借金まみれの名ばかり貴族令嬢ですが、金で買われた結婚に心までは売りません。
愛など求めたことはなかった。もとより、このような家に生まれた時点で、結婚は己の意思で選ぶものではないと知っていた。
鏡の中で、白いドレスを纏った私がこちらを見ている。繊細なレースが肩から流れるように縫い込まれ、薔薇の花びらを幾重にも重ねたようなスカートが腰から広がっていた。
夫となる人の命で誂えられた純白のウェディングドレス。優美で気品に満ち、どこから見ても、世間に見せるにふさわしい幸せな花嫁の姿をしている。
けれど、これは誓いの時を夢見る娘のために用意されたのでも、幸福な人生の始まりを祝うためでもない。ただの代償だ。
今日このとき、私がこの花嫁衣装を着ることと引き換えに、父は多額の借金を帳消しにしたのだから。
縁談が持ち上がったのは、まるで嵐のように突然のことだった。
どこの家の誰ともわからぬ、けれど莫大な資産を持つ男が、私を妻に望んでいるという。突然の話だったけれど、反論はしなかった。
親の決めた縁談を断れるはずがない、というのはもちろん事実に違いないが、なにより私は両親の愛を信じていた。これが両親が選んだ最善の答え。娘の身を案じ、老朽化した屋敷でくすぶらせるよりは、裕福な家へと送り出したいと願ったのだろう。それなら今の私にできることは、この結婚を従順に受け入れることだ。
「あなたのためよ」そう言って微笑んだ母の表情を、疑う理由がなかった。「この方なら、きっと幸せにしてくださる」父がそう言ったときも、心の中で少しだけ迷いながら、それでも頷いた。
すべてが覆されたのは、昨夜のことだった。
眠れずにふと階下に降りたとき、書斎の扉が半ば開いたままになっていた。父は不在で、帳簿や本が無造作に積まれていた。広げられた書状の数々のうち、軽い気持ちで手に取った一枚。何気なく目を通したその中に、自分の名を見つけた。
丁寧な筆跡で書かれた私の名前のすぐ横に、見慣れない金額が記されていた。ゼロがいくつも並んだそれは、支度金などという甘い言葉で包めるものではなかった。
家の抱える債務の総額と寸分違わず一致する数字。そして、毎月の援助を約束する文言。
書面の下部には、結婚相手となる男の名。その瞬間、私はようやくすべてを理解したのだ。
これは単なる縁談ではなかった。
両親が、私の幸せのために選んだ未来でもなかった。
私という財産を代価に、家が救われるという取引だったのだ。
「綺麗よ、ソフィー」
婚礼を執り行う教会の控えの間。母の声は、感情を殺したように淡々としていた。慰めでもなく、称賛でもなく、それはただ口にするべき言葉として用意されたもの。義務のように口から出た、空洞の美辞。
私は頷かなかった。唇を噛み、目を逸らすように下を向いた。ヴェールが降ろされ、視界が柔らかな紗に覆われる。厚い絨毯に覆われた床の上、刺繍の施された壮麗なカテドラルヴェールが広がっていた。完璧な花嫁の装い。誰が見ても、文句のつけようなどないだろう。
高利貸しに門を叩かれ、召使いたちがひとり、またひとりと辞め、屋敷の天井が雨漏りを始めても、父は最後まで「何とかなる」と言い続けていた。その「何とか」の正体が、私を売り払うことだったとはあまりにも皮肉が過ぎる。
売られる私は、家畜となにが違うのだろう。自嘲するように口だけで笑う。令嬢とは名ばかりで、実のところ私は金銭と釣り合う体裁の良い商品に過ぎない。
やがて、控えの間の扉が音もなく開け放たれた。父に手を引かれ、次いで鐘の音が、重く、厳かに鳴り響いた。
重々しい扉が静かに開かれ、陽光の差す礼拝堂に足を踏み入れる。花嫁として歩み出した私はゆっくりとバージンロードを進んでいく。堂内は静まり返っていて、足音ひとつ、衣擦れひとつすら重く響いた。参列者たちの視線が集まるのを、紗の向こうで感じる。けれどそのどれもが祝福の眼差しではない。ただの好奇と興味。借金まみれの家の娘が、どこぞの成金に嫁ぐのだ、と。
奥の祭壇には、既に新郎が立っていた。アンリ・グランヴィル。
初めてその名を耳にしたのは、縁談の話が舞い込んだあの日だった。聞いたこともない姓。どこの貴族でもなければ、旧家の家名でもない。
後にわかったのは、彼が低い身分から身を起こし、たった一代で莫大な財を築き上げた商人であるということだった。鉱山、織物、そして輸送業。冷徹なまでの手腕で次々と競合を潰し、まるで軍を指揮するような采配で商圏を拡げていったという。年齢はまだ三十にも満たないはずだが、その名は既に商人たちの間で広く知られているらしい。
けれど貴族の間では、彼の名は決して敬意をもって語られるものではなかった。
「所詮、成金だ」「金だけはあるが血筋がない」そんな言葉が陰で交わされているのを私は聞いた。
彼が顔を上げた。冷たい目をしていた。氷のように澄んだ灰色の瞳が、まるで品定めをするように私を見つめている。そこに情はなかった。驚きも、喜びも、戸惑いさえも。まるであらかじめ決められた品物が、予定通り目の前に届けられただけとでも言いたげに。
私は震える足を一歩、また一歩と前へ進めた。ベール越しに見る彼の表情は、石像のように動かない。私は花嫁であるはずなのに、どこにも歓迎の色はなかった。声をかけられることもなければ、手を差し伸べられることもない。すべてが無言で、単なる儀式として進んでゆく。
——この人が、私の夫になる。
名前を知った日よりも、書状を見た夜よりも、今日この瞬間がいちばん現実だった。これは結婚などではない。ただの契約。私の身体と名前を、彼の所有物として差し出すだけの儀式に過ぎない。逃げる道などどこにもない。ここは取引の終着点なのだ。
神父が祝詞を唱える。私の隣に立つアンリ・グランヴィルは、微動だにせず、その一語一句を無言のまま受け入れている。
私が誰であるかなど、彼にとってはどうでもよかったのだろう。名前すら覚えていないかもしれない。ただ条件に適う令嬢という属性を持つ娘であれば、それでよかったのだ。
父が差し出した商品、それが私。彼が選んだのは、私ではなく、私という存在の価値。
あまりにも静かなその横顔を見つめながら、私は理解した。私はこの人に、決して愛されることなどない。
◆
扉が静かに閉じられる音がした。
豪奢な寝室の空気がぴんと張り詰める。新しい香木が焚かれた空間に、まだ見慣れぬ家具と織物があった。静けさのなかで、蝋燭の炎がわずかに揺れる。
私はドレッサーの引き出しに手を入れ、小さなナイフを取り出していた。華奢な装飾が施されたそれは、本来、手紙の封を切るためのもの。だが今の私の手の中では、十分すぎるほどの刃となる。右手でその柄を握り、左の袖口にゆっくりと押し込む。寝衣の薄い布地を伝って、刃の重さがひとつ、腕に寄り添う。
ヴェールも、髪飾りも、全て外していた。純白のドレスの代わりに、透けるほど薄い寝衣を身にまとっている。この格好で彼を迎えることが、いかに屈辱的な意味を持つのか私は知っていた。
足音が近づいてきたのは、それから間もなくのことだった。廊下を踏みしめる音。一定の、迷いのない足取り。私は反射的に呼吸を止め、扉へと視線を向けた。
扉が開く。入ってきたのは、夫となった男、アンリ・グランヴィル。
昼間と変わらぬ、冷たい瞳をしていた。礼装は解かれているものの、シャツとベストは皺ひとつなく整っていて、寝間着に着替える気配もない。
