11話
自販機が置いてある昇降口へ向かう。
ゆっくりと日が沈み始め、空が淡いオレンジ色に染まっていく。その光がガラス越しに差し込み、廊下をぼんやり照らしていた。
美術室で張りつめていた緊張も、こうして歩いているうちにだんだんとほぐれてくる。浮ついた足取りで階段を下り、廊下とはまた違う静けさが広がる昇降口へ――。
自販機の前に立ち、財布から小銭を取り出す。
(……何にしようかな)
指先が、自販機のボタンの上をそっと滑る。
いくつかのボタンを迷いながら行ったり来たり――まるで指先だけが勝手に踊っているみたいだ。
結局、無難に缶コーヒーのボタンを押す。
ゴトン、と乾いた音がして、缶が取り出し口に落ちる。
プシュ、とプルタブを引くと、ほろ苦いコーヒーの香りがふわりと立ちのぼる。
(……苦い)
普段なら絶対に選ばないはずなのに、今日はなぜか少しだけ冒険してみたくなった。
「お、横山くん!」
背後から声がして振り返ると、天橋さんがジャージ姿でこちらへ歩いてくるところだった。
「こんな時間に会うなんて珍しいね」
「うん、さっきまで美術室で絵を描いてたんだ」
「え、もう美術部入ったの?」
「放課後すぐ、入部届出してきたよ」
「すんごい行動力……!」
天橋さんは目を丸くして、ちょっと感心したように僕を見上げる。
「で、白石さんとは何か進展でもあった?」
天橋さんがニヤニヤしながら僕を覗き込んでくる。
「うん、三回叩かれた」
「叩かれた……!? え、なにそのプレイ……」
「姿勢が悪いって座禅とかで使う棒でバシバシって」
僕はその場で、警策を持つふりをしてバシバシッと空振りしてみせる。
「……彼女、意外とスパルタなんだね」
天橋さんはちょっと引きつった笑顔で苦笑いした。
「そういえば、天橋さんはなんでここに?」
「ああ、部活中に飲み物切らしちゃってさ。買いに来たの」
「……部活?」
「うん、私ダンス部なんだよね」
「へぇ、ダンス部……」
クラスではそれなりに話してきたつもりだったけど、まだ知らない一面もあるんだな、なんて思う。
天橋さんは自販機の前まで来ると、ジャージのポケットをまさぐって――
「……あ」
小さくつぶやいた。
「どうしたの?」
「……財布、忘れた。取りに戻らなきゃ」
ちょっと肩を落とす天橋さん。
「何買おうとしてたの?」
「……え?」
「奢るよ」
「……神ぃ!!」
天橋さんは満面の笑みで、小さくガッツポーズ。
「……何飲む? スポドリとか?」
僕は財布を取り出して、小銭を投入口に入れる。
「うーん……お水でいいかな。スポドリは美味しいけど、飲んだ後ちょっと口の中がベタベタするから」
僕がミネラルウォーターのボタンを押すと、ゴトンッと音を立ててペットボトルが落ちてくる。それを取り出し、天橋さんに手渡そうとする。
「……」
でも、天橋さんはちょっとだけ僕から距離を取る。
「どうしたの?」
「……今、私、たぶん汗臭いと思うから……」
顔を赤くして、恥ずかしそうにそっぽを向く天橋さん。
――しまった、ちょっと気遣いの仕方を間違えたかもしれない。
「ご、ごめん……」
「あはは、横山くんは全然気にしなくていいのに!」
それでも、天橋さんは少し照れた笑顔でペットボトルを受け取る。
「ありがと。助かったよ。またね、横山くん」
「うん、またね」
天橋さんは、ペットボトルを握りしめながら小走りで去っていった。
その背中を見送りながら、
(……よし、僕も戻らなきゃ)
缶コーヒーを飲み干して、ゴミ箱に捨てる。
少しだけ肩の力が抜けて、僕は美術室へと戻るためこの場から離れた。
静かな校舎は、どこか音が吸い込まれるみたいに静かで、足音だけが響いている。
階段を上がっていくと――
「……あ」
踊り場を抜けて廊下に入ろとした瞬間、向こうからやっきた女の子にドンッと正面からぶつかってしまう。
「――ったぁ」
女の子はその場で尻もちをついて小さなうめき声を漏らした。
僕は慌てて彼女の所へ駆け寄る。
「ご、ごめん!大丈夫?」
慌てて声をかけると、彼女は少し痛そうに眉を寄せながらも、ゆっくり顔を上げた。
――腰までまっすぐに伸びた、静かな藍色の髪。その横顔には小さな黄緑色のヘアピンが留められている。
そして、目が合った瞬間、透明感のある水色の瞳がまっすぐこちらを見返してきた。
(……あれ、この子、どこかで見たことがあるような……)
妙に記憶に引っかかる顔。でも、同じクラスじゃないのは確かだし、三年生に知り合いもいない。
一年生なら穂乃果くらいだし、他のクラスの子もほとんど覚えがない。
――それなのに、なぜか、頭のどこかにひっかかる不思議な感じ。
「……っ」
誰なのか思い出す前に、彼女は僕の顔を見てぱっと目を見開く。
そしてすぐさま立ち上がると、スカートの埃を払って、そのまま小走りで廊下の奥へと消えていった。
「……?」
なんであんなに慌てて立ち去ったんだろう。
まあ、あれだけ元気に動けるなら大丈夫かな。
――それにしても、やっぱりどこかで見たことがある気がするけど……。
「……まあ、いっか」
さっさと美術室に戻らないと。
何もなかったように歩き出し、再び美術室を目指す。