10話
放課後、僕は職員室までやって来た。
職員室の中は想像以上にざわざわしていて、先生たちが慌ただしく机の間を行き来している。誰かが電話対応に追われ、また誰かは山積みのプリントに埋もれている。
紙の擦れる音と、コーヒーの香ばしい匂いがごちゃまぜになった空気の中、僕は自然と背筋が伸びる。
「……何の用だ、横山?」
山のような書類に囲まれた蒼井先生が、椅子に座ったまま僕を見上げてくる。
「……いえ、その……大した話ってほどじゃないんですけど」
美術部に入りたいです、って素直に言えばいいのに、こういう時に限って妙に口ごもってしまう。
職員室の張りつめたような雰囲気に、変に気圧されてしまったのかもしれない。
とりあえず――と、昨日のことを先に謝ろうと思った。
「昨日、遅くまで学校に残ってしまって……すみませんでした」
蒼井先生は、少し意外そうな顔で僕を見る。
「そんなことで、わざわざ職員室まで来たのか?」
「あ、いえ……一応、謝っておいた方がいいのかなって」
「気にするな。そもそもあんな時間までいた原因は白石にある」
さらりと言われて、僕もちょっと拍子抜けしてしまう。
「それより、なんで横山が白石と一緒にいた……?」
今度は逆に不思議そうな顔でこちらを見てくる蒼井先生。
「いや、えっと……」
「……なんだ、美術部にでも興味を持ったのか?」
言いたかったことを、先に言われてしまった。
「あ、実は……はい」
僕は肩を落としながら、正直に答える。
「冗談で言ったつもりだったが……そうか」
蒼井先生は目を丸くして、少し驚いていた。
「なので蒼井先生、入部届をいただけないでしょうか……?」
「……わかった」
蒼井先生は軽く頷くと、机の引き出しからファイルを取り出し、一枚の入部届とボールペンを差し出してくる。
「ここに名前を書け」
「はい、わかりました」
渡された入部届に自分の名前を書き込む。
手が少しだけ汗ばんでるのが自分でもわかった。
書き終えて、用紙を蒼井先生に返す。
「……よし、とりあえず手続きとかはこっちで進める。まあ、横山――ようこそ、美術部へ」
蒼井先生が少しだけ微笑むと、受け取った入部届をファイルにしまう。
「はい、よろしくお願いします!」
「まあ、そんなに肩肘張るな。それより――どうして美術部に入ろうと思った?」
「……」
聞かれて当然だ、とは思う。けど僕の場合、理由が正直、普通じゃない。
(まさか、女の子にドキドキするとループする呪いがあるのに、白石さんだけループしなかったから、もしかしたら抜け出せるヒントが白石さんにあるかもしれなくて……なんて、絶対言えない)
なんて説明したらいいんだろう。
少しだけ口ごもる僕を、蒼井先生はじっと見つめている。
「白石さんが描く絵が凄くて……僕も描いてみたいなって」
――今朝、昴にも言った言葉を、そのまま蒼井先生にも伝える。本当のことだし、嘘じゃない。
「こんな中途半端な気持ちで描いてみたいなんて言うのは、真面目にやってる人たちからしたら、きっと失礼だと思うんですけど……」
正直、僕自身も本当に描けるのかな?ってちょっと不安だ。
「そんなことは無い。」
「……え?」
意外な言葉に思わず顔を上げる。
「いいか横山。してみたい、やってみたい、学んでみたい――そういった挑戦する気持ちは、とても大切なことだ。もちろん、挑戦した結果、後悔することもあるかもしれない。でもな、挑戦しなかったことを後悔することだってある。……する後悔より、しない後悔の方が辛いぞ」
「挑戦することを怖がって、結局なにもできないまま終わる人間もいる。でも横山、お前は挑戦することを選んだ。それだけでも、本当に立派だと私は思うぞ。……胸を張れ。それは誇っていいことだ。」
「……ありがとうございます」
思いがけない蒼井先生の言葉に、心の奥からじんわりと勇気が湧いてきた。僕の返事に、先生は軽く頷く。
「あの、蒼井先生」
「なんだ?」
「今日から美術部として活動してもいいでしょうか?」
「かまわん。ただ、私はこのあと少し会議があってな。本当は色々と教えてやりたいところだが――」
「大丈夫です、白石さんに教わるつもりなので!」
昨夜、彼女に絵のことを教えてもらう約束をしたばかりだ。これまで真剣に絵を描いたことなんてなかったけど、不安よりも、どちらかといえば楽しみの方が大きかった。
「……白石に、か。横山」
蒼井先生が、少しだけ複雑そうな顔をする。
「はい」
「私が会議を終えて戻るまで……それまで、耐えろよ」
どうして先生がそんなことを言うのか、そのときの僕には、まだ知る由もなかった。
◇◇◇◇
職員室を飛び出し、美術室に駆け込むと、白石さんが静かに待っていた。
そのまま彼女に促されるように、イーゼルとキャンバス、道具箱を借りて準備を終える。
本格的に絵を描くなんて人生初。ちょっとだけ胸が高鳴る。
筆やパレットを手に持っただけで、なぜか自分がちょっとした画家になったような気分だ。思わず誇らしく筆を握ってしまう。
――そう、この時までは。
バチンッッ!!
「――っつ!?」
いきなり頭に鋭い衝撃が走り、視界がグラリと揺れた。
「な、なんで叩くのさ!」
涙目で白石さんに抗議する。
「……姿勢が悪いから」
淡々と説明する彼女の手には、どこから出したのか木製の棒。どう見ても、座禅とかで使う警策だ。
「どこからそんなもの持ってきたの!?」
「準備室にあった」
「なんで準備室に……」
「……集中して」
バチンッッ!!
