第1話『あの日、渡せなかったラブレター』
十一月の冷たい雨が、容赦なくアスファルトを叩いていた。
村田健一は、コンビニ袋を提げた左手を庇いながら、駅からの道を重い足取りで歩いていた。ビニール傘に弾ける雨音が、頭痛の種を撒き散らしていくようだ。四十二歳、万年係長。今日の残業も、部下のミスの尻拭いだった。
ポケットの中でスマホが短く震える。画面を見ると、妻の良子からのメッセージ通知が一件。
『牛乳、買ってきてくれた?』
そこに労いの言葉はない。ただの業務連絡だ。
「……はあ」
白い息と共に、重いため息が夜気に溶ける。家に帰りたくなかった。ドアを開ければ、そこには冷え切った空気が待っている。高校生になった娘の美咲は、最近ろくに口もきいてくれない。昨日言われた「パパのタオルと一緒に洗わないで」という言葉が、まだ胸の奥で棘のように刺さっている。
…俺の人生、どこで間違ったんだろうな。
ふと、そんな思いが頭をよぎる。 コンビニの袋に入った牛乳パックが、やけに重く感じられた。
脳裏に浮かんだのは、先日、同窓会に出席した友人から聞いた話だった。
──『篠原さん、独立して自分のブランド立ち上げたらしいよ。雑誌に出てた』
篠原由美。高校時代、学年の誰もが憧れていたマドンナだ。友人の話では、彼女は今も独身で、東京の華やかな世界で活躍しているという。クタビれたスーツで、妻に頼まれた牛乳をぶら下げて歩く自分とは、大違いだ。
その話を聞いてから、ずっと頭の片隅にこびりついて離れない「もしも」があった。
もし、 あの時。 二十四年前の、 高校の卒業式の日。
制服のポケットに忍ばせたまま終わったラブレターを、勇気を出して彼女に渡せていたら。
俺が彼女の手を取っていたら、今頃は……。
そんな詮無い感傷に浸っていたせいだろうか。村田は、いつもの帰り道から一本逸れた、見慣れない路地に迷い込んでいた。
「……なんだ、ここ?」
雨足が強まる中、街灯もまばらな薄暗い路地が続いていた。引き返そうとした視線の先に、ぼんやりとした、琥珀色の温かい光が漏れているのが見えた。
古ぼけた木の扉。その横に、控えめな行灯のような看板が掛かっている。
『アーカイブ・アノトキ』
バーだろうか、それとも古本屋だろうか。 普段の村田なら、怪しんで素通りしていただろう。だが、今の彼は、雨宿りという言い訳をしてでも、あの冷たい家に帰る時間を少しでも先延ばしにしたかった。
まるで何かに招かれるように、彼はそのドアノブに手をかけた。
カラン、コロン。深海に沈む泡のような、静かで懐かしい音色のベルが鳴った。
村田は恐る恐る、店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
外の雨音が嘘のように消え、古紙とコーヒーが混ざったような、落ち着く香りが鼻腔をくすぐる。
そこは、奇妙な空間だった。壁一面の棚には、本でも酒瓶でもなく、背表紙のない黒いビデオテープが、びっしりと並んでいる。まるで、この世のすべての時間を記録している図書館のようだった。
カウンターの中に立っていたのは、一人の男性だった。ほっそりとした長身に、糊のきいた清潔なシャツを着ている。顔立ちは二十代のように若々しく見えるが、その切れ長の瞳の奥には、何百年も生きてきた老人のような、底知れない知性が宿っていた。
「……ここは?」
村田が戸惑いながら尋ねると、男は手元のビデオテープをネルの布で磨く手を止め、静かに微笑んだ。
「ここは、選ばなかった過去を記録する店、『アーカイブ・アノトキ』」
男─店主は、値踏みするでもなく、ただ静かに村田を見つめた。
「お客様。今夜はどんな『もしも』をお探しで?」
「選ばなかった、過去……?」
村田は眉をひそめた。新手の占いか、それとも自己啓発セミナーの勧誘か。疲れている自分につけ込もうとしているに違いない。
