表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アーカイブ・アノトキ  作者: 柏倉 光


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/2

第1話『あの日、渡せなかったラブレター』




十一月の冷たい雨が、容赦なくアスファルトを叩いていた。





 村田健一は、コンビニ袋を提げた左手を庇いながら、駅からの道を重い足取りで歩いていた。ビニール傘に弾ける雨音が、頭痛の種を撒き散らしていくようだ。四十二歳、万年係長。今日の残業も、部下のミスの尻拭いだった。


 ポケットの中でスマホが短く震える。画面を見ると、妻の良子からのメッセージ通知が一件。



『牛乳、買ってきてくれた?』



 そこに労いの言葉はない。ただの業務連絡だ。


「……はあ」


 白い息と共に、重いため息が夜気に溶ける。家に帰りたくなかった。ドアを開ければ、そこには冷え切った空気が待っている。高校生になった娘の美咲は、最近ろくに口もきいてくれない。昨日言われた「パパのタオルと一緒に洗わないで」という言葉が、まだ胸の奥で棘のように刺さっている。




 …俺の人生、どこで間違ったんだろうな。




 ふと、そんな思いが頭をよぎる。  コンビニの袋に入った牛乳パックが、やけに重く感じられた。


 脳裏に浮かんだのは、先日、同窓会に出席した友人から聞いた話だった。




──『篠原さん、独立して自分のブランド立ち上げたらしいよ。雑誌に出てた』




 篠原由美。高校時代、学年の誰もが憧れていたマドンナだ。友人の話では、彼女は今も独身で、東京の華やかな世界で活躍しているという。クタビれたスーツで、妻に頼まれた牛乳をぶら下げて歩く自分とは、大違いだ。


 その話を聞いてから、ずっと頭の片隅にこびりついて離れない「もしも」があった。


 もし、 あの時。 二十四年前の、 高校の卒業式の日。 

 制服のポケットに忍ばせたまま終わったラブレターを、勇気を出して彼女に渡せていたら。


 俺が彼女の手を取っていたら、今頃は……。


 そんな詮無い感傷に浸っていたせいだろうか。村田は、いつもの帰り道から一本逸れた、見慣れない路地に迷い込んでいた。


「……なんだ、ここ?」



 雨足が強まる中、街灯もまばらな薄暗い路地が続いていた。引き返そうとした視線の先に、ぼんやりとした、琥珀色の温かい光が漏れているのが見えた。


 古ぼけた木の扉。その横に、控えめな行灯のような看板が掛かっている。


『アーカイブ・アノトキ』


 バーだろうか、それとも古本屋だろうか。 普段の村田なら、怪しんで素通りしていただろう。だが、今の彼は、雨宿りという言い訳をしてでも、あの冷たい家に帰る時間を少しでも先延ばしにしたかった。


 まるで何かに招かれるように、彼はそのドアノブに手をかけた。


 カラン、コロン。深海に沈む泡のような、静かで懐かしい音色のベルが鳴った。


 村田は恐る恐る、店内に足を踏み入れた。


「いらっしゃいませ」


  外の雨音が嘘のように消え、古紙とコーヒーが混ざったような、落ち着く香りが鼻腔をくすぐる。


 そこは、奇妙な空間だった。壁一面の棚には、本でも酒瓶でもなく、背表紙のない黒いビデオテープが、びっしりと並んでいる。まるで、この世のすべての時間を記録している図書館のようだった。


 カウンターの中に立っていたのは、一人の男性だった。ほっそりとした長身に、糊のきいた清潔なシャツを着ている。顔立ちは二十代のように若々しく見えるが、その切れ長の瞳の奥には、何百年も生きてきた老人のような、底知れない知性が宿っていた。