彼は部屋の中を見渡し、やがて私の姿を見つけると、軽く顎を上げただけだった。
私も何も言わなかった。寝台の傍に立ち、ただじっと彼を見つめていた。彼の視線が、私の手首へ、袖口へと移動したことに気づいた。ゆっくりと、私はその袖口からナイフを取り出した。気づかれてもかまわなかった。
刃の先を静かに、自分の喉元へとあてがう。震えはなかった。心臓は確かに脈打っていたが、恐怖のためではなかった。これは、唯一残された私の尊厳なのだ。
たとえ夫という名の主にさえ、ここだけは踏み入れさせてはならない。自分という存在を、最後の一片まで奪われないために。
「……私に触れたら、喉を掻き切るわ」
初めて言葉が空気を震わせる。アンリの瞳がわずかに細まるのを、私は見た。感情の色は読めなかった。
「お飾りの妻でいいなら、寝室を共にする必要はないはず。……あなたが求めているのが見せかけの結婚なら、これ以上、身体まで奪わないで」
張りつめた声が、蝋燭の火さえ揺らすかのように夜の空気を震わせる。私の足元では、織り模様のある厚い絨毯が冷たく沈黙していた。すべてが絵のように美しく、そしてすべてが空虚だった。アンリは黙っていた。だが、拒絶の言葉は発されなかった。怒声も威圧もない。彼はただ静かに私を見ていた。
「私は娼婦にはならない」
喉に刃をあてたまま、私は最後の言葉を吐き出した。声が震えないように、唇を固く噛み締める。全身の力が一点に集中する。
「私はあなたに、身も心も売り渡して生きていこうとは思わない」
それは、私のすべてだった。彼のもとに嫁ぐことは受け入れた。けれど何もかもを差し出すことはできない。
凍てつくような沈黙ののち、アンリは淡々とした低い声で言った。
「わかった」
それは、決して温情からくる妥協ではなかった。驚くほど簡潔に、まるで何かの契約を交わすようにアンリは返した。
「金で買った女に、愛を求めるつもりはない」
それだけを残し、彼はゆっくりと身を翻した。振り返ることはなかった。沈黙のまま、扉を開けて去っていく。扉が閉まる音がして、再び部屋は静寂に沈んだ。
私はその場に膝をつき、握っていたナイフを手から落とした。音を立てて転がった銀の刃が、冷たい床の上で止まる。
火の残る蝋燭が、細く揺れていた。揺らめく影が壁を這い、寝台の上にまで染み込んでゆく。目を閉じることも、涙を流すこともできなかった。虚空を見つめながら、私はゆっくりと深く息を吐いた。
これが、名ばかりの新婚初夜。そして、始まりを拒絶された夫婦の、静かな第一歩だった。
◆
朝になれば目を覚まし、召使いたちの手によって着替え、決まりきった朝食の席につく。だがその向かいにアンリが座っていたことはほとんどなかった。彼は朝が早い。仕事へと出かけてしまうか、あるいは書斎に籠るのか、私の目の届かない場所で日々を費やしている。
私に課せられた義務といえば、わずかばかりの来客への応対と、夫人としての外聞を保つことだけ。寝室は分けられ、彼は決して私に触れることはない。あの夜、ナイフを喉に当てた私の言葉を彼は忠実に守り続けていた。
日中は広すぎる屋敷を歩き回る。足音すら響かない絨毯の上を歩き続けていると、異国の館に迷い込んだ旅人のような心地になる。
本を読むこともあった。刺繍の針を持つこともあった。だがそれらは退屈を紛らわせるだけの行為であって、何ひとつ私の心を満たしてはくれなかった。
私は夜ごと、窓の外を見つめた。カーテンを揺らす夜風が、唯一の訪問者だった。何を思えばよいのかも分からないまま、時間だけが過ぎてゆく。
時折、夫は私を外へ連れ出した。絢爛なシャンデリアの下、光と香りと虚飾の渦巻く上流階級の人々の社交の場。
今夜も私はそうした宴の一つに連れていかれる。屋敷の大理石の床に、私の裾がすべっていく。
光を帯びたようなシャンパンゴールドのサテン地に、数え切れないほどの銀糸の刺繍が這っていた。裾には信じがたいほど精緻なレースが重ねられ、歩くたびに柔らかく揺れる。しかしどれほど飾り立てられ、贅沢なドレスをお仕着せられてもなお、私は私だった。
鏡のなかの女は大貴族の夫人のように装われていたが、所詮は借金まみれの貧乏貴族の娘。表情ひとつ浮かばぬその顔は、何を纏っても美しいとは思えない。
「……これが、あなたの望む姿なの」
小さく呟いても、応える者はいない。鏡の奥から、まるで他人のように装飾された女がこちらを見返す。重たくまとめ上げられた髪には宝石を散らした櫛が挿され、耳元には滴るようにダイヤモンドの揺れるイヤリング。胸元のネックレスは、私が一生かけても手にできないような価値を持っているのだろう。私は美しくない。華やかな婦人たちのなかにあって、目を引くような輝きもない。そんな私を、彼はどうしてこうまで飾り立てるのだろう。これは彼の成功の証なのだろうか。名ばかりの貴族の娘を娶り、大金を注ぎ込んで貴婦人として仕立て上げることが、自らの立場を誇示するための方法なのだろうか。
アンリは、私に何を求めているのだろう。いや、きっと何も求めていない。ただ貴族の血筋を持つという、それだけの理由で彼に選ばれた。名の取引、家の引き換え。血と金で縫い合わされた関係。
その夜の宴は、ある伯爵家の私邸で催されていた。白亜の大広間には燭台が何十も灯され、光と香りが渦を巻く。蝋燭の光は壁の金細工を撫で、煌びやかなシャンデリアは天井に夜空のようなきらめきを投げかける。婦人たちのドレスは牡丹の花のように華やかで、殿方たちは燕尾服に身を包み、場を泳ぐように言葉を交わしていた。琥珀色のワインがグラスに注がれ、笑い声と楽団の旋律が夜を溶かしていく。
その只中で、私の腕を取ったアンリは、どこまでも冷静だった。
常に完璧な所作、沈着な微笑、そして、夫人である私に向ける穏やかな眼差し。誰が見ても理想的な夫婦だった。来賓客が「お似合いですな」と声をかければ、アンリは静かに頷いて答える。
「私の妻は、控えめですが誇るべき存在です」
その声には真摯さすらにじんでいた。白々しいものだ、と心の中で思う。発せられたその言葉が、どれほど表面的で空虚なものか私は知っていた。この夫婦という舞台の幕の裏に、真実は一つもない。帰れば私たちは他人同然。目を合わせることも、言葉を交わすことも、まるで契約に違反するかのように避ける。
けれど、社交の場ではそうではいけないのだ。あくまで私は彼に選ばれた妻でなければならない。
私たちは見せかけの完璧を演じる。指先さえ触れる距離で並び立ち、作られた笑みを浮かべ、完璧な舞台の上で、誰にも気づかれないように心を殺しながら。私は終始微笑みを貼りつけたまま、静かに時が過ぎるのを待っていた。ワインの香りも、音楽の余韻も、どれも空虚に過ぎていく。
宴が終わり、馬車の扉が閉まり、屋敷の門が沈黙の中に閉ざされるとき、私たちの関係もまた幕を下ろす。帰りの馬車のなか、アンリは黙ったまま何ひとつ言葉を発さなかった。私はもう何度もくぐった夜のように、その沈黙に慣れきっていた。
ドレスの裾を引きずりながら長い廊下を歩む私に、彼は背を向けて書斎へ消えていく。あるいは、何も言わずに足音すら立てず、静かに夜の帳のなかへ溶けてゆく。私は振り返ることをしなかった。彼もまた、私を追うことはなかった。
◆