「悪いが、他を当たってくれ。俺はただの雨宿りだ。……今の人生に、不満なんてないしな」
それは、見え透いた強がりだった。 村田は居心地の悪さを隠すように、踵を返してドアノブに手をかけた。
「そうですか。……ですが、背中が泣いておられますよ」
店主の、鈴を転がすような声が、村田の足を止めた。
「雨の日は、古い傷が疼くものです。特に、ご自身で選ばなかったことへの後悔は、長く尾を引く」
「……何が言いたい」
村田が振り返ると、店主はカウンターに肘をつき、楽しげに目を細めていた。
「お客様くらいの年代の方は、よく戻りたがるんです。……そう、例えば、二十年ほど前。まだ何者でもなかった、青春のあの頃に」
ドキリとした。 図星だった。さっきまで、雨の中歩きながら考えていたことそのままだ。村田の動揺を見透かしたように、常盤は言葉を続ける。
「卒業式、夕暮れの教室、あるいは帰り道。……伝えられなかった言葉が、喉の奥に詰まったままではありませんか?」
村田の足が、凍りついたように動かなくなった。心臓が早鐘を打つ。 なぜ、分かる。俺が今日、ずっとそのことを考えていたことを。
常盤は、ふわりと微笑んだ。
「制服のポケットに入れたまま、渡せずに終わった……一通の手紙のこととか」
「な……ッ」
村田は絶句した。そこまで言い当てられては、もう「雨宿り」という言い訳は通用しなかった。彼は観念したように濡れた傘を畳み、誘われるままにカウンターの丸椅子に腰を下ろした。店内に流れるゆったりとした空気が、彼の頑なな警戒心を溶かしていくようだった。
「……笑い話だぜ」
村田は、誰にも言えなかった澱を吐き出すように、ぽつりと語り始めた。
「高嶺の花だったんだ、由美は。成績優秀、容姿端麗。俺なんかじゃ釣り合わないって、勝手に諦めて……結局、ラブレターは渡せずじまいだ」
あれから二十四年。 一度も思い出さなかった日はない あの時、もしも、あの一歩を踏み出せていたら。
「未練がましいよな。今の女房や娘には、口が裂けても言えない話だ」
「…見てみますか?」
店主が、唐突に言った。
「は?」
「お客様がその手紙を渡し、彼女と結ばれた世界の『もしも』。……当店なら、ご覧いただけますよ」
店主はカウンターを出て、壁一面の棚へと歩み寄った。 迷いのない手つきで、一本のビデオテープを抜き取る。パッケージのない、無骨な黒いVHSテープ。その背表紙には、白い手書き文字で、ただ一言こう書かれていた。
『告白』
店主はそれをカウンターにコトリと置いた。
「料金は500円。視聴時間はきっかり一時間です」
「ご、500円……?」
「ええ。ただし、一つだけルールがございます」
店主の瞳が、すっと細められた。 その瞬間、店内の照明が一段暗くなり、空気が冷たく澄んだ気がした。
「このビデオで何を見ても、現実は変わりません。過去を書き換えることもできません。あくまで、あり得たかもしれない可能性を体験するだけ。……それでもよろしければ」
馬鹿げている、と理性が叫ぶ。そんな魔法のような話があるわけがない。だが、村田の手は、震えながらもポケットの小銭入れを探っていた。
ワンコイン。たったそれだけで、この冴えない現実を忘れ、夢にまで見た「正解」の人生を味わえるなら。
「……頼む。見せてくれ」
村田は、五百円玉をカウンターに押し出した。
「承りました」
店主は恭しく一礼すると、店の奥にある分厚いベルベットのカーテンを開けた。
「では、ごゆっくり。……良い旅を」
村田は個室に入り、重厚なソファに腰を沈めた。目の前には、ブラウン管のモニターと、黒いビデオデッキが鎮座している。彼は震える手でテープを差し込み、吸い込まれるように奥へと押しやった。
ウィーン、ガチャン。機械的な駆動音が狭い個室に響く。モニターに砂嵐が走り、一瞬の静寂の後、画面の左上に緑色の文字が浮かび上がった。