 「……ここは?」  

 村田が戸惑いながら尋ねると、男は手元のビデオテープをネルの布で磨く手を止め、静かに微笑んだ。




「ここは、選ばなかった過去を記録する店、『アーカイブ・アノトキ』」




 男─店主は、値踏みするでもなく、ただ静かに村田を見つめた。



「お客様。今夜はどんな『もしも』をお探しで?」




「選ばなかった、過去……?」


 村田は眉をひそめた。新手の占いか、それとも自己啓発セミナーの勧誘か。疲れている自分につけ込もうとしているに違いない。


「悪いが、他を当たってくれ。俺はただの雨宿りだ。……今の人生に、不満なんてないしな」



 それは、見え透いた強がりだった。  村田は居心地の悪さを隠すように、踵を返してドアノブに手をかけた。



「そうですか。……ですが、背中が泣いておられますよ」



 店主の、鈴を転がすような声が、村田の足を止めた。



「雨の日は、古い傷が疼くものです。特に、ご自身で選ばなかったことへの後悔は、長く尾を引く」



「……何が言いたい」  


 村田が振り返ると、店主はカウンターに肘をつき、楽しげに目を細めていた。




「お客様くらいの年代の方は、よく戻りたがるんです。……そう、例えば、二十年ほど前。まだ何者でもなかった、青春のあの頃に」





 ドキリとした。 図星だった。さっきまで、雨の中歩きながら考えていたことそのままだ。村田の動揺を見透かしたように、常盤は言葉を続ける。



「卒業式、夕暮れの教室、あるいは帰り道。……伝えられなかった言葉が、喉の奥に詰まったままではありませんか?」



 村田の足が、凍りついたように動かなくなった。心臓が早鐘を打つ。 なぜ、分かる。俺が今日、ずっとそのことを考えていたことを。


 常盤は、ふわりと微笑んだ。



「制服のポケットに入れたまま、渡せずに終わった……一通の手紙のこととか」



「な……ッ」


 村田は絶句した。そこまで言い当てられては、もう「雨宿り」という言い訳は通用しなかった。彼は観念したように濡れた傘を畳み、誘われるままにカウンターの丸椅子に腰を下ろした。店内に流れるゆったりとした空気が、彼の頑なな警戒心を溶かしていくようだった。




「……笑い話だぜ」


 村田は、誰にも言えなかった澱を吐き出すように、ぽつりと語り始めた。


「高嶺の花だったんだ、由美は。成績優秀、容姿端麗。俺なんかじゃ釣り合わないって、勝手に諦めて……結局、ラブレターは渡せずじまいだ」



 あれから二十四年。  一度も思い出さなかった日はない  あの時、もしも、あの一歩を踏み出せていたら。


「未練がましいよな。今の女房や娘には、口が裂けても言えない話だ」



「…見てみますか?」


 店主が、唐突に言った。



「は?」




「お客様がその手紙を渡し、彼女と結ばれた世界の『もしも』。……当店なら、ご覧いただけますよ」




 店主はカウンターを出て、壁一面の棚へと歩み寄った。 迷いのない手つきで、一本のビデオテープを抜き取る。パッケージのない、無骨な黒いVHSテープ。その背表紙には、白い手書き文字で、ただ一言こう書かれていた。



『告白』



 店主はそれをカウンターにコトリと置いた。



「料金は500円。視聴時間はきっかり一時間です」


「ご、500円……?」


「ええ。ただし、一つだけルールがございます」



 店主の瞳が、すっと細められた。 その瞬間、店内の照明が一段暗くなり、空気が冷たく澄んだ気がした。



「このビデオで何を見ても、現実は変わりません。過去を書き換えることもできません。あくまで、あり得たかもしれない可能性を体験するだけ。……それでもよろしければ」



 馬鹿げている、と理性が叫ぶ。そんな魔法のような話があるわけがない。だが、村田の手は、震えながらもポケットの小銭入れを探っていた。

 ワンコイン。たったそれだけで、この冴えない現実を忘れ、夢にまで見た「正解」の人生を味わえるなら。





「……頼む。見せてくれ」

 村田は、五百円玉をカウンターに押し出した。



「承りました」



 店主は恭しく一礼すると、店の奥にある分厚いベルベットのカーテンを開けた。


「では、ごゆっくり。……良い旅を」







 村田は個室に入り、重厚なソファに腰を沈めた。目の前には、ブラウン管のモニターと、黒いビデオデッキが鎮座している。彼は震える手でテープを差し込み、吸い込まれるように奥へと押しやった。