またしても脳天に衝撃。視界が二度、三度と揺れる。
「――って、だからそれ、頭を叩くものじゃない」
「ならどこを叩けば……?」
「肩とか、せめて……!」
「……頭の方が叩きやすいのに。不便ね」
いや、そもそも頭を叩かれたら集中も姿勢もあったもんじゃない。
面倒くさそうな表情を浮かべる白石さんに、心の中でツッコミを入れつつ、涙目のままもう一度キャンバスに目を向ける。
……だけど、キャンバスはまだ真っ白のまま。
無理もない。僕は完全なる初心者、何から手を付ければいいのかすら分からない。
頼みの綱の白石さんも、基本放置スタイル。さっきの「姿勢を正せ」くらいが、実質初めてのまともなアドバイスだった気すらする。
いや、一応それっぽいアドバイス(?)は一つだけもらってる。
それは――
「……集中して。そしたら、心に景色が浮かびあがるから。それを描いて」
「……」
――これである。
今になって、蒼井先生が「耐えろ」って言っていた理由が、なんとなく分かった気がした。
(……ええい、ままよ)
豪に入れば郷に従え、だ。白石さんの言う通り、まずは集中してみる。
――集中、集中……。
すればするほど、逆に頭の中がどんどん無になっていく気がする。
肝心の「心に浮かぶ景色」なんて、全然出てこない。
(……どうしよう)
我に返って、そもそも何を描けばいいのか、また手が止まる。
――そうだ!思いついた。
昨日の放課後、あの黒猫と一緒にいた時を描けばいいんじゃないか。
我ながらナイスアイデア。少しだけ自信が戻ってきて、いざ筆を動かそうとする――
「……できません!!」
……無理だった。描きたいものは浮かんでも、それをカタチにする技術がまるでない。
バチンッッ!!
「いてぇ!!」
「……諦めないで」
本日三度目の脳天への衝撃と、白石さんの淡々とした一言が、美術室に響き渡る。
――その直後。
ガラガラッ
不意に、美術室の扉が音を立てて開いた。
「すまない横山。遅くなった」
蒼井先生が申し訳なさそうな表情で入ってくる。先生はちらりと僕と白石さんを交互に見て、小さくため息をつく。
「……とりあえず一度、筆を置け」
蒼井先生のその一言で、場の空気がふっと和らぐ。
――気づけば、僕と白石さんは、さっきまで使っていたキャンバスやパレットを片づけていた。
「……まったく。教えるって聞いたから様子を見に来たが、まさかいきなり水彩画とはな」
その後ろで片づけを手伝っていた蒼井先生が、ため息混じりに小言をこぼす。
「水彩画って、やっぱり難しいんですか?」
僕は素直に聞き返す。
「難しいっていうよりな……基礎を知らないうちからやると、どうしても挫折しやすいんだ。最初は鉛筆で下描きするのが基本なんだが――」
「なるほど……」
「実際、横山。お前、キャンバスが真っ白だったろ? どこから手を付けていいかわからなかったんじゃないか?」
「……はい」
先生の言う通り、僕は何をどう描けばいいのかすら分からなかった。
「本来は下描きから入るもんだが……白石はそういう手順をすっ飛ばすタイプでな。自分の感覚だけでいきなり描き始めるから、その感覚でお前にもやらせたんだろう」
「……なるほど」
淡々と先生の説明を聞きながら、改めて白石さんのすごさを実感する。
「でもな、基礎ができなければ何事も始まらん」
僕が使った道具をだいたい片付け終わった頃、蒼井先生は新しいスケッチブックを1冊と鉛筆を僕に手渡してきた。
「まず横山、お前が最初にやるのは――デッサンだ」
「……デッサン、ですか」
言いながら、僕の前に置かれたのは、コトリと音を立てて置かれたリンゴの食品サンプル。
「とりあえず、このリンゴを描いてみろ。終わったらアドバイスしてやるから」
「わかりました」
慣れない手つきでスケッチブックと鉛筆を持ち、近くの椅子に座る。
改めてリンゴを見つめながら、僕は静かに描き始めた――。
「……できた」
我ながら渾身の出来――のはずなのに、スケッチブックの上にはどこかゆがんだリンゴ。線もガタガタ、影もつけたつもりだけど、どう見ても平面の丸だ。
出来上がったデッサンをそっと蒼井先生に差し出す。
先生は無言でじーっと見つめた後、深いため息をひとつ。
「……ダメだな」
バッサリと斬られた。やっぱり、先生は容赦ない。
「まず、鉛筆の持ち方がなってない。文字を書くように持ってるだろ? それだと長い線が引けなくて、どうしても線が歪む」
「それから、影の付け方も単純すぎるな。これじゃあ立体感は出ない」
「……うう」
自分でも分かってはいたけど、改めて指摘されるとやっぱりへこむ。
「だが――これは当然の結果だ。お前はまだ何も知らないんだからな。今日はまず今の実力を知るため、あえて何も言わずに描かせた。ここからが本番だぞ、横山」
「――だが、ここで一度休憩だ。ずっと続けていても、かえって非効率だからな。少し脳を休ませてから、また再開しよう」
「は、はい……」
実際、これまでの人生で絵を描くことにここまで頭を使った覚えはない。妙な達成感と、どっと押し寄せる疲労感で、僕は思わず肩の力が抜けた。
(……飲み物でも買ってこよ)
気分転換がしたくて、僕は一度、美術室を出ることにした。