―――― ▶ PLAY 00:00:00 ――――
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次の瞬間、村田の視界は真っ白な光に包まれた。 個室の壁も、ソファの感触も消え失せる。 意識が、映像の中へと吸い込まれていく。
懐かしい、春の匂いがした。
気がつくと、村田は十八歳の姿で、高校の中庭に立っていた。舞い散る桜の花びら。遠くで聞こえる吹奏楽部の演奏。
そして目の前には、憧れの篠原由美が、少し頬を赤らめて立っている。
「村田くん。……これ、私に?」
震える手で差し出したラブレターを、彼女は受け取ってくれた。村田の心臓が破裂しそうになる。 由美は、手紙を胸に抱きしめると、あの日見ることはなかった極上の笑顔を向けた。
「嬉しい。……私、ずっと村田くんのこと、見てたんだよ」
世界が、輝き出した瞬間だった。
そこからの人生は、まるで映画の早回しのように、しかし鮮烈なリアリティを持って流れていった。 二人は東京の私立大学へ進学し、誰もが羨むカップルとなった。村田は由美に見合う男になろうと必死に勉強し、大手商社に就職。由美もまた、デザイナーとしての才能を開花させた。
二十八歳、華やかな結婚式。 三十五歳、海外赴任。 そして現在、四十二歳。
場面が切り替わり、村田は、窓の外に広がる煌びやかな夜景を見下ろしていた。そこは、都心の一等地にあるタワーマンションの最上階だった。足元にはイタリア製の高級絨毯。壁には本物のアート作品。 自分が着ているスーツは、オーダーメイドの肌触りだ。コンビニのビニール袋も、重たい牛乳パックもない。
「すごい……。これが、俺の人生か」
村田は震える手で、ガラスに映る自分を見た。髪は整えられ、姿勢もいい。くたびれた万年係長の面影はどこにもなかった。 成功したんだ。あの時、勇気を出したおかげで、俺は勝ち組になったんだ。
歓喜に浸っていると、背後からハイヒールの音が響いた。
「健一、まだ着替えてないの?」
振り返ると、イブニングドレスに身を包んだ由美が立っていた。四十二歳になった彼女は、若い頃よりもさらに洗練され、息を呑むほど美しかった。
だが、その眉間には険しい皺が寄っている。
「今夜は大事なレセプションなのよ。あなたの会社の専務も来るんでしょう? 早くして」
「あ、ああ。ごめん」
村田が慌ててジャケットを手に取ると、由美は冷ややかな視線を向けた。
「『ごめん』じゃなくて、行動で示して。あなたが出世してくれないと、私のブランドの体裁にも関わるのよ」
「……分かってるよ」
村田は小さく答えた。美しい妻。完璧な家。 だが、なぜだろう。部屋の空気が、ひどく薄い気がした。
また場面が切り替わり、村田は、都心の高層マンションのパーティールームにいた。クリスタルのシャンデリアの下、着飾った男女がグラスを傾けている。村田自身も、仕立ての良いイタリア製のスーツに身を包んでいた。
「こちら、夫の健一です。大手商社の執行役員をしております」
隣で微笑む由美が、取引先の社長に村田を紹介する。四十二歳になった彼女は、人気ブランドの代表として、その場を支配するようなカリスマ性を放っていた。村田は、練習通りに完璧な角度で頭を下げる。
「素晴らしいご主人ですね、由美さん」
「ええ。私の自慢のパートナーですわ」
賞賛の声。羨望の眼差し。村田はグラスのシャンパンを口に含んだ。最高級のヴィンテージ。
……だが。 その液体が喉を通った瞬間、ふと、違和感が走った。
美味い、はずだ。誰もが羨む、成功の味だ。
それなのに、なぜか舌の奥に、錆びついた鉄のような味が残る。
ふと、テーブルの端にあるオードブルに手が伸びそうになる。が、由美の鋭い視線がそれを制した。
『健一。人前でがつがつ食べないで。品がないわ』