 ウィーン、ガチャン。機械的な駆動音が狭い個室に響く。モニターに砂嵐が走り、一瞬の静寂の後、画面の左上に緑色の文字が浮かび上がった。



―――― ▶ PLAY  00:00:00 ――――

────────────────────

────────────

──────



 次の瞬間、村田の視界は真っ白な光に包まれた。  個室の壁も、ソファの感触も消え失せる。  意識が、映像の中へと吸い込まれていく。



 懐かしい、春の匂いがした。





 気がつくと、村田は十八歳の姿で、高校の中庭に立っていた。舞い散る桜の花びら。遠くで聞こえる吹奏楽部の演奏。

 そして目の前には、憧れの篠原由美が、少し頬を赤らめて立っている。



「村田くん。……これ、私に?」



 震える手で差し出したラブレターを、彼女は受け取ってくれた。村田の心臓が破裂しそうになる。  由美は、手紙を胸に抱きしめると、あの日見ることはなかった極上の笑顔を向けた。




「嬉しい。……私、ずっと村田くんのこと、見てたんだよ」




 世界が、輝き出した瞬間だった。




 そこからの人生は、まるで映画の早回しのように、しかし鮮烈なリアリティを持って流れていった。  二人は東京の私立大学へ進学し、誰もが羨むカップルとなった。村田は由美に見合う男になろうと必死に勉強し、大手商社に就職。由美もまた、デザイナーとしての才能を開花させた。



二十八歳、華やかな結婚式。  三十五歳、海外赴任。  そして現在、四十二歳。






 場面が切り替わり、村田は、窓の外に広がる煌びやかな夜景を見下ろしていた。そこは、都心の一等地にあるタワーマンションの最上階だった。足元にはイタリア製の高級絨毯。壁には本物のアート作品。  自分が着ているスーツは、オーダーメイドの肌触りだ。コンビニのビニール袋も、重たい牛乳パックもない。



「すごい……。これが、俺の人生か」



 村田は震える手で、ガラスに映る自分を見た。髪は整えられ、姿勢もいい。くたびれた万年係長の面影はどこにもなかった。 成功したんだ。あの時、勇気を出したおかげで、俺は勝ち組になったんだ。


 歓喜に浸っていると、背後からハイヒールの音が響いた。



「健一、まだ着替えてないの?」



 振り返ると、イブニングドレスに身を包んだ由美が立っていた。四十二歳になった彼女は、若い頃よりもさらに洗練され、息を呑むほど美しかった。


 だが、その眉間には険しい皺が寄っている。



「今夜は大事なレセプションなのよ。あなたの会社の専務も来るんでしょう? 早くして」


「あ、ああ。ごめん」



 村田が慌ててジャケットを手に取ると、由美は冷ややかな視線を向けた。



「『ごめん』じゃなくて、行動で示して。あなたが出世してくれないと、私のブランドの体裁にも関わるのよ」


「……分かってるよ」



 村田は小さく答えた。美しい妻。完璧な家。 だが、なぜだろう。部屋の空気が、ひどく薄い気がした。





 また場面が切り替わり、村田は、都心の高層マンションのパーティールームにいた。クリスタルのシャンデリアの下、着飾った男女がグラスを傾けている。村田自身も、仕立ての良いイタリア製のスーツに身を包んでいた。



「こちら、夫の健一です。大手商社の執行役員をしております」



 隣で微笑む由美が、取引先の社長に村田を紹介する。四十二歳になった彼女は、人気ブランドの代表として、その場を支配するようなカリスマ性を放っていた。村田は、練習通りに完璧な角度で頭を下げる。



