、周囲から大ブーイングがわき起こった。
「承玉様に返せ!」
怒号に、杯まで飛んできて、雪璃は頭から酒を浴びた。塗りたくった化粧が溶け、無残な顔を嘲笑が包む。
「無様だな。他人のものを奪った報いだ」
天祐の侮蔑を浴び、雪璃はついに涙をにじませる。
(どうして。俺が何をしたの~?)
しくしく泣いている雪璃を、天祐は警備の者に命じて追い出そうとする。
その瞬間――ばたん、と大きな音を立てて扉が開いた。
「失敬、遅れました……って何の騒ぎだ、これは?!」
遅れて会場にやってきたのはこの宴席に招かれていた客の一人――孫衛龍だ。
凌兄弟と幼馴染である彼は、切れ長の目を見ひらいている。
**
「わーん、衛龍~!」
地獄に仏、と雪璃は涙する。隣国の貴族である衛龍は、最近結ばれたばかりの恋人だった。
祖国で急用があり、遅刻してきた彼は、目の前の惨状に驚きの声を上げる。
「雪璃! 何があったんだ?!」
ぼろぼろの雪璃をみとめ、衛龍は秀麗な顔を険しくする。
「これはどういうことです! この国の宴の作法が、これほど野蛮とは知りませんでしたが?」
雪璃を抱きしめ、周囲の目から庇いながら衛龍は厳しく抗議した。
流石に、隣国の貴族に見せるものではなかったと周囲が慌てる中――王太子である天佑だけは、意気軒高に迎え撃つ。
「何も知らぬ外野は黙ってもらおう。いや……貴殿はその泥棒にまんまと騙された当事者か?」
「……なんだと?」
不快そうに眉を顰める衛龍に天祐は続けた。
「貴殿が、婚約者である承玉を捨て選んだそのΩは、承玉のものを奪い続けた泥棒なのだ」
傲然と言い放つ天祐に、周囲は喝采を送る。
「天祐……ありがとう」
隣国の有力貴族相手にも怯まない男らしいパートナーに、承玉は目を潤ませる。そして、かつての”婚約者”を冷たく見据えた。
自分を捨て、雪璃を選んだ薄情な男――承玉は黒い瞳に軽蔑をこめて言う。
「僕はもう、貴方に興味はありません。ただ、伴侶をないがしろにするような、信用にかく行動はやめることを勧めます」
承玉の毅然とした態度を、周囲は賞賛する。雪璃は、うっとしゃくりあげた。
「やめて~……衛龍をわるく言わないで~!」
「お前のせいでしょう、雪璃。お前も、これからは甘えるばっかりでいられないんだから。自分の行いを改めなさい!」
承玉の厳しい言葉に、打ちひしがれる雪璃。
天祐も弘毅も、大切な承玉を傷つけた泥棒をやり込めて、勝利の笑みを浮かべていた。
(お兄様、どうしてこんなことするの? 俺のせいで、衛龍まで嫌なこと言われてる……)
この仕打ちは、あんまりだと思った。
だって、兄弟なのだ。雪璃だって、承玉を兄と慕うからこそ、思うことはあっても耐えてきたのに……。
惨めな泣き顔を見られたくなく、長い袖で隠す雪璃を、衛龍が抱きしめる。
「大丈夫だ、雪璃」
「衛龍……」
優しい笑みを浮かべ、雪璃を慰めた衛龍は、一転して冷たい声で言った。
「さっきから、出まかせを言うのはやめてもらおう。雪璃が承玉殿のものを奪った? そんな事実はありはしない」
衛龍の言葉に、周囲は紛糾する。
「そんなはずあるか!」
「実際に奪ってるだろう!」
激しい怒号が飛ぶなか、余裕の笑みを浮かべた天祐が言う。
「事実はない、か。自分の選んだΩが外れだと思いたくないようだ」
衛龍の苦し紛れと高をくくっている。しかし、衛龍は毅然と胸を張った。
「その言葉、そっくり返す」
「……何?」
瞬間湯沸かし器のごとく気色ばむ天祐に、衛龍はため息を吐く。
「まず、私は承玉殿と婚約などしていたことは、ない。たしかに、親同士の親交があり、幼いころから家を行き来していたが……私は最初から雪璃と愛し合っていたんだ」