そうだ。この世界では、俺は「由美の夫」として完璧でなければならない。
大好きなジャンクフードも、週末の野球観戦も、だらしない昼寝も。すべて「品がない」と捨ててきた。ここにあるのは、磨き上げられた成功者の抜け殻だけだ。
パーティーが終わり、二人は最上階の自宅へと戻った。広すぎるリビングには、生活感というものが一切ない。モデルルームのように整えられた空間。村田はネクタイを緩め、ふと、ソファに置かれたクッションの位置を直そうとした。
「触らないで」
由美の声が響いた。
「インテリアのバランスが崩れるわ。……あなたって、昔からどうしてそう無神経なのかしら」
「……ごめん」
謝るのが癖になっていた。由美はため息をつき、自身の書斎へと消えていく。残されたのは、完璧で、冷たくて、死んだように静かな部屋と、村田一人。
静寂が、耳に痛い。 ズキリと、頭の奥が疼いた。 何かが足りない。 この完璧な世界には、決定的に欠けている「音」がある。
――『パパ、また靴下脱ぎっぱなし!』
――『ねえ、今日のご飯ハンバーグがいい!』
――『うっさいクソ親父、チャンネル変えろよ』
騒々しくて、生意気で、でも体温のある声。
村田は、無意識に子供部屋があるはずの場所へ視線をやった。だが、そこにあるのはウォークインクローゼットだ。
「……なあ、由美」
村田は、堪らず問いかけた。
「美咲は? 美咲は、どこだ?」
由美は、怪訝そうに眉をひそめた。
「ミサキ? ……誰のこと?」
「誰って……俺たちの、娘だよ」
由美は、呆れたようにため息をついた。
ドクリ、と。 村田の心臓が、嫌な音を立てた。
子供は、作らない。 そうか。この世界線では、そういう選択をしたのか。
ふと、村田は理解してしまった。たとえ、由美との間に子供がいたとしても、「美咲」は生まれないのだと。
美咲の、あの頑固で不器用な性格。あれは、俺と……今の妻、良子の血が混ざっているからこそだ。 良子の、無愛想だけど芯が強くて、俺のダメなところも「しょうがないねぇ」と受け入れてくれる、あの泥臭い優しさ。 それがあったからこそ、あんなに人間臭い娘が育ったのだ。
由美との完璧な遺伝子からは、あの愛すべき不格好な温かさは生まれない。
村田は、ふらりとキッチンのカウンターに手をついた。 鏡のように磨き上げられたステンレスに、情けない顔をした成功者の自分が映っている。
ふと、記憶の蓋が開いた。 それは、現実世界でまだ係長にもなれていなかった頃。仕事で大きなミスをして、左遷されそうになった雨の日のことだ。
泥酔して帰った俺を、良子は何も言わずに介抱してくれた。 俺は情けなくて、悔しくて、玄関で子供みたいに泣きじゃくった。
『ごめんな、良子。俺、出世もできないダメな夫で、ごめんな』
もし、今の妻が由美だったら、きっと軽蔑の眼差しで見下していただろう。『私のブランドに泥を塗らないで』と。 けれど、良子は違った。 あいつは、俺の背中を、あの荒れた手でずっとさすってくれたんだ。
『出世なんて、どうでもいいよ』
良子は、ぶっきらぼうに、でも温かい声で言った。
『健一さんが、元気で家に帰ってきてくれれば、それでいい。……ほら、雑炊作ったから。食って寝な』
化粧気のない顔。流行りの服なんて一着も持っていない。
だけど、あの夜、俺の隣で黙って雑炊をフーフーと冷ましてくれた横顔は、どんな宝石よりも尊かったはずだ。
俺は、忘れていたんだ。 俺がこのもしもの世界で手に入れたのは、「トロフィーワイフ」としての由美だった。彼女が愛しているのは、「大手商社の執行役員」という肩書きの俺だ。
でも、良子は違う。 あいつだけが、何者でもない、カッコ悪くて、弱くて、どうしようもない「村田健一」という人間そのものを、丸ごと愛してくれていたんだ。
「……会いたい」
村田は、冷蔵庫の冷たい扉に額を押し当てた。