「素晴らしいご主人ですね、由美さん」


「ええ。私の自慢のパートナーですわ」



 賞賛の声。羨望の眼差し。村田はグラスのシャンパンを口に含んだ。最高級のヴィンテージ。




 ……だが。 その液体が喉を通った瞬間、ふと、違和感が走った。


 美味い、はずだ。誰もが羨む、成功の味だ。


 それなのに、なぜか舌の奥に、錆びついた鉄のような味が残る。




 ふと、テーブルの端にあるオードブルに手が伸びそうになる。が、由美の鋭い視線がそれを制した。


『健一。人前でがつがつ食べないで。品がないわ』 



 そうだ。この世界では、俺は「由美の夫」として完璧でなければならない。

 大好きなジャンクフードも、週末の野球観戦も、だらしない昼寝も。すべて「品がない」と捨ててきた。ここにあるのは、磨き上げられた成功者の抜け殻だけだ。






 パーティーが終わり、二人は最上階の自宅へと戻った。広すぎるリビングには、生活感というものが一切ない。モデルルームのように整えられた空間。村田はネクタイを緩め、ふと、ソファに置かれたクッションの位置を直そうとした。



「触らないで」


 由美の声が響いた。



「インテリアのバランスが崩れるわ。……あなたって、昔からどうしてそう無神経なのかしら」



「……ごめん」


 謝るのが癖になっていた。由美はため息をつき、自身の書斎へと消えていく。残されたのは、完璧で、冷たくて、死んだように静かな部屋と、村田一人。


 静寂が、耳に痛い。    ズキリと、頭の奥が疼いた。  何かが足りない。  この完璧な世界には、決定的に欠けている「音」がある。





 ――『パパ、また靴下脱ぎっぱなし!』  


――『ねえ、今日のご飯ハンバーグがいい!』  


――『うっさいクソ親父、チャンネル変えろよ』





 騒々しくて、生意気で、でも体温のある声。

 村田は、無意識に子供部屋があるはずの場所へ視線をやった。だが、そこにあるのはウォークインクローゼットだ。



「……なあ、由美」


 村田は、堪らず問いかけた。



「美咲は? 美咲は、どこだ?」



 由美は、怪訝そうに眉をひそめた。



「ミサキ? ……誰のこと?」


「誰って……俺たちの、娘だよ」



 由美は、呆れたようにため息をついた。


 ドクリ、と。  村田の心臓が、嫌な音を立てた。


 子供は、作らない。 そうか。この世界線では、そういう選択をしたのか。 

 ふと、村田は理解してしまった。たとえ、由美との間に子供がいたとしても、「美咲」は生まれないのだと。


 美咲の、あの頑固で不器用な性格。あれは、俺と……今の妻、良子の血が混ざっているからこそだ。  良子の、無愛想だけど芯が強くて、俺のダメなところも「しょうがないねぇ」と受け入れてくれる、あの泥臭い優しさ。  それがあったからこそ、あんなに人間臭い娘が育ったのだ。



 由美との完璧な遺伝子からは、あの愛すべき不格好な温かさは生まれない。



 村田は、ふらりとキッチンのカウンターに手をついた。 鏡のように磨き上げられたステンレスに、情けない顔をした成功者の自分が映っている。


 ふと、記憶の蓋が開いた。 それは、現実世界でまだ係長にもなれていなかった頃。仕事で大きなミスをして、左遷されそうになった雨の日のことだ。


 泥酔して帰った俺を、良子は何も言わずに介抱してくれた。  俺は情けなくて、悔しくて、玄関で子供みたいに泣きじゃくった。


『ごめんな、良子。俺、出世もできないダメな夫で、ごめんな』



 もし、今の妻が由美だったら、きっと軽蔑の眼差しで見下していただろう。『私のブランドに泥を塗らないで』と。  けれど、良子は違った。 あいつは、俺の背中を、あの荒れた手でずっとさすってくれたんだ。



『出世なんて、どうでもいいよ』

 良子は、ぶっきらぼうに、でも温かい声で言った。


『健一さんが、元気で家に帰ってきてくれれば、それでいい。……ほら、雑炊作ったから。食って寝な』



 化粧気のない顔。流行りの服なんて一着も持っていない。

 だけど、あの夜、俺の隣で黙って雑炊をフーフーと冷ましてくれた横顔は、どんな宝石よりも尊かったはずだ。






 俺は、忘れていたんだ。  俺がこのもしもの世界で手に入れたのは、「トロフィーワイフ」としての由美だった。彼女が愛しているのは、「大手商社の執行役員」という肩書きの俺だ。  

