12話
扉の前まで来て、ガラリと開ける。
「……遅い」
美術室に入るなり、蒼井先生が少し不機嫌そうな顔で、ズイッと僕の方へ詰め寄ってきた。
「……すみません」
返す言葉も見つからず、僕は小さく頭を下げる。
天橋さんとのやりとりや、あの女の子とぶつかったりで、すっかり時間を食ってしまった。
「……まあ、いい。時間が惜しい。さっさと席につけ」
急かされるように、僕はさっきまで座っていた場所へ向かい、腰を下ろした。
「……さて、デッサンを再開する前に」
蒼井先生が僕の目の前までやってきて、机の上に何本かの鉛筆を並べる。
「……鉛筆ですか?」
「そうだ。ただし、これ全部種類が違うんだ」
言われてよく見てみると、鉛筆にはHBや3Bなど、記号がそれぞれ書かれていた。
「横山、お前はこれまで鉛筆の種類なんて気にしたことがあるか?」
「……いえ、特に考えたことなかったです」
HBの鉛筆は小学生の時によく使っていた記憶がある。種類があること自体は知っていたけど、正直なところ全部ただの鉛筆だと思っていた。
「まあ、デッサンなんてやらなければ、鉛筆の種類なんて気にするやつはいないさ」
「でもな、横山。お前もこれから美術の世界に飛び込むわけだ。だから、鉛筆の種類とその使い道くらいはしっかり覚えておけ」
「はい、わかりました」
蒼井先生は机に並べた鉛筆の中から、2本を手に取る。
「――このHとB、意味は分かるか?」
「……いえ」
考える間もなく、僕は素直に首を振った。
「まずはH。これはハード(Hard)の頭文字だ。芯が硬くて、描くと薄い。そしてB。こっちはブラック(Black)のBだ。芯が柔らかくて、濃い。」
「それから、HやBの前についてる数字。これが大きくなるほど、Hはより薄く硬く、Bはより濃く柔らかくなる。HBは、だいたいその中間ってところだな。」
「鉛筆の特性を理解すれば、それだけで表現の幅が広がる。――さて、じゃあ実際にやってみるか」
蒼井先生はリンゴのサンプルを机に置く。
「このリンゴをデッサンする時、アタリ――つまり最初の下描きに使うなら、どの鉛筆を選ぶ?」
唐突な問いかけに、一瞬戸惑いながら考える。
アタリって……たぶん最初に描く薄い線のことだよな。となると、やっぱり薄いHが正解なんじゃ……?
「……Hの鉛筆ですか?」
「ふむ。確かにHは薄い線が描けるが、芯が硬いぶん、紙によっては引っかき傷のように跡が残ることがある。」
「なるほど……」
「だからおすすめは、Bから2Bあたりだ。柔らかくて消しやすいし、強く描いても紙を傷めにくい。もちろん好みもあるが、初心者には特に向いてる」
蒼井先生は、僕の目の前で鉛筆を軽く持ち替えてみせる。
「――描き方についてだが、まず鉛筆は立てて描くより、寝かせて描く。そうすると、自然と筆圧が弱くなるし、アタリの線が軽く描ける」
蒼井先生は机の上に紙を置いて、実際にサラサラと鉛筆を滑らせてみせた。
「アタリを描く時は、リンゴを丸だと思って一発で円を描こうとするんじゃない。むしろ、最初はゆるい五角形――面がある物体だと思って、ざっくり面取りするイメージで描いてみろ」
「……五角形ですか?」
思わず手元の鉛筆をじっと見つめる。
「ああ。最初から丸く描こうとすると、どうしても平面になりやすい。だが、面がいくつもあると意識するだけで、自然と立体感が出る」
蒼井先生の指先が、紙の上をなめらかに滑る。サラサラと鉛筆が紙をこする音がやけに心地いい。
「この意識があるかないかで、同じリンゴでも絵の奥行きが変わってくるぞ」
「そして――どの面がどう光に当たってるか、じっくり観察してみろ。立体を意識して、おおまかに明るい部分と暗い部分を分けて、ざっくり影をつけていくんだ」
蒼井先生は鉛筆を寝かせて、さっと紙の上に明るい部分と影を描き分けてみせる。
「形が見えてきたら、今度はより具体的なリンゴらしさを足していく。例えば表面の模様だったり、ヘタの部分だったり。こういう細かいところを描くときは、今度は鉛筆を少し立てて、細い線で仕上げていくといい」
「……なるほど」
蒼井先生は鉛筆を置いて、ふっと一息つく。
「……よし、じゃあ横山。今説明したことを意識して、自分で描いてみろ」
「はい!」
少しだけ緊張してきたけど、それと同じくらい不思議とやる気も湧いてくる。
「分からないことがあれば、何でも聞きなさい。――分からないまま無理に進めても、結局つまづくだけだからな。一度立ち止まって、きちんと理解してから進めばいい」
「……ありがとうございます!」
僕は深呼吸ひとつして、鉛筆を手に取る。
目の前のリンゴをじっと見つめながら、さっき教わった面の意識や光の当たり方を思い出し、ゆっくりと、でも確かに、最初の線を紙の上に走らせていった。
13話以降から毎週水曜日、土曜日の21時頃。週2回で投稿してまいります。よろしくお願いします