由美と飲むヴィンテージワインじゃない。良子が特売で買ってきた発泡酒でいい。「今日もお疲れさん」って、あの無愛想な笑顔で乾杯したい。
「良子……美咲……」
名前を呼ぶだけで、胸が熱くなる。この完璧な世界には、俺の居場所なんて最初からなかったんだ。 俺の居場所は、あの狭くて、散らかってて、でも世界で一番温かい、あの団地の一室だけなんだ。
「帰してくれ……! 俺の家族のところに!」
村田は、冷たいフローリングに膝をつき、子供のように嗚咽した。
その声が、虚空に吸い込まれた時。視界がぐにゃりと歪み、世界が砂嵐に変わっていった。
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─────────■ STOP─────────
ガチャン、という音が響き、モニターの光が消えた。村田は、古ぼけたビデオ店の個室に戻っていた。頬には、まだ温かい涙が伝っていた。
しばらくの間、村田はソファから動けなかった。心臓が、早鐘を打っている。喪失感ではない。安堵感だ。あの冷たい世界から、戻ってこられたという安堵感で、震えが止まらなかった。
村田はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開けた。カウンターでは、店主が変わらぬ涼やかな顔で、コーヒーを淹れていた。
「お疲れ様でした。……いかがでしたか? あなたが選ばなかった、もう一つの人生は」
店主が、湯気の立つカップを差し出す。村田はそれを受け取り、一口飲んだ。苦味と酸味が、現実に帰ってきたことを舌に教えてくれる。
「……最高だったよ」
村田は、掠れた声で答えた。
「金も、地位も、何もかも完璧だった。……俺がずっと憧れてた、理想の人生そのものだった」
「そうですか。では、戻ってきたことを後悔されていますか?」
店主の問いに、村田は首を横に振った。迷いはなかった。
「いいや。……俺には、立派すぎたよ。息が詰まって死にそうだった」
村田は、空になったカップを置いた。
「俺には、あの狭い団地がお似合いだ。……あいつらが待ってる、あの不格好な家がな」
店主は、満足そうに目を細めた。
「隣の芝生は青く見えるものですが……ご自身の庭に咲いている花の強さは、離れてみないと気づかないものですからね」
「ああ、全くだ。……高い勉強代になるところだったよ。たった500円で済んでよかった」
村田は照れ隠しに笑うと、置いていた傘を手に取った。ここに来る前の彼なら「惜しい」と感じたかもしれないワンコイン。だが今は、これほど安い買い物はないと思えた。
「ありがとうございました」
常盤の静かな声に見送られ、村田は店の扉を開けた。
外は、まだ雨が降っていた。だが、不思議と冷たさは感じなかった。村田は傘を開き、駅前とは逆方向――自宅のある団地へと向かって歩き出した。
途中、コンビニの明かりが見えた。村田は迷わず入店すると、スイーツコーナーへ直行する。カゴに入れたのは、娘の美咲が好きな、とろけるプリン。そして、酒売り場で少し迷ってから、普段の発泡酒ではなく、プレミアムな缶ビールを二本手に取った。良子への、ささやかな詫びと感謝の印だ。
団地に着くと、我が家の窓から明かりが漏れているのが見えた。
そのオレンジ色の光を見ただけで、村田の目頭が熱くなった。タワーマンションの夜景よりも、何百倍も美しい光だ。
ドアノブを回す。 鍵は開いていた。
「……ただいま」
恐る恐る、声をかける。リビングのドアが開くと、そこにはテレビを見ながらスマホをいじっている美咲と、アイロンがけをしている良子の姿があった。部屋には、夕飯の残りのカレーの匂いが漂っている。
「……遅い」
美咲が、スマホから目を離さずに言った。相変わらずの不愛想だ。だが、村田にはその声すら、天上の音楽のように聞こえた。ここにいる。俺たちの娘が、ここにいる。