 でも、良子は違う。  あいつだけが、何者でもない、カッコ悪くて、弱くて、どうしようもない「村田健一」という人間そのものを、丸ごと愛してくれていたんだ。





「……会いたい」



 村田は、冷蔵庫の冷たい扉に額を押し当てた。


 由美と飲むヴィンテージワインじゃない。良子が特売で買ってきた発泡酒でいい。「今日もお疲れさん」って、あの無愛想な笑顔で乾杯したい。




「良子……美咲……」




 名前を呼ぶだけで、胸が熱くなる。この完璧な世界には、俺の居場所なんて最初からなかったんだ。  俺の居場所は、あの狭くて、散らかってて、でも世界で一番温かい、あの団地の一室だけなんだ。



「帰してくれ……! 俺の家族のところに!」



 村田は、冷たいフローリングに膝をつき、子供のように嗚咽した。



 その声が、虚空に吸い込まれた時。視界がぐにゃりと歪み、世界が砂嵐に変わっていった。





────

──────────

──────────────────

─────────■ STOP─────────



 ガチャン、という音が響き、モニターの光が消えた。村田は、古ぼけたビデオ店の個室に戻っていた。頬には、まだ温かい涙が伝っていた。



 しばらくの間、村田はソファから動けなかった。心臓が、早鐘を打っている。喪失感ではない。安堵感だ。あの冷たい世界から、戻ってこられたという安堵感で、震えが止まらなかった。



 村田はゆっくりと立ち上がり、カーテンを開けた。カウンターでは、店主が変わらぬ涼やかな顔で、コーヒーを淹れていた。




「お疲れ様でした。……いかがでしたか? あなたが選ばなかった、もう一つの人生は」




 店主が、湯気の立つカップを差し出す。村田はそれを受け取り、一口飲んだ。苦味と酸味が、現実に帰ってきたことを舌に教えてくれる。



「……最高だったよ」



 村田は、掠れた声で答えた。



「金も、地位も、何もかも完璧だった。……俺がずっと憧れてた、理想の人生そのものだった」


「そうですか。では、戻ってきたことを後悔されていますか?」



 店主の問いに、村田は首を横に振った。迷いはなかった。




「いいや。……俺には、立派すぎたよ。息が詰まって死にそうだった」


 村田は、空になったカップを置いた。



「俺には、あの狭い団地がお似合いだ。……あいつらが待ってる、あの不格好な家がな」



 店主は、満足そうに目を細めた。



「隣の芝生は青く見えるものですが……ご自身の庭に咲いている花の強さは、離れてみないと気づかないものですからね」


「ああ、全くだ。……高い勉強代になるところだったよ。たった500円で済んでよかった」



 村田は照れ隠しに笑うと、置いていた傘を手に取った。ここに来る前の彼なら「惜しい」と感じたかもしれないワンコイン。だが今は、これほど安い買い物はないと思えた。




「ありがとうございました」




 常盤の静かな声に見送られ、村田は店の扉を開けた。


 外は、まだ雨が降っていた。だが、不思議と冷たさは感じなかった。村田は傘を開き、駅前とは逆方向――自宅のある団地へと向かって歩き出した。






 途中、コンビニの明かりが見えた。村田は迷わず入店すると、スイーツコーナーへ直行する。カゴに入れたのは、娘の美咲が好きな、とろけるプリン。そして、酒売り場で少し迷ってから、普段の発泡酒ではなく、プレミアムな缶ビールを二本手に取った。良子への、ささやかな詫びと感謝の印だ。





 団地に着くと、我が家の窓から明かりが漏れているのが見えた。  

 そのオレンジ色の光を見ただけで、村田の目頭が熱くなった。タワーマンションの夜景よりも、何百倍も美しい光だ。




 ドアノブを回す。 鍵は開いていた。



「……ただいま」



 恐る恐る、声をかける。リビングのドアが開くと、そこにはテレビを見ながらスマホをいじっている美咲と、アイロンがけをしている良子の姿があった。部屋には、夕飯の残りのカレーの匂いが漂っている。