衛龍の発言に、周囲がざわつく。弘毅は「嘘だ!」と叫んだ。
「嘘じゃない。私と承玉殿の年が近いので、最初は私達を婚約者にと考えていたそうだが……出会ってすぐの話で、とっくに立ち消えているよ。なにより、」
衛龍は微笑んで、雪璃を愛おしそうに抱き寄せる。
「私は”雪璃を愛してる”とずっと態度に出しているのに、どうして誤解をするんだ?」
「衛龍……」
袖で涙を拭われ、うっとりと微笑む雪璃。
承玉は、屈辱に顔を真っ赤にした。しかし言われてみれば、両親にも「孫家との縁組を考えているがどうか」と聞かれただけで、衛龍の相手が承玉だとは言われていない。
苦し紛れに、叫ぶ。
「……じゃあ、なんですぐに婚約しなかったの!? それなら、誰も誤解しなかったのに……!」
「それは、そちらのご両親が”承玉が幸福を得てからにしてほしい”と仰ったので」
衛龍に水を向けられた両親に、視線が集中する。彼らはばつが悪そうに肩を丸め、雪璃を睨んだ。
「だって、兄より先に嫁ぐなんて弁えがないでしょう。承玉は繊細なところがあるし、弟に先を越されるなぞ、可哀想だと思ったんですよ……」
「なんと……」
ぼそぼそと謝る彼らに、天祐は少し不安になった。自信満々で突っついていた藪に、でかい蛇がいるのではないか、という不安だ。
「……しかし! そもそも雪璃が疑わしいせいではないか! 承玉のものを奪い続けたことは事実!」
だが、もう止まることは出来ず、その不安を原動力に追及をする。
「そうです! 承玉のお気に入りの衣、宝飾品もすべて、そいつは横取りしたんだ! しかも、盗った後はすぐに飽きて、売り払う癖に!!」
弘毅も加勢する。
しかし衛龍は平然と言う。
「雪璃は何も奪っていません。私も、凌兄弟とは幼なじみなので知っている。むしろ、与えられず奪われてきたのは雪璃の方だというのに」
衛龍は厳しい目で、承玉を睨んだ。狼狽えたように、目を伏せて天祐の背に隠れる承玉を見据えたまま、衛龍は声を張り上げた。
「見なさい、この衣を……! 雪璃の好みどころか、丈すら合っていないではありませんか。こんなものを、本当に欲しがると思いますか?」
衛龍は雪璃の肩を抱き、満座に衣装を見せる。
客たちは、まじまじと見つめ――衛龍の言葉が大げさでないと思った。長身の承玉に合わせて作られた衣は、小柄な雪璃が着るととても不格好だ。帯でたくし上げたり、裾を詰めたりと工夫を凝らしているため、あからさまではなかったが。
「これは、承玉殿が新しい衣装を着るために、雪璃が我慢した結果です」
「衛龍……」
雪璃は、衛龍の怒りに自分への気遣いを感じ、涙した。
衛龍は真相を話し始める。
凌家は、家格ばかり高い貧乏貴族だ。
しかし承玉は、彼を溺愛する両親によって、常に最高のものを与えられていたのである。高い教育、広く暖かい寝台、最高の薬師を雇って作らせた薬膳。そして、宴のたびに最高の衣を誂えて……。
「承玉。お前には、必ず良い嫁ぎ先を見つけてやる」
そんなだから、弟である雪璃はいつも二の次だった。
「雪璃。お前は承玉の世話になるのだから、謙虚でいなさい。その衣だって、本来お前が袖を通せる品物じゃないんだよ」
隙間風の吹くがらんどうの部屋で、兄のおさがりの衣を渡されるたび、雪璃は少し寂しかった。
似合わない衣は、両親が自分にまるで期待をしていないことの表れに思えたし。その衣さえ、すぐに家計の助けに売られて、手元に残らないのだから。
(俺のことも見て)
と幾度も弱音が喉から出かかった。
「わあ、素敵な衣装……! ありがとう。お父様、お母様。大切に着ますね」
けれど、そんな自分はきっと贅沢なのだと恥じ、両親と兄からの厚意を、雪璃は笑顔で受け取って来た。