「ごめんな。残業で」
「ふーん。……なにそれ」
美咲の視線が、コンビニ袋に注がれる。 村田は「ほら」とプリンを取り出した。
「お土産。美咲の好きなやつだろ」
「……へえ。気が利くじゃん」
美咲は素っ気なく奪い取ったが、その口元がわずかに緩んでいるのを、村田は見逃さなかった。それだけで、胸がいっぱいになった。
「健一さん。ご飯、温め直す?」
良子が、アイロンの手を止めて立ち上がった。化粧気のない顔。着古したエプロン。Ifの世界の由美とは比べ物にならないほど生活感に溢れた姿。 だが、村田には、彼女が誰よりも輝いて見えた。
「ああ……頼むよ。腹、減ったんだ」
村田は、買ってきたビールをテーブルに置いた。
「良子。あとで、一緒に飲まないか。……いいやつ、買ってきたんだ」
良子は目を丸くし、それから呆れたように、ふっと笑った。
「なんだい、急に。何かいいことでもあったのかい?」
「まあな」
村田は、ネクタイを緩めながら、深く息を吸い込んだ。カレーの匂いと、洗剤の匂い。これが、俺の家の匂いだ。
「……ちょっと、いい夢を見てきたんだよ」
村田は、ダイニングの椅子に腰を下ろした。もう、どこにも行かない。この騒がしくて、狭くて、愛おしい現実が、俺の居場所なのだから。
窓の外では、雨が雪へと変わり始めていた。 だが、村田の家の中は、春のように温かかった。
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カラン、コロン。
店内に響いていたベルの音が消えると、路地裏の店には再び静寂が戻った。聞こえるのは、古時計が時を刻む音だけ。
店主ー常盤は、客が去った後のカウンターを丁寧に布巾で拭いた。そして、個室から一本のビデオテープを回収してくる。
黒いVHSテープ。 その背表紙には、『告白』という文字が書かれている。つい先ほどまで、一人の男の「人生最大の未練」が焼き付いていたテープだ。だが今は、手で触れても熱を感じない。ただの、静かな記録に戻っている。
「……良いお顔になられましたね」
常盤は誰に言うでもなく呟くと、テープを持って壁一面の棚へと歩み寄った。そこには、数え切れないほどの「選ばれなかった人生」が眠っている。 『夢の職業』『上京』『あの日の喧嘩』……。 無数の後悔と、憧れ。
常盤は、その隙間の一つに、『告白』のテープを静かに差し込んだ。カタリ、と乾いた音がして、テープは膨大なアーカイブの一部と同化した。
「隣の芝生は青い。……けれど、踏みしめれば痛い棘もある」
常盤は楽しげに目を細めると、カウンターの中に戻り、読みかけの文庫本を開いた。
「さて。次の迷い人は、どんな『もしも』をお望みでしょうか?」
琥珀色の店内に、雨音だけが静かに響いていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。 新連載『アーカイブ・アノトキ』、いかがでしたでしょうか。
「あの時、別の道を選んでいたら」 誰しも一度は抱くそんな空想を、一本のビデオテープとして見せてくれる不思議なお店。 そんな場所があったら面白いなと思い、この物語を書き始めました。
第1話のお客様は、過去の恋愛に未練を残す男性でした。 隣の芝生は青く見えるけれど、自分の庭に咲いている花の強さや温かさは、離れてみないと気づけないものかもしれません。
この店には、これからも様々な「後悔」を抱えたお客様が訪れます。 店主の常盤と共に、彼らの選択を見守っていただければ幸いです。
感想や「こんなIfが見たい!」というリクエストなどもあれば、ぜひお聞かせください。 (店主の常盤さんが、棚から探してくれるかもしれません)
次回のご来店も、心よりお待ちしております。