いつもと変わらぬ午後だった。薄絹のカーテン越しに射す光が床の模様を淡く浮かび上がらせ、柱時計の振り子が一定のリズムで時を刻んでいる。屋敷の一角にある小広間でソファに腰をかけ、私はただ無意味に指を動かしていた。手元にある刺繍枠には花の輪郭がほんの少しだけ縫いとめられているが、集中していたわけではなかった。心はここにはなく、過ぎた日々にも、来るはずのない未来にも向かえずに、ただ所在なさの中でかろうじて指を動かしていた。
そんなときだった。控えめなノックの音が、無音の空間を破った。
「奥様、お客様です。応接間にご案内しております」
そう告げた召使いの声に、私の眉はわずかに寄った。来客の予定はなかったはずだ。少なくとも私の記憶には何もなかった。客の名を訊ねると、召使いは少しだけ躊躇いがちに、けれど明瞭に答えた。
「ご母堂様、とのことです」
一瞬、鼓動が止まりかけた。
針を持つ手が止まり、膝の上でかすかに震えた。思わず聞き間違いかと思った。母がこの屋敷を訪ねてくるなど、考えたこともなかったから。しかしそう告げた召使いの顔に冗談の気配はなく、現実は否応なく私の胸に落ちてきた。
応接間の扉を開けると、そこには紛れもなく母がいた。しかしその様子は前とは明らかに違っている。かつては着古した安物のドレスしか持たなかったあの人が、今では柔らかなミルクティー色の絹のドレスを纏い、細やかなレースの手袋をはめていた。帽子には繊細な羽飾りがついており、指にはいくつもの宝石が光っていた。小さな革のバッグには金の留め金が施されていて、革の質だけで値段が知れる。
部屋に入った私を見て、母はにこやかに笑った。
「まあ、ソフィー。元気そうね」
この数ヶ月、母は一度も便りを寄越さなかった。家は貧しく、明日の食費にも事欠くほどだったはず。使用人の給金も滞り、屋根からは雨漏りし、家中が寒さに震えていた。そんな暮らしを私は知っていた。それなのに、目の前の母は、まるで別人のように微笑んでいた。その笑みは、余裕のある女のそれだった。苦労を脱し、今の暮らしに安んじている者の表情。私は何も言えず、ただ無言で立ち尽くした。
「あなたったら、もう少し明るい顔をなさいな。せっかく素敵な旦那さまのもとに嫁いだのだから、ね」
母は笑いながら、私の手にそっと触れようとした。私はその手を拒絶するようにはたいた。乾いた音が響いて、沈黙が部屋に広がる。
「……どうして来たの」
ようやく絞り出した声は震えていた。感情を押し殺そうとしても、胸の奥でふつふつと煮え立つ何かが、簡単には収まりそうになかった。怒りと、裏切られた思いと、どうしようもない哀しみが胸の奥で複雑に絡まり合っていた。
「そんな格好をして。まるで、前から裕福な貴婦人だったみたいに」
目の前にいるのは確かに母なのに、どこか遠いところに行ってしまったように思えた。
彼女の身にまとうものすべてが、かつて私たちの家にあった現実とはあまりにかけ離れていた。私たちは暖炉の薪にも困っていた。手紙の紙代を惜しみ、古い封筒の宛名を書き換えて使い回していた。それなのに、今の母はどうだ。爪先まで整えられた身なりに、寸分のほころびすら見当たらない。まるでこの豪奢な応接間にこそふさわしい淑女であるかのように、何の矛盾もなくそこに立っていた。
母は少しだけ表情をこわばらせた。それでもすぐに、唇の端に笑みを浮かべ柔らかな声で言った。
「違うのよ、これは。たまたま、最近つきあいのある方からいただいたもので……。あなたの暮らしに合わせるには、相応の服装が必要でしょう?」
その瞬間、心のどこかでかろうじて立っていたものが、音もなく崩れ落ちた。たった一言。けれど、それだけで充分だった。
「ぜんぶ、あの人のお金なんでしょう」
その問いは、誰よりも自分自身に向けたものでもあった。否定されたいとずっと願っていた。母の顔から、微笑がそっと剥がれ落ちる。笑ってごまかすこともできず、何かを言おうとして唇を開きかけるが、結局言葉にはならなかった。そんなはずはないと、誰かが言ってくれるのをずっと待っていた。けれどその希望は今、音もなく砕かれていく。
「気づかないとでも思った? あなたたちが私を何と引き換えにあの人のもとへ嫁がせたか、知られずに済むと思っていたの?」
声に出してしまえば、どれほど惨めな言葉かと思った。けれど、その惨めさを覆い隠すほどの感情が、胸の奥を埋め尽くしていた。
母は誤魔化すように首を横に振り、作り物のような声で言う。
「違うのよ、ソフィー。あなたにはちゃんとした将来が必要だったの。あの方は裕福で、あなたを大切にしてくれると……」
「やめて」
私は叫びたくなるのを必死に堪えた。喉の奥が焼けるように熱い。
「帰って。もう来ないで」
顔を上げて母を睨みつける。私とよく似た目元がわずかに潤んでいた。けれど私はその涙に心を動かされはしなかった。それはあまりに遅すぎる後悔の色をしていたし、整えられた装いの下からこぼれ落ちるには、あまりに不釣り合いすぎたからだ。
扉が閉まり、母の足音が遠ざかっていったあと、私はその場に立ち尽くしたまましばらく動けなかった。応接間にはまだ母の香水の匂いと、裏切りの余韻が残っていた。絹ずれの音。わざとらしい微笑み。あの眼差し。まるで、何事もなかったかのように装う、見慣れない女がそこにいた。けれど、あれは確かに私の母だった。
ひとりになった途端、こみあげてくるものがあった。怒りでもなく、悲しみでもなく、それらをすべて呑み込んで、なおなお胸を焼くような思い。
悔しい。
私は唇を噛んだ。こんなにも悔しさを感じたのは初めてかもしれない。母が身につけていた装飾品も、あの艶やかなドレスも、ひとつ残らず、私を夫に売ることで得たものだった。
両親は私の意思とは無関係に決めた結婚によって、裕福な暮らしを手にした。けれど、それは私も同じだった。食事は毎日暖かく、ドレスも靴も仕立てられ、召使いが掃除をし、夜には炉が部屋を温めてくれる。アンリ・グランヴィルという男の懐から出ている金銭で、私は命を繋いでいる。
その事実が、どうしようもなく悔しい。結局のところ私は、あの人に頼らなければ生きていけないのだ。
でも、誰かのお金で生かされるだけの人生を、私はもう望まない。あの人の金で買われた衣を纏い、あの人の名を名乗りながら、ただ黙って暮らすことに、私は甘んじたくはなかった。
私は自分の手で稼ぎたい。自分の足で立ち、自分の意思で何かを築きたい。たとえ小さな一歩でもいい。誰かに笑われたとしてもかまわない。このままではいられないと、あの屈辱の中で確かに思ったのだ。
◆
方法は、すぐに思いついた。
貴族の娘として、形式的にではあっても仕込まれてきた教養。礼儀作法、外国語、音楽、裁縫。どれも淑女であるために詰め込まれたものだったが、それらはまったくの無意味だったわけではない。
ふと、社交界で見かけた夫人たちの姿が頭に浮かんだ。多くは商人の妻であり、その子どもたちは、より高い階級へと近づくための「上品な教養」を欲していた。そこに、私の出番があるのではないか。名ばかりとはいえ、子爵家の娘という肩書きは、いまだ一定の力を持っていた。
私は、夫に告げずに少しずつ準備を始めた。まずは、社交の席で控えめに話しかけることからだった。華やかな会話の渦の中、静かに微笑む私に、ある夫人が「あなたは物腰がとても優雅ね」と声をかけてくれた。彼女の娘は十歳で、読み書きと会話の作法を学ばせたいのだという。
「わたくし、ほんの少しばかりであれば……お手伝いできるかもしれません」
