第2話『捨ててしまった楽譜』
乾いた電子音が、静まり返ったオフィスに響いた。午後九時。タイムカードを切る音だ。
橘里美は、強張った肩を回しながら、ガラスドアを押し開けた。
二十九歳、経理部勤務。一日中、数字と睨めっこをして、一円のズレもないように帳尻を合わせる。それが彼女の仕事だった。
安定はしている。給料も悪くはない。 だが、この手の中に残るものは何もない。
駅へと向かう大通り。 冬のイルミネーションが、疲れた目に眩しい。
ふと、里美の足が止まった。
大手楽器店のショーウィンドウ。 そこに貼られた一枚のポスターに、見覚えのある顔があったからだ。
『新進気鋭のピアニスト・高橋麻衣 来日リサイタル』
ドレスに身を包み、自信に満ちた笑顔でピアノの前に座る女性。かつて、里美と同じピアノ教室に通っていた、同い年のライバルだ。
…十年前までは、実力は拮抗していた。いや、技術だけなら里美の方が上だったかもしれない。
「……ずるいなあ」
ポスターのガラスに映る、自分の地味なオフィスカジュアル姿と見比べる。
あの日。 音大への推薦がかかったコンクールの前日、プレッシャーに押し潰されて、ピアノの蓋を閉じたあの日。
逃げ出した自分と、戦い続けた彼女。 その差が、このガラス一枚の向こう側とこちら側を隔てている。
「もし、あのまま続けてたら……」
私が、あのスポットライトを浴びていたのかもしれない。 喝采と花束。煌びやかなステージ。
数字合わせの毎日ではなく、魂を震わせる音楽の世界に生きていたはずなのに。
未練がましい溜め息をつき、里美は再び歩き出した。
だが、ポスターの残像が頭から離れない。 どこかで道を間違えたのだろうか。 それとも、別の道なんて最初からなかったのだろうか。
考え事をしていたせいだろう。 気づけば、里美は見知らぬ路地裏に立っていた。
「あれ……ここ、どこだっけ」
大通りの喧騒が遠ざかり、静寂が満ちている。 引き返そうとした視界の端に、温かな光が灯っているのが見えた。
古ぼけた木の扉。 控えめな行灯の看板。
『アーカイブ・アノトキ』
不思議な店名だ。 バーだろうか。それとも、カフェだろうか。
普段なら通り過ぎるはずのその店に、なぜか里美は惹きつけられた。 まるで、そこに行けば、置き忘れてきた何かが見つかるような気がして。
カラン、コロン。
扉を開けると、深海のように静かなベルの音が響いた。
コーヒーと古紙の香り。 そして、壁一面を埋め尽くす、黒いビデオテープの群れ。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥から、涼やかな声がした。
店主と思しき若い男性が、読んでいた文庫本を閉じ、静かに微笑んでいた。 細身のシャツ姿。年齢不詳の、どこか浮世離れした美しさを持つ男だ。
「……変わったお店ですね。ビデオ屋さん、ですか?」
里美が恐る恐る尋ねると、店主――常盤は、ゆっくりと頷いた。
「ええ。ここは『アーカイブ・アノトキ』。お客様が選ばなかった過去を、記録として保管している店です」
「選ばなかった、過去……?」
里美は首を傾げた。 常盤はカウンターから身を乗り出し、里美の手元をじっと見つめた。
彼女が握りしめていた、通勤バッグの持ち手。 その指先を。
「……綺麗に爪を切り揃えていらっしゃる」
「え?」
里美は慌てて手を引っ込めた。 ピアノを弾かなくなって久しいが、深爪する癖だけは抜けずに残っている。
「事務仕事には向きませんが……鍵盤を叩くには、良い指だ」
常盤の言葉に、里美の心臓が跳ねた。
「な……なんで」
「聞こえますよ。あなたの指先が、まだ歌いたがっている音が」
常盤は、悪戯っぽく目を細めた。
「捨ててしまった楽譜の続き、気になりませんか?」
「捨ててしまった楽譜の、続き……」
里美は、無意識に自分の指先をさすった。
あの日、コンクールの会場から逃げ出した時、ゴミ箱に捨てたショパンの楽譜。もし、あのままステージに立っていたら。もし、逃げずに音楽と向き合っていたら。
「見られるんですか? 私が、プロになっていた未来を」
「ええ。当店にあるのは、あらゆる可能性の記録ですから」
常盤は棚に手を伸ばし、迷わず一本のビデオテープを抜き取った。 黒いVHSテープ。 その背表紙には、白い文字でこう書かれていた。
『ピアニスト』
その単語を見ただけで、里美の胸が締め付けられた。 かつて自分が何よりも憧れ、そして自ら手放した肩書き。
「料金は500円。視聴時間は一時間。……ただし」
常盤の声が、少しだけ低くなった。
「このビデオを見ても、現実は何も変わりません。あなたは、明日も会社に行き、数字を合わせる日々に戻る。……それでも、よろしいですか?」