身の丈に合わず、艶やかすぎる衣装は、彼本来の魅力を損なう。
ならば化粧でもすれば、よく見えるだろうか。裾を詰めればどうだろう、と。雪璃なりに苦心して着こなしても、「品がない」と陰口を叩かれることさえあった。
心無い言葉に傷つき、庭園の片隅で蹲る雪璃を、いつも探し出して涙を拭いてくれたのは衛龍だ。
「いつも最高の衣を着るあなたの隣で、どれほど雪璃が惨めな思いをしていたか解らないんですか。それでも、承玉殿が喜ぶならと、雪璃は文句を言いませんでしたよ。似合わない衣を「嬉しい」と受け取って……その優しさが貴方には届いていなかったようですが」
衛龍の言葉に承玉は狼狽える。
その通りだった。
承玉は両親からの期待を一身に背負い、厳しく育てられた。だから、ろくな躾も受けず、へらへら笑って後をついてくる雪璃が憎らしかったのだ。
何の努力もせずに、自分のお気に入りの衣を両親から与えられ、満面の笑みで受け取る雪璃。自分の大切なものだと知っていて、あんな風に喜べるなんて……なんて嫌な子なんだろう、と。
「だ、だって……大切な衣だったから。新しい衣なんかより、僕は……」
「なら、そう言えば良かった。そうしたら、雪璃が一度くらいは新しい衣を貰えたでしょうにね」
衛龍にぴしゃりと言われ、俯く承玉の肩を抱き、弘毅が言う。
「百歩譲って、衣はそうかもしれないけど、宝飾品はどうなんだよ?!」
「それは、もともと雪璃のものです」
衛龍は淡々と返す。
「出まかせを言うな!」
「待って、弘毅さん」
気色ばむ弘毅を、雪璃が遮った。衛龍に勇気を貰ったのだ。
衛龍が戦ってくれているのに、泣いてばかりいたくないと――雪璃は一歩前に出る。
「お兄様が持ってる簪を見て。そして、お兄様が差しているものも……それは、おばあさまが兄弟で分ける様にってくれたんだよ~……!」
見れば、その簪はたしかに雪璃の名が彫られていた。
そう――雪璃が奪ったとされる宝飾品は、もともとは彼らの祖母が大切にしていた宝具だった。
孫を平等に可愛がっていた祖母は、「仲良く分けるように」と遺言し、ふたりの花嫁道具として細工し直したのだ。
「おばあさまの遺言のとおり、しただけだよ? どうして……」
雪璃はずっと不思議だった。
承玉が、大好きな祖母からもらった宝飾品を「返して」と、勝手に持っていくことが。耳飾りも腕輪も、すでに持っていかれ、残っていたのは簪だけなのだ。
これだけは、長らく衛龍に預かってもらっていたので手元に残っていた。
「承玉……どういうことなんだ?」
天祐は困惑し、承玉に尋ねる。
彼は今まで、承玉から「弟に大切な形見をとられた」と聞いており、非道な行いをする弟に憤っていた。聞いていた話と違う――天祐の困惑を感じ取った承玉は、ついに滂沱の涙をこぼし、訴えた。
「だって……! 雪璃にも分けろだなんて、酷いじゃないか」
悲痛な声が、部屋中に響きわたる。
みな、はっと固唾を飲んだ。
「おばあ様は、雪璃が生れるまえは、僕だけにくれるって言ったんだよ。なのに……こいつが生れたら、仲良く半分に分けろなんて、裏切りじゃないか……! 雪璃がいなきゃ、全て僕のものだったのにっ……雪璃が、僕からおばあ様を取ったんだ……!!」
承玉はそう叫んだっきり、大声で泣き出した。
厳しい祖母が、「承玉が嫁入りする時にあげる」と言った宝具だったのに。
幼かった承玉は、その約束に自分の頑張りを認められた気がしたのだ。宝具を励みにすれば、厳しい教師からの叱責も耐えられると思った。
それを、あとから生まれてきただけの雪璃に、「可哀そうだから分けてやれ」と言われたことは、酷い裏切りだった。
雪璃さえいなければ――!