控えめにそう申し出ると、夫人の目がぱっと輝いた。
「まあ、それは心強いこと。子爵家のご出身でいらっしゃるものね。娘もきっと喜びますわ」
こうして、私の小さな仕事は始まった。最初は週に二度、彼女の邸宅を訪れて礼儀作法や簡単な外国語を教える。報酬は控えめながら、私にとっては自ら得た初めての収入だった。
次第に評判が広がり、別の夫人たちからも声がかかるようになった。「貴族の教育を受けたご婦人に習えるなんて」と、彼女たちは口々に言った。その裏には生家の名と、夫の持つ権威があったことも、もちろん自覚していた。けれど、それでもいいと私は思った。何であれ、道は開かれたのだ。他の誰でもない、私自身が選び、動いたことで。
夫は何も言わなかった。それでよかった。干渉も拒絶もされないことは、私にとって最も穏やかな自由だった。
私は少しずつ、息を吸う場所を見つけていった。飾りではなく、生きるための場所。家のなかではただの飾りの妻であっても、教え子たちの前では、私は私としていられた。名前を呼ばれ、感謝される日々のなかで、少しずつ私は、自分の輪郭を取り戻していった。
その日、私は帳簿棚にしまわれている家計簿を探していた。昼食後にふと、家の財政についてきちんと把握しておかねばという思いが胸をかすめたのだ。彼のお金で生きている、そう意識すればするほど、せめて金銭の流れくらいは知っておきたい。苛立ちにも似た感情が私を突き動かしていた。
日々の出納帳は、きっちりと整頓されて革表紙の束になっている。私は「家計」と記された背表紙の中から、一冊を取り出して捲った。数字の羅列を頭に叩き込む。
ふと、棚の隅に不揃いに重ねられた束が目についた。いかにも整理の途中で放り出されたままになっていたその帳簿を、私は何の気なしに抜き取った。
「……寄付?」
頁の端に記されたその文字に、私は思わず手を止める。何だろうと思って開いた先に、思いがけない記録が並んでいた。
フィオナ孤児院 食材費 250G
破損窓修繕費 320G
冬季衣服費 15名分 575G
目を疑った。何度もページをめくっては戻り、数字を読み直した。それは見間違いなどではなく、しかも一度や二度ではなかった。日付は数年前にも遡る。私がこの家に来るよりもずっと前から続けられていた。そこには確かに、見覚えのある筆跡で夫の署名が記されていた。アンリ・グランヴィル。その名前が黒々としたインクで、事もなげにそこにあった。
信じられなかった。あの人が、孤児院に? こんなに多額の寄付を?
ページをめくれば、さらに同様の記録が続いていた。食費、修繕費、薬代、学用品。
思わず椅子に腰を下ろし、帳簿を膝に抱えたまま、私は息を殺した。誰に頼まれたわけでもなく、名誉のためでもなさそうだった。なぜなら、それらの記録にはいっさいの見返りや名義の主張がなかったからだ。ただ必要なところに、必要なものを。まるでそこに痛みがあると知っていた人のように。
「……なんで、こんな……」
呟いた声は、書斎の厚いカーテンに吸い込まれるようにして消えた。息を飲んで帳簿を閉じる。両手がわずかに震えていた。アンリ・グランヴィル。優しさの気配すら、見せようとしなかった人。冷たく、無表情で、最低限の言葉しか口にしない人。
恐ろしい印象しか持てなかった夫が、誰にも知らせず、こんな形で誰かの生活を支えていたということが、どうしても信じられなかった。
私はしばらくのあいだ、動くことができなかった。帳簿を胸に抱えたまま、書斎の古びた椅子に背を預け、天井をぼんやりと見つめる。自分のなかに浮かんでくるものが、何なのか分からなかった。
悔しさでも、怒りでもなかった。けれど、安堵でも感動でもない。戸惑い。混乱。そして、どうしようもない、敗北感のようなもの。
私は、彼をまったく知らなかった。いや、知ろうとさえしてこなかった。
あの人のお金で生きたくない。あの人に買われたくない。あの人に、自分の人生を明け渡したくない。ずっと、そう思ってきた。その想いが私を支えていた。自立しようと心に誓ったのも、ひとえにその悔しさがあったからだ。
けれど、誰にも言わず、求められもせず、黙って誰かの命を支えているその姿は、私が思っていたような夫とはあまりにも違っていた。
私は、まだあの人の本当の顔を一度も見ていないのかもしれない。
そう思った途端、胸の奥にかすかな痛みが生まれた。鋭くはない。けれどじわじわと、消えない熱となって残った。
私は彼を許したわけでも受け入れたわけでもない。しかし知らなかったことを知ってしまった。そして知ってしまった以上、もう以前のようには戻れない気がしていたのだ。
◆
最初はただの寒気だと思っていた。風が冷たい日が続いていたし、昨日の夕方、帰り道に少し雨に打たれたせいもあるのだろうと。暖炉の前で少し温まればすぐに治る、そう思っていた。
けれど昼下がり、身体の奥からじわじわと熱が湧き上がり、まるで骨の芯まで焼けるような感覚に変わっていった。指先が震え、息をするのも重くなる。毛布に包まれてもなお震えが止まらず、汗ばむ額を拭く気力さえ、どこかへ消えていた。
「……奥様?」
寝室の扉越し、そっと声をかけたのは側仕えのメイドだった。カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中で息を整えようとする私の耳に、その声は少しだけ震えて届く。私が何も返せずにいると、扉がゆっくりと開く気配がした。遠慮がちな足音が近づき、すぐにまた扉が閉まる音がした。やがて彼女は、冷えた水の入った銀の杯と、濡らして絞った布巾を手に戻ってきた。額に当てられた布巾の冷たさに、私はほんの少しだけ安堵の息を漏らす。
「旦那様が、お医者様を呼びに行かれました」
控えめな声だったが、その言葉ははっきりと私の耳に届いた。私はぼんやりとした思考の底で、それでも確かに眉をひそめた。
「……そんなはずないわ。わざわざ、私のために?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほどかすれていて、まるで他人のもののようだった。しかし、喉の奥からこみ上げる疑いは、体の芯まで冷やすほど確かだった。彼が、私のために医者を呼ぶ? そんなこと、あるはずがない。私は言葉を飲み込んだまま、天井を見つめていた。薄暗い天蓋の奥に、わずかに揺れるカーテンの影が映っている。
メイドは何も言わず、ただ額の布をそっと替えてくれた。その手つきが静かで優しくて、私は黙って目を伏せた。
しばらくして、階下の扉が開かれる音が遠くに聞こえた。私はまだ布団に伏したまま、耳だけをそっと澄ます。あわただしく交わされる声、玄関の床を打つ急ぎ足の靴音。続いて、寝室の戸の前で誰かが立ち止まり、軽くノックがされた。
「失礼いたします、奥様。お医者様がお見えになりました」
メイドの声に続いて扉が開かれ、薬の匂いをまとった男が入ってきた。初老の医師は私の顔を見るなり、穏やかな表情で小さく尋ねた。
「奥様。お加減はいかがですか」
私はかすかに首を振ることで応えた。呼吸が浅く、声を出すのも億劫だった。医師は慣れた手つきで私の額に手を当て、脈を取り、口を開けさせて喉を覗いた。ひんやりとした金属の感触が口の中に触れるたび、意識の底に沈みかけていた思考がすこしだけ浮かび上がる。