残酷な確認だった。
夢のような世界を見せられた後で、この退屈な日常に戻ってくる苦しみ。それに耐えられるか、と問われているのだ。
里美は唇を噛んだ。 明日も、明後日も、事務仕事の毎日だ。
それでも。 一度だけでいい。自分がスポットライトを浴びて、大観衆を沸かせる瞬間を見てみたかった。 「逃げた女」というレッテルを、自分の中から消し去りたかった。
「……見ます。お願いします」
里美は財布から五百円玉を取り出し、カウンターに置いた。 常盤は静かに微笑み、店の奥にあるカーテンを開けた。
「承りました。……では、良い旅を」
個室に入ると、そこには革張りのソファと、旧式のビデオデッキがあった。 里美は震える手でテープを差し込んだ。
ウィーン…ガチャン。 機械音が鳴り、モニターに砂嵐が走る。
―――― ▶ PLAY 00:00:00 ――――
────────────────────
────────────
──────
視界が白く染まり、里美の意識は十年前へと引き戻された。
場所は、コンクールの舞台袖。 心臓が早鐘を打っている。逃げ出したいほどの緊張感。 現実の私は、ここで踵を返して逃げ出した。
だが、この世界の私は違った。
深呼吸を一つ。 そして、光の溢れるステージへと、堂々と歩き出したのだ。
ピアノの前に座る。鍵盤に指を乗せる。 最初の一音が響いた瞬間、迷いは消えた。
指が踊る。魂が歌う。 弾き終えた瞬間、ホールを揺るがすような万雷の拍手が降り注いだ。
――私は、勝ったのだ。
そこからの人生は、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。
コンクール優勝、音楽大学への特待生入学、海外留学。パリ、ウィーン、ニューヨーク。世界中の檜舞台が、橘里美を待っていた。
場面が飛び、二十九歳になった里美は、東京のサントリーホールの控え室にいた。
鏡の前には、煌びやかな深紅のドレスを纏った自分がいる。メイクは完璧。髪もセットされている。
さっき見たショーウィンドウの高橋麻衣よりも、ずっと華やかで、自信に満ち溢れていた。
「橘さん、そろそろ出番です!」
「はい、今行きます」
スタッフの声に応え、里美は立ち上がった。
ステージに向かう通路。漏れ聞こえる二千人の観客のざわめき。
これだ。私が欲しかったのは、この高揚感だ。
退屈なオフィスで、電卓を叩く人生じゃない。何千人もの心を、私の指先一つで支配する。この全能感こそが、私の生きる場所だったんだ!!
里美はステージへの扉を開けた。目も眩むようなスポットライト。割れんばかりの拍手。
最高だ。 私は、夢を叶えたんだ――。
……しかし。 ピアノの椅子に座り、鍵盤に手を置いた瞬間。
里美の表情が凍りついた。
指が、痛い。
ズキズキと、神経を直接焼かれるような激痛が走った。 腱鞘炎だ。それも、かなり酷い。
だが、弾かないわけにはいかない。 会場には批評家も来ている。スポンサーもいる。チケットは完売しているのだ。
(弾かなきゃ。 完璧に。ミスは許されない)
里美は、痛み止めで麻痺しつつある指を、無理やり動かした。 奏でる音楽は、超絶技巧の難曲。 観客が求めているのは「感動」ではなく、「橘里美の圧倒的なテクニック」だ。
一音でも外せば、ネットで叩かれる。 ライバルたちに嘲笑われる。 今の地位から転がり落ちる。
怖い。 鍵盤が、まるで鋭利な刃物のように見えた。
演奏が終わり、拍手が響く。 里美は笑顔を作って立ち上がり、優雅にお辞儀をした。
だが、その心の中は冷え切っていた。
――全然、楽しくない。
控え室に戻ると、マネージャーが血相を変えて飛んできた。
「里美! 第2楽章、テンポが遅かったぞ! 批評家の先生が首を傾げてたじゃないか!」 「……すみません、指が痛くて」 「言い訳はいい! 来月はヨーロッパツアーだぞ。代わりなんていくらでもいるんだ、しっかりしろ!」
怒号と共に、スケジュール表を投げつけられる。
休みはない。練習、移動、演奏、また練習。 友人と食事に行く時間も、恋人とデートする時間もない。 そもそも、友人なんていなかった。周りは全員、蹴落とすべきライバルか、私を利用しようとする大人たちだけ。
里美は、鏡の中の自分を見た。
厚いメイクの下の肌は荒れ、目は落ち窪んでいる。華やかなドレスの下の体は、ストレスでガリガリに痩せ細っていた。
「……ピアノなんて、嫌い」
本音が、口をついて出た。
あんなに大好きだったピアノが。 私の心を自由にしてくれた音楽が。 今では、私を縛り付け、痛めつける「呪い」になっていた。
(弾きたくない。もう、一音だって弾きたくない……!)