床に突っ伏して泣く承玉に、雪璃は瞳を揺らす。
「……お兄様」
「雪璃」
駆け寄ろうとした雪璃を、衛龍が止める。
承玉にどんな思いがあれ、雪璃を逆恨みし、奪い続けたのは事実である。
それに、承玉もまた知らないのだ。
召使を雇う余裕のない家で、承玉が貴族らしく過ごせたのは、雪璃が一手に家事を担っていたからだと。その仕事以外に、雪璃はいっさいの期待をかけられなかったことも。
それでも、恨み言を言わず……寒空で箒を握りながら、漏れ聞こえる授業に耳をそばだて、懸命に四書五経を暗唱していたことも。
そんな雪璃に感心した祖母が、「これもまた、孝行息子じゃ」と認めてくれたのだと――。
「承玉様……おかわいそうに!」
ふいに、誰かが声を上げた。
麗しい承玉が身も世もなく泣いている姿は、憐れみを誘う。むしろ、あれほど凛とした方が泣くのだから、余程の哀しみに違いないと顔を見合わせた。
「雪璃殿は、宝具を返すべきだ!」
「そうだ! 世話になった兄上を苦しめるなど、なんて弟だ!」
周囲はまた、美しい承玉の哀しみの原因に、怒りを募らせ始めた。
天祐と弘毅もまた、予想外の事実と直面したことも忘れ、目を潤ませた。
「泣かないで、承玉! かわいそうに……許さないぞ、雪璃!」
「本当にそいつの心が清いというなら、承玉に遠慮したはずだ! 何も努力しないものが、頑張ってきたものから奪うのが、正しい道理か? 孫衛龍、貴様の下らん道理で、口出ししないでもらおう!」
互いを庇うよう抱き合う衛龍と雪璃に、皆が裁きの礫のごとく、非難の言葉を投げる。
すでに彼らの中では、承玉が善で、雪璃が悪であることは動きようがない事実だった。
「……やっぱり、話にならないな。雪璃、予定通りこのまま私の国へ行こう」
涙を流す雪璃の手を、呆れ顔の衛龍がしっかりと握る。
「衛龍……」
「泣かないで、可愛い璃々。両親も、ずっと君を待っているよ」
温かな笑顔をむけられて、雪璃は涙を拭い、微笑みかえした。
もともと、兄の婚約を見届けて、雪璃は衛龍と共に隣国に渡る決意をしていた。
衛龍が雪璃の扱いを見かね、この家から攫うと――ずいぶん前から、決めていたのだ。結婚式も隣国で行い、雪璃を二度と家には帰さないつもりで。
ただ、雪璃を愛する彼がすぐに行動出来なかったのは、
(お兄様が、ご結婚するの……ちゃんとお祝いしたかった……)
ほかならぬ雪璃が、兄が結婚するまでは実家にいたいと願っていたからだ。
承玉に対し、今までなにも思わなかったわけじゃない。どうして自分に冷たいのだろう、と不思議で悲しかった。
それでも、雪璃は兄の幸せを願ってきたから……彼が幸せになるのを見届けて、去りたかった。
だが、それは過ぎた願いだったらしい。
「さよーなら、お兄様……」
どうかお幸せに。
雪璃は衛龍とともに、紛糾する宴会場を後にした。そして、もう二度と戻らなかった。