「熱がかなりありますね。のどの腫れも強い……ここ数日の疲れが重なったのでしょう。今晩はしっかり休まれて、湯冷ましと薬をお取りください」
私はうっすらと頷いた。薬を、と言われても飲み込むことすら煩わしい気がしたが、素直に従うほかなかった。
薬瓶を取り出しながら、医師がふと、何気ない調子で言った。
「グランヴィル様が馬で呼びにいらしてね。かなりの勢いでしたよ。奥様が倒れられたと聞いて、すぐにおいでになった。あれほど慌てた顔の旦那様は、初めて見ました」
その言葉に、私は瞬きを忘れた。思考が一瞬止まり、次いで胸の奥に静かな波紋が広がった。信じがたいという気持ちが先に立つ一方で、医師の表情や口ぶりには誇張や冗談めいたところはまったくなかった。ただ事実を、そのまま語っただけの声だった。
「……そう、ですか」
それだけ言うのがやっとだった。鼓動が速く、息をするのも苦しい。
医師が去ったあと、メイドがそっと布団の端を直し、枕元に薬と水を置いて部屋を出ていった。戸が閉まると、部屋はまた静寂に包まれた。
わずかに開けられたカーテンの隙間から夕日が差し込み、部屋の輪郭がうっすらと浮かび上がっていた。私はぼんやりと天井を見つめた。頭の奥が鈍く重たくて、まるで深い霧の中を歩いているみたいだった。
馬で行った、ですって。
笑ってしまいそうだった。どうしてそんなことを言うのだろう。あの人が、私のために? そんなはず、ない。今までずっと、言葉ひとつかけられたこともない。誰のために何をしたところで、あの人は私にだけは心を開かない。そうさせたのは、紛れもない私自身なのだから。
「みんな、して……」
喉がひりつく。小さく呟いた言葉は、部屋の中にさえ届かず、すぐに喉の奥へ沈んでいった。
——みんなして、嘘をついているのね。
あの医者も、メイドも。私を哀れんで、優しい嘘を口にする。でもそれは、私が誰かの庇護のもとに置かれるのをよしとする人たちの、勝手なやさしさ。私はそんなもの、求めたことなんてないのに。
けれどそのくせ、胸の奥がきゅう、と締めつけられるのはなぜだろう。ほんとうに全部、真実だったらよかったのに。ほんとうに、全部が——。
気づけば、瞼が勝手に重くなっていた。指先がじんと熱を帯び、体の芯から疲れが滲んでくる。まどろみの波が、ひたひたと全身を包み込んでいった。
冷たいはずの額の布がやけに温かい。きっと熱で、感覚がおかしくなっているのだ。私はもう、すべてを考えるのをやめた。思考も感情も、静かに深く、闇に沈んでいく。
誰も信じない。私はもう、信じたくなかった。あの人が、まるで本物の夫のように、私の病を気にかけるなどという甘言は。
額に貼りついた湿った髪を払いながら、私はゆっくりとまぶたを開いた。ぼんやりとした視界の端に、見覚えのある天蓋の影がゆれている。のどが、ひどく渇いていた。肌に触れるシーツがじっとりと湿っていて、自分の熱が抜けきらないまま染み出しているのだとわかる。
カーテン越しにわずかな月明かりが差し込んでいるのが見えた。夜の帷が屋敷をしんと静まり返らせている。身体はまだ重いけれど、昼間のような焼けつく熱は引いている。額に乗せられていた布も、いつの間にか取り除かれていたようだった。
枕元に置かれた水差しに手を伸ばしたが、中は空だった。少し逡巡したけれど、召使いを呼ぶのはどうにも気が引けた。ようやく眠れたろうに、それを起こしてまで水を頼む必要はない。
私はそっと布団から抜け出し、毛足の長い上掛けを羽織って部屋を出た。屋敷の廊下は冷えきっていて、床板を踏むたび、足裏にひやりとした感触が伝わる。けれどそれが、火照った体にはむしろ心地よかった。
厨房は、階段を下りた先の廊の奥にある。夜中に歩くには少し遠かったが、不思議と足は重くなかった。昼間より、ずっとましだ。身体の中で熱と怠さがまだ静かにくすぶっているけれど、それでも自分の足で歩けるほどに回復したということに安心できた。
厨房の戸を開けると、ひんやりとした空気が頬を撫でた。棚の上に残されていた水差しに口をつけ、数口、ゆっくりと喉を潤す。水が体に沁みわたっていく感覚に、ようやく深く息をついた。
帰り道、廊下を折れようとしたときだった。ふいに、足音がした。確かな気配をたたえて、床を踏みしめてくる。立ち止まった私の視線の先に、見覚えのある影があった。
アンリだった。
彼もまた、こちらに気づいたようだった。蝋燭を手に持ち、夜着に身を包んだ姿は、昼間のきっちりとした装いよりも、少しだけ柔らかく見えた。
私は思わず立ちすくむ。昼間に聞いた言葉たちが胸の中をぐるぐると渦巻いていた。
彼が私のことなど気にするはずがない。体調を崩した私を気にかけたのは召使いたちの手前。形だけ気遣って見せただけ。そうでなければ、この人がわざわざ馬を走らせて医者を呼びに行くなんて、そんなことが。
……でも、現に医者は来た。私の熱を診て、薬を調合してくれて、その手を貸してくれた人が「旦那様に呼ばれました」と、確かにそう言った。
嘘をつく理由があるだろうか。
熱のせいで思考が曇っているのかもしれないけれど、それでもこの現実は否定できなかった。
だから私は、言わなければならないと自分に言い聞かせた。たとえそれがどんなに歯がゆく、悔しく感じられたとしても。そう、わかっていた。わかっていたのに、喉の奥が強張って言葉が出てこない。
私は唇を軽く噛んで、ひとつ深く息を吸った。冷えた夜気が肺にしみて、ようやく声になった。
「……お医者様を、呼んでくださって……ありがとう」
ぎこちない言い方になってしまった。声もかすれていたし、語尾に力がこもらなかった。精一杯取り繕って口にしたはずなのに、どうしてこんなにも薄っぺらに聞こえるのだろう。
けれどアンリは、何も言わずに小さく頷いただけだった。気まずさのようなものが一瞬、私の中をかすめた。蝋燭の火が彼の手元で揺れる。暗い廊下に、オレンジ色の輪郭を淡く滲ませていた。
「家庭教師の仕事は、しばらく休みにするよう使いをやった」
ぽつりと告げられたその言葉に、私は思わず顔を上げた。
「……え?」
唇の隙間から漏れ出た声は、気づけば尋ねるような調子になっていた。意図していたわけではなかった。驚きが先に立って、理性が追いつかなかったのだ。
「君の体調では無理だろうと判断しただけだ」
彼の声は変わらず淡々としていた。いつも通りのその静けさが私を妙に落ち着かなくさせる。
私のために? ……どうして?
胸の奥に浮かんだ問いが、気づかぬうちに唇をついて出てしまっていた。
「……どうして……そんなことまで、してくれるの……?」
しまった、と思った時にはもう遅かった。熱のせいだ。いつもなら言葉を選べるはずだった。
アンリはしばらく黙っていた。廊下に灯る蝋燭の光が、その顔の陰影を際立たせている。
「気づいていて何もしないでいるのは、それこそ不誠実だろう」
それだけ言うと、彼は蝋燭の火を少し遠ざけるようにして、一歩引いた。まるで、これ以上は近づくまいとするかのように。言い終えたあと、彼は私の顔を見ようとはしなかった。ただ、蝋燭の火だけが、ゆらゆらと静かに燃えていた。私は言葉をなくして、その炎を見つめた。彼は冷たい人だった。少なくとも、出会ったばかりのころの私はそう思っていた。
けれど、ほんとうの彼は? 孤児院に寄付をして、愛してもいない妻のために馬を駆け医者を呼ぶ人。ほんとうのあなたは、どんな人なの?