里美は耳を塞いで、その場にしゃがみ込んだ。栄光の頂点は、孤独で、寒くて、どうしようもなく息苦しい牢獄だった。
その時、ふと、視界の端に何かが映った。控え室のテレビモニターに流れている、バラエティ番組のニュース映像だった。
『駅ピアノで奇跡! 通行人の演奏に拍手喝采!』
画面の中で、制服姿の男子高校生が、駅に置かれたピアノを弾いていた。 曲は、流行りのポップソング。
プロの里美から見れば、粗だらけの演奏だった。ミスタッチはあるし、リズムも走っている。ペダルの使い方も雑だ。
「……下手くそ」
無意識に呟いた。
だが、画面の中の高校生は、顔をくしゃくしゃにして笑っていた。 周りを取り囲む通行人たちも、手拍子をして、心から楽しそうに体を揺らしている。
そこには、批評も、採点も、失敗への恐怖もない。 ただ純粋な、「音を楽しむ」という空間があった。
里美は、ハッとした。
(私、最後に笑ってピアノを弾いたの……いつだっけ?)
思い出せない。 このもしもの世界に来てから、一度だって心から笑って演奏した記憶がない。
いつだって、評価されるのが怖くて、間違えるのが怖くて。 ピアノは私にとって、戦うための武器でしかなかった。
――ズキリ。
現実世界の記憶が、脳裏をよぎった。
六畳一間の狭いアパート。部屋の隅に置かれた、中古の電子ピアノ。仕事から帰った里美は、缶ビールを片手に、適当な鼻歌交じりで鍵盤を叩いている。
『里美、なんか弾いてよ』
遊びに来ていた恋人の健太が、ソファから声をかける。彼は音楽のことなんて何も分からない。ドビュッシーとショパンの区別もつかないような男だ。
『えー、酔っ払ってるから下手だよ?』
『いいじゃん。俺、里美のピアノ好きなんだよ。なんかこう、落ち着くんだよね』
里美は照れ隠しに笑いながら、ジブリ映画のテーマ曲を弾き始める。
指はなまっているし、たまに音も外す。けれど、健太は目を閉じて、気持ちよさそうに聴き入ってくれる。 弾き終わると、「やっぱ上手いなあ!」と無邪気に拍手をしてくれる。
その時、私の胸にあったのは何だった? 優越感? 違う。 義務感? 全く違う。
あれは、安らぎだ。 誰かのために弾き、誰かが喜んでくれる。 ただそれだけの、ささやかで、温かい幸福。
「……そうか」
里美は、震える手で自分の胸を押さえた。
私は、逃げたんじゃなかった。 あの日、コンクール会場から逃げ出したあの足で、私は守ったんだ。
「ピアノを嫌いにならない未来」を。 「音楽を一生、好きでいられる自分」を。
このもしもの世界の私は、世界的な名声を手に入れた代わりに、音楽を愛する心を失ってしまった。
現実の私は、何者にもなれなかったけれど、ピアノを愛し続けている。
どちらが幸せかなんて、比べるまでもなかった。
「……やだ」
里美は立ち上がった。
「もう、弾きたくない。誰かの採点のために弾くピアノなんて、もう嫌!」
私は帰りたい。 あの狭いアパートへ。 下手くそでも、間違えても、笑って許してくれる、あの優しい音楽のある場所へ!
「帰して……!」
里美の叫びと共に、深紅のドレス姿の視界が歪んだ。 華やかな控え室が、砂嵐の彼方へと消えていく。
────
──────────
──────────────────
─────────■ STOP─────────
ガチャン。
重たい機械音が響き、里美は『アーカイブ・アノトキ』の個室に戻っていた。 頬には、涙が伝っていた。 けれどそれは、悔し涙ではなかった。
里美は個室を出て、カウンターへと向かった。 常盤が、静かにコーヒーカップを磨いている。
「お帰りなさいませ。……いかがでしたか? 栄光のステージは」
「……凄かったです。夢みたいでした」
里美は、涙を拭って笑った。憑き物が落ちたような、晴れやかな笑顔だった。
「でも、私には荷が重すぎました。……私、プロにならなくてよかったんですね」
「それはまた、どうして?」
「プロになった私は、ピアノを『敵』だと思っていました。でも、今の私は、ピアノが『友達』なんです」
里美は、自分の指先を愛おしそうに見つめた。 深爪の、不格好な指先。けれど、この指はまだ、音楽を愛している。
「私、これからも趣味で弾き続けます。……おばあちゃんになっても、下手くそなままで」
「ええ。それが良いでしょう」
常盤は満足そうに頷くと、一本のビデオテープ――『ピアニスト』と書かれたそれを、棚の隙間へと戻した。カタリ、と音がして、栄光の可能性は永遠に眠りについた。
「音楽の神様に愛されるのも素敵ですが……音楽と『仲良し』でいる人生も、また一つの幸福ですからね」
「はい! ……ありがとうございました」
里美は深々と頭を下げ、店を後にした。
外の空気は冷たかったが、今の里美には心地よかった。 彼女は大通りに出ると、スマホを取り出した。 恋人の健太にメッセージを送る。
『今から家行っていい? ピアノ、聴かせたい気分なの』
既読はすぐについた。 『もちろん! ビール冷やして待ってる』
里美はスマホを握りしめ、走り出した。
イルミネーションの輝く街へ。 華やかなステージはないけれど、世界で一番温かい観客が待っている場所へ。
路地裏の店『アーカイブ・アノトキ』の看板が、フッと静かに消灯した。