「……遅い」


 美咲が、スマホから目を離さずに言った。相変わらずの不愛想だ。だが、村田にはその声すら、天上の音楽のように聞こえた。ここにいる。俺たちの娘が、ここにいる。



「ごめんな。残業で」


「ふーん。……なにそれ」



 美咲の視線が、コンビニ袋に注がれる。 村田は「ほら」とプリンを取り出した。


「お土産。美咲の好きなやつだろ」


「……へえ。気が利くじゃん」


 美咲は素っ気なく奪い取ったが、その口元がわずかに緩んでいるのを、村田は見逃さなかった。それだけで、胸がいっぱいになった。



「健一さん。ご飯、温め直す?」


 良子が、アイロンの手を止めて立ち上がった。化粧気のない顔。着古したエプロン。Ifの世界の由美とは比べ物にならないほど生活感に溢れた姿。 だが、村田には、彼女が誰よりも輝いて見えた。



「ああ……頼むよ。腹、減ったんだ」


 村田は、買ってきたビールをテーブルに置いた。



「良子。あとで、一緒に飲まないか。……いいやつ、買ってきたんだ」



 良子は目を丸くし、それから呆れたように、ふっと笑った。



「なんだい、急に。何かいいことでもあったのかい?」


「まあな」



 村田は、ネクタイを緩めながら、深く息を吸い込んだ。カレーの匂いと、洗剤の匂い。これが、俺の家の匂いだ。




「……ちょっと、いい夢を見てきたんだよ」



 村田は、ダイニングの椅子に腰を下ろした。もう、どこにも行かない。この騒がしくて、狭くて、愛おしい現実が、俺の居場所なのだから。


 窓の外では、雨が雪へと変わり始めていた。  だが、村田の家の中は、春のように温かかった。











──────────────────



カラン、コロン。


 店内に響いていたベルの音が消えると、路地裏の店には再び静寂が戻った。聞こえるのは、古時計が時を刻む音だけ。


 店主ー常盤は、客が去った後のカウンターを丁寧に布巾で拭いた。そして、個室から一本のビデオテープを回収してくる。


 黒いVHSテープ。  その背表紙には、『告白』という文字が書かれている。つい先ほどまで、一人の男の「人生最大の未練」が焼き付いていたテープだ。だが今は、手で触れても熱を感じない。ただの、静かな記録に戻っている。




「……良いお顔になられましたね」




 常盤は誰に言うでもなく呟くと、テープを持って壁一面の棚へと歩み寄った。そこには、数え切れないほどの「選ばれなかった人生」が眠っている。  『夢の職業』『上京』『あの日の喧嘩』……。  無数の後悔と、憧れ。


 常盤は、その隙間の一つに、『告白』のテープを静かに差し込んだ。カタリ、と乾いた音がして、テープは膨大なアーカイブの一部と同化した。



「隣の芝生は青い。……けれど、踏みしめれば痛い棘もある」



 常盤は楽しげに目を細めると、カウンターの中に戻り、読みかけの文庫本を開いた。




「さて。次の迷い人は、どんな『もしも』をお望みでしょうか?」




 琥珀色の店内に、雨音だけが静かに響いていた。








最後までお読みいただき、ありがとうございます。 新連載『アーカイブ・アノトキ』、いかがでしたでしょうか。


「あの時、別の道を選んでいたら」 誰しも一度は抱くそんな空想を、一本のビデオテープとして見せてくれる不思議なお店。 そんな場所があったら面白いなと思い、この物語を書き始めました。


第1話のお客様は、過去の恋愛に未練を残す男性でした。 隣の芝生は青く見えるけれど、自分の庭に咲いている花の強さや温かさは、離れてみないと気づけないものかもしれません。


この店には、これからも様々な「後悔」を抱えたお客様が訪れます。 店主の常盤と共に、彼らの選択を見守っていただければ幸いです。


感想や「こんなIfが見たい!」というリクエストなどもあれば、ぜひお聞かせください。 (店主の常盤さんが、棚から探してくれるかもしれません)



次回のご来店も、心よりお待ちしております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