彼は冷たい人だった。そう信じていた。
なのにいまはもう、その言葉をそのままには信じきれない自分がいた。
数日後、熱はようやく引いた。寝室の窓を開け放つと、風が静かにカーテンを揺らして、澄んだ空気を連れて来る。
少しずつ戻ってくる食欲とともに、じっとしているのがもどかしくなっていた。寝台で横になる時間にも、もう本を読むくらいの余裕はあった。だから体を慣らすつもりで、私は書斎まで足を運んでみた。
本棚に並ぶのは、帳簿、法律書、商業書、国税報告の年鑑といった重たげな本ばかりだった。初めて訪れたとき、私は「やっぱり」と思ったし、二度目には「暇つぶしにはなる」と割り切った。整然とした机と、革張りの書物が並ぶ棚。日々の数字と取引の香りが染みついた場所。
しかし今日、なんの気無しに手を伸ばした一角に、意外なものがあった。
——詩集。それも、一冊や二冊ではない。中には、私が子どもの頃に暗誦させられたものもあった。思わず、指が止まった。なぜ、こんなものが。
私はそっと一冊を抜き取った。手に取ったそれは、丁寧に読み込まれている痕跡があった。少し迷ってから、ぱらぱらと中をめくる。すると、ふと目に留まった一節が私の呼吸を鈍らせた。
——与える者のうち、真に貴いのは、見返りを求めぬ者である。その者は贈る手を、自らの血で濡らすことすらいとわない。
なぜだろう。まっすぐに目を射すようなその詩句が、孤児院の帳簿の記録をまざまざと思い出させた。子どもたちの衣服、壊れた窓の修繕、薬代や食糧。あの人が何も求めず、ただ必要とされるものを届けていた記録の数々。
「……アンリのことみたい」
その瞬間、気づかないうちに心の底にあったものが言葉になっていた。はっとして、私は顔を上げる。けれど、部屋には私ひとりしかいない。囁くように零れたその言葉は、誰に聞かせるでもなくただ宙に消えるはずだった。そう、思った。
だが次の瞬間、不意に背後で紙の擦れる微かな音がした。小さな音なのに、それでいて否応なく現実を引き寄せるような響き。私は息を詰め、おそるおそる振り向く。
扉の陰に、彼がいた。
無駄のない黒の装いに身を包み、書類の束を片手に、書斎の敷居をまたいだところで立ち止まっていた。
指の間に挟まれた数枚の紙が、微かに傾いでいる。片方の手は下がりかけ、握り損ねた紙端が僅かに震えていた。
——聞かれていた。
頭の奥がしんと冷えるような感覚に襲われた。胸の内で何かがこぼれ落ち、心臓がひとつ小さく跳ねる。私は口をきつく閉ざしたまま、息を飲んだ。どうして、今この瞬間に限って、彼がここに現れるの。よりによって、あんな言葉を零した直後に。
彼はただじっと、私を見ていた。その瞳は驚きでも怒りでもなく、何かを図るような沈黙をたたえている。何かを言いかけてやめたような、言葉にならない感情がその沈黙の奥にひそんでいた。
私は静かに視線を伏せた。何かを言わなければならない、けれど言葉が見つからなかった。沈黙は重く、呼吸のたびに胸の奥を締めつけてくる。彼は、去ろうとしていたのかもしれない。無言のままわずかに身じろぎした彼の足が、音もなく敷居をまたごうとするのが見えた、そのときだった。私は思わず、唇を開いた。
「……帰るつもりなら、どうぞそのまま。けれど、もしほんの少しだけでも、詩の話を聞いてくださるのなら……」
声はわずかにかすれていたが、確かに響いた。彼の動きが止まって、私はそっと本を抱きしめるようにして胸元に持ち直した。開かれていた詩の一節が、まだ視線の隅に残っている。
“与える者のうち、真に貴いのは、見返りを求めぬ者である。”
「……帳簿を、見てしまったの」
彼の視線がわずかに動いた。けれど何も言わない。私は深く息を吸った。
「家計簿を見ようとして……偶然、あの孤児院への寄付を見たの。年月をさかのぼるように並んでいた記録。全部、あなたが出していたのよね」
アンリ、と最後に付け加えるように呼ぶと、彼の瞳がわずかに揺れた。こんなふうにまっすぐ名前を呼ぶのは、初めてかもしれなかった。
「どうしてそんなことをしているのか、訊くつもりはないわ。誰かに知られたいとも、褒められたいとも思っていないのは……もう、わかっているもの」
閉じた詩集の表紙を指先で撫でる。繊細な金文字の浮き彫りは何かを語りかけるようにひそやかで、私の胸の奥に潜んでいた言葉を引き出していく。
ゆっくりと歩を進めて、本棚の端に手を添えた。重厚な背表紙の列の向こう、あの孤児院の帳簿も、今日見つけた詩集も、すべてが彼の見せなかった一面だった。
私は何も知らなかった。最初からずっと、目を背けていたのは私のほうだった。
「初めてあなたに会ったとき、失礼な態度をとってごめんなさい」
言葉を重ねるたびに、胸の内の何かがすこしずつほどけていく。
紙切れ一枚で決められた婚約、形ばかりの式。物言わぬままに差し出された手。この人の無口な横顔に、私は自分の中の怒りと不安をすべて重ねてしまった。
家が傾き、両親に売られるように嫁がされたと思っていた私は、相手の心を量る前に、もう拒絶してしまっていたのだ。傷つけられる前に、心を閉ざしてしまえばいい。最初から何も期待しなければ、失望することもない。そう思い込もうとしていた。
「お医者様を呼んでくださってありがとう。家庭教師のことも、感謝しています」
でも、そうして見ないふりをしたものの中に、確かに存在していた人の想いや、手のひらの温度を、私は今ようやく見つめ直そうとしている。彼のことを遠ざけるには、あまりに見落としてきたものが多すぎる気がした。
「私、あなたのことをもっと知りたいと思っているわ」
その瞬間、長く閉ざされていた扉の向こうに、かすかな光が差し込んだように思えた。アンリの目が、今までよりも大きく柔らかに揺れた。その表情を見て、私はようやく、自分の言葉が届いたのだとわかった。
それからの日々は、以前とは確かに違っていた。
ある朝、食卓に着いた私の前に、彼が静かに椅子を引いて腰を下ろした。いつもならわざわざ同じ時間に顔を合わせることなどなかったはずなのに、彼は一言も言わず、淡々と食器に手を伸ばしていた。
昼には庭先で開きかけの白いバラを見つけて、そっと摘んで食堂の隅に飾った。夕刻、書斎を訪ねると、彼は帳簿を閉じて立ち上がり、「読書の妨げでなければ」と言って、短い時間ながらも隣の椅子に腰をおろしてくれた。まるでほんの少しずつ、互いの輪郭を確かめ合うように。
彼の話し方は依然として抑揚に乏しく、感情を推し量るのは難しかった。けれどその声の奥には、言葉にしない思慮の深さがあった。
あるとき、詩集の一節について話した私に、彼は初めて、ほんのわずかに口元を緩めて応じた。
「……その詩集は、妹のものだった」
思いがけない言葉に、私は手の中の本を見下ろした。
手のひらに収まるほどの、小さな詩集。読み込まれた痕のある折り目、誰かの手が、幾度となくページをなぞった跡。綴じ目のゆるみや紙の薄れが、確かな愛着を物語っていた。
「妹さんがいらしたの?」
訊ねると、アンリはしばらく沈黙した。そして目を伏せたまま、低い声で答えた。
「……ああ。だがある年の流行病で、主の御手に抱かれた」
淡々と語られたその言葉の向こうに、どれほど深い孤独と後悔が隠れているのか、私にはすぐに想像がつかなかった。それでも、胸の奥で何かが静かに波打って、記憶のかけらが結びついた。
そうか。あの日、私が熱を出したとき。この人は慌てて馬で医者を呼びに行ったと聞いた。
そうせずにはいられなかったのだろう。見て見ぬふりをすることなんて、できなかった。
私はそっと息を吸い込んだ。何を言えばよいのか、正しい言葉は見つからなかった。ただ、沈黙の底に差し出された彼の記憶に、無言で背を向けることだけはしたくなかった。
「……私、この本が好きよ。この詩集を愛したあなたの妹さんのことも、同じように好きになっていたと思うの。会ったことがなくても、私はそう思うわ」
私の声に、アンリはすぐには応えなかった。けれど、その横顔に射した微かな陰りが、ほんのわずかにほどけるのを、私は確かに見たような気がした。
書斎の窓辺には、晩秋の光が差し込んでいた。陽は傾きかけ、床に金の影を落としている。木々の葉はすでに褪せた色をまとい、風にさらさらと音を立てて揺れている。葉を手放した枝先が空に伸び、まるで冬の訪れを静かに待っているようだった。季節はたしかに、少しずつ冷えを深めていた。朝は吐く息が白くなり、夜ごと風の音が鋭さを増している。
けれど不思議と、私は寒さを感じなかった。
この人が、そばにいるからだ。
思えば、こんなふうに肩を並べて静かに時を過ごすことなど、あの屋敷に来たばかりの頃の私には想像もつかなかった。彼の言葉の少なさや、感情を読ませない態度に怯え、遠ざけ、心を閉ざしていた。それなのに今、こうして互いの言葉の先に耳を傾けている。
夕陽が西の空に沈もうとしていた。窓辺の影が長く伸び、彼の頬にかかっていた。私はその横顔を、ただそっと見つめていた。
◆
本格的な冬が訪れた。朝の空気はひんやりと澄みわたり、庭の噴水の縁には、霜が薄く白い縁取りを描いていた。鉛色の空の下で、町も屋敷も音をひそめ、季節の深まりを静かに受け入れている。
そんな折、部屋の扉を叩く軽い音とともに、ひとつの包みが届けられた。白い紙に丁寧に包まれたそれを手に取ると、柔らかな重みが腕に伝わった。ほどいた包みの中を見て、私は思わず息をのんだ。
現れたのは、深い青みを帯びたグレーの見事なマントだった。重さを感じさせない上質な織りが、布の波に陰影を刻んでいる。手のひらをそっとあてると、そのぬくもりが指先から胸の奥へとゆっくり染み込んでいく。裾には目立たぬ程度の細やかな刺繍がほどこされていた。雪の結晶にも似た繊細な模様が、陽の光を受けるたびに、淡く光を返している。裏地にはやわらかな毛織物が縫い込まれていた。袖を通せばきっと、肩から背中にかけて、あたたかく優しい重さが包み込んでくれるだろう。
送り主の名は書かれていなかった。何ひとつ、言葉を添えた形跡はない。それでも迷いなく分かった。アンリだ。
いつの間に、私のために。
扉の外に誰の気配もないことを確かめると、私はそっとマントを肩にかけてみた。思ったとおり、肩の丸みにすとんと馴染み、裏地のぬくもりが冷えた腕にすぐさま広がった。
その温かさは、暖炉の火や陽だまりとは違っていた。
火のように熱くはないが、雪の冷たさにも怯えない、静かで確かな温もり。言葉にならない優しさが、こんなにも確かに、肌を通して心に届くのだと知った。
その日の夕方、教え先から戻る道すがら、私はひとつ決意をした。
何か、贈り物を返したい。お礼を言うだけでは足りないように思えた。言葉では伝えきれない何かを、私もまた形にして届けたいと願った。
それから数日後、私は家庭教師としてもらった給金を数え、町の仕立屋を訪れた。派手でなく、けれど品のあるものを。彼のように静かな人にふさわしい、落ち着いた色を。
贈り物を選んでいるあいだ、私はずっと、彼のことを思っていた。
あの姿勢、低く落ち着いた声、椅子に腰を下ろすときの静かな動作。微笑まぬまま言葉を選ぶ横顔。黙って扉を開け、黙って椅子を引き、黙って私の傍に座るときの、あの、息を潜めたような優しさ。
仕立屋の小さな部屋に吊された何着ものコートの中で、ひとつ目に留まるものがあった。深いチャコールグレーのウール地のコートだった。華美な装飾も、流行の切り替えもない。けれど、丁寧に縫われたその一着には、無言の品格があった。袖の落ち方、肩の張り具合、背中の直線。そのひとつひとつが、彼の佇まいと響き合っているように思えた。
包みを受け取ったとき、指先が震えていた。
封を開ける彼の顔を思い浮かべていた。驚くだろうか、それとも眉をひそめるだろうか。贈り物などというものに慣れていないのではないか、とも考えた。それでも、お礼をしたいという思いが、引き返す気を許さなかった。
その夜、私は暖炉の前で白紙の便箋を取り出し、何度も万年筆を持っては置いた。感謝の言葉だけでは足りない。けれど、それ以上にふさわしい言葉を、私はまだ持っていなかった。
ただ一言、「マントをありがとう。お返しです」とだけ綴り、小さな封筒に入れた。それ以上を語ることは、今はしないと心に決めた。
翌朝、白く霞んだ庭を窓越しに見つめながら、私は静かに彼の書斎の扉を叩いた。雪は夜のうちに降り積もったらしく、一面の白が硝子窓の向こうに柔らかく光っていた。足元に広がる絨毯の上、冷えた空気が薄く揺れている。
「どうぞ」
低く声が響いて、開いた扉の向こう、彼は机に向かっていた。インク壺に片手を添えたまま、手を止めてこちらを見た。静かな視線だった。私の姿を確かめて、目を伏せることもなく、そのままの眼差しで待っていた。
視線が合った瞬間、心臓が跳ねるように鼓動した。いつもの静かな表情なのに、そのまなざしがあまりに真っ直ぐで、私の中の弱いところを見抜かれるような気がした。
私は、小さな紙包みを後ろ手に抱えていた。白い布に包み、淡い紐で結んだだけの簡素なもの。
扉の敷居のところで、足が止まった。彼は何も言わなかった。視線を外さず、こちらの言葉を待っている。
渡さなきゃ。今ならできる。ほんの少し、手を伸ばすだけでいい。
それなのに、どうしてだろう。指先がほんのわずか震えて、動いた手が途中で止まった。手のひらが熱くなり、指先がかすかに震えているのを感じる。ひどくおかしな話だった。自分で選んだ贈り物なのに、今さらこんなにも緊張するなんて。
「……あの」
言葉がまとまらなかった。彼の視線が再び私に向く。その静かな目に心の奥まで覗かれてしまいそうで、なぜだか急におそろしくなった。
「なんでもないの、その、ただ、顔が見たかっただけ。邪魔をしてごめんなさい」
震える声を必死に抑えながら、私はそう言った。頬が熱い。耳まで赤くなっている気がした。自分の言葉がどれほど不自然だったか、すぐに気づいていたけれど、もう言い直せなかった。
踵を返して、逃げるように扉を閉める。背後で何か言われた気がしたが、振り返る勇気はなかった。
廊下に出ると、胸の奥がじくじくと痛みだした。何をやっているのだろう。顔が見たかっただけなんて。そんなことを言うくらいなら、いっそ何も言わなければよかった。渡せないくせに、あんなことを言ってしまって。きっと彼は不思議に思っただろう。
自分がまるで子どもみたいで情けなく思えた。渡せばよかったのに。お礼がしたいのに。こんなふうに胸の中で燻らせるために用意したわけじゃない。
頭では理解していても心は勇気を出せず、それから贈り物は、部屋の隅に置かれた籐の小箱の中に、そっと収められたままだった。白い包み紙に覆われたその品を、私は幾度となく見つめては、指先で端を撫で、そしてまた元の場所へ戻した。
渡そうと思った日は何度もあった。
食卓をともに囲んだ夜、薪のはぜる音を聞きながら黙って紅茶を飲んでいた時間、書斎で彼が机に向かっている背中を見つめていたとき……声をかければよかった。ただ、名前を呼べばよかった。それだけのことが、どうしてこんなにも難しいのか。
私が勇気を出せないまま、日々は無常にも過ぎていく。
もやもやとした気持ちを胸に抱えたまま、私は今日も家庭教師としての務めに向かった。
その日の午前は、町の北通りにある大きな商家の娘に、個人授業をする約束だった。応接間の奥、陽当たりのよい書きつけ机の前に座って、私は外国語の文章を読み上げた。生徒の少女はつぶらな目を輝かせながら、私のあとを追って繰り返した。
胸のざわめきは消えないが、今この時は気持ちを引き締めなければ。この子は学びたがっている。だから、私は誠実でいなければならない。今までもそうしてきたし、これからも。
そのときだった。階下から突然、急を告げるような物音が響いた。何かが倒れるような音、戸を叩く手の音、早口の声。ほどなくして扉が開く音がして、誰かの足音がまっすぐこちらへ向かってくる。
扉が開かれた瞬間、そこに立っていたのは、見覚えのある顔だった。グランヴィル家の使用人のひとり、若いメイド。彼女は顔を蒼白にして、荒い息のまま叫んだ。
「旦那様が……旦那様が刺されました。街で暴漢に……!」
耳にした瞬間、時が止まった。何をどう聞いたのかも分からない。ただ、その言葉の一節だけが、音のない鐘のように胸に響き渡る。言葉が喉でつかえ、椅子から立ち上がったはずの脚が、自分のものではないように感じられた。
「……なんですって?」
私は唇を震わせながら訊き返した。だが返ってくるのは、同じ言葉だけだった。「刺された」という、痛々しく、現実味を帯びない言葉。
すぐに走り出したい衝動に駆られた。今すぐにでも駆けつけなければ。けれど、目の前の机には、辞書を開きながら私を見つめる小さな生徒がいた。小首を傾げ、事態の深刻さをまだ理解できずに、ただ私の動揺だけを見つめている。
私は躊躇した。この子を一人残して、教える責任を投げ出して立ち去るのか。けれど彼が、アンリが、いまにも命を落とすかもしれないというのに、そんなときに、私はここに座っているのか。矛盾に胸が裂けそうになった。それでも時間は立ち止まってくれない。私はすぐにでも答えを出さなければならない。
「……ごめんなさい、今日はここまでにさせていただくわ」
私は椅子を押しのけて立ち上がり、少女の手をそっと握った。
メイドに「お母様に事情を説明しておいて」とだけ言い残して、鞄も辞書も置いたまま、足早に玄関へ向かった。冬の冷たい空気の中を、呼吸もままならぬまま駆け抜けていく。通りの石畳が足の裏に響いた。スカートの裾が風に煽られ、頬に張りつく髪が視界を乱した。それでも、止まることなど考えなかった。
頭の中には、血の気の引いた彼の顔が浮かんでいた。暴漢に刺されたとメイドは言った。どうして、どこで、どんなふうに。どこまで傷は深いのか。そばに誰かいたのか。助けはすぐに呼ばれたのか。
あまりに情報が少なすぎて、想像だけが勝手に先走る。最悪の場面ばかりが脳裏をよぎり、思考をかき乱した。椅子に座り、何も言わずに机に向かっていた背中が、どこか遠い場所へ行ってしまうような、恐ろしい想像が喉元を締めつけた。
あの朝、書斎を訪ねたけれど、何も渡せなかった。ただ立ち尽くして、逃げるように背を向けた。あのとき、思い切って手渡していたら。便箋に、「お返しです」とただ一言だけ書いた。けれど、本当は伝えたいことが山ほどあった。あの包みを、彼に届けることができていたら。まだ手元にある。部屋の片隅、箱の中に、今もきちんと納まっている。今、もし彼が私の手の届かないところへ行ってしまったら、私は何ひとつ返せないままで、この冬を越すことになる。
どうか、無事でいて。あの扉の向こうに、私たちの家に、彼が生きていてくれさえすれば、それだけでいい。そう願いながら、私は屋敷を目指してひたすらに走り続けた。
屋敷の門が見えた瞬間、胸の奥で何かが音を立てた。門の前には見知った馬車が止まり、数人の使用人が行き来していた。門番が私の姿を見つけて駆け寄ってくる。彼が何か言葉を発したようだったが、耳には入らなかった。私はただ首を振り、すぐに通して、と願うように視線を向けた。門が開く。石畳を踏みしめて玄関へ駆ける。扉を開けたとたん、冷たい空気とは違う、ひりついたような静けさが身体を包んだ。いつもと同じ玄関のはずなのに、足を踏み入れた瞬間からそこに漂う空気の質が違っていた。
「ソフィー様!」
駆け寄ってきたのは、いつも世話をしてくれる年配のメイドだった。息が乱れ、目の縁が赤い。普段は穏やかな彼女のその取り乱しようが何よりの証だった。
「どこに……どこにいるの?」
「二階でございます。医師がすでに来ております」
「傷は……」
一瞬、メイドの表情が引きつる。答えを飲み込むようにして、けれど意を決して、静かに口を開いた。
「……脇腹を。刃は深く……出血が、かなりございました」
その言葉が胸に突き刺さった。思わず、私は一歩後ずさりそうになるのを必死で堪えた。
脇腹。刃が深く。出血が多い。それが意味するものを、私は知っている。内臓に届くような傷だ。それは、命が脅かされているということだ。冷たい感触が背筋を這って、足元が一瞬揺らいだ。
「大丈夫なの……?」
震えそうになる声を、なんとか堪えた。けれど返事はなかった。メイドは、ただ小さく首を横に振った。言葉を持たない沈黙が、なにより重く胸を締めつけた。吸い込んだ空気はひどく冷たく、喉に張りついた。
それでも、いや、だからこそ、行かなければと思った。今すぐに、彼のもとへ。
膝が笑っているようだった。階段の手すりをしっかりと掴み、スカートの裾をからげ、靴音もはばからず階段を駆け上がった。手が震える。胸がひどく早く波打ち、喉の奥が焼けるように痛んだ。
二階の廊下に出た瞬間、漂ってくるのは、薬と血の匂いだった。微かに開け放たれた寝室の扉の向こうから、人の出入りする音と布の擦れる音が聞こえる。扉の前に立つと中から声が漏れてきた。医師の低い声、そして誰かが慌ただしく布を運ぶ気配。私は無意識に拳を握りしめた。指先が冷たく、肩の奥までこわばっていた。
扉を叩く勇気はなかった。それでも立ち尽くすこともできず、私はそっと扉を押し開けた。
開いた先には、目に焼きつく光景があった。
白く敷かれた寝台の上に、アンリが横たわっていた。顔は青ざめ、額に冷たい汗がにじんでいる。血に染まった包帯が脇腹に巻かれていた。赤黒い色が滲み出ていて、見ているだけで喉が詰まりそうになった。彼がこんなにも、弱々しく見えるのは初めてだった。
「……奥様」
医師が私の存在に気づき、隣にいた看護師と目配せをしてうなずいた。そのすぐ傍で、若いメイドが何枚もの血染めの布を抱えて立ち尽くしていた。床には使い終わった薬瓶やガーゼの屑。
ただの怪我とは呼べない。これは、命の淵だ。
「……奥様、どうか落ち着いて聞いてください」
何を、どう落ち着けというのだろう。今まさに、彼の命がこぼれ落ちそうになっているというのに。胸の奥が痛むほどに脈打ち、喉が詰まりそうだった。息を吸っても肺がふさがれているようで、ただ浅い呼吸だけが胸元で震えていた。
「今夜が……峠です。あれだけの出血があった。あと一滴、二滴と、血を流すことなく、ただ、眠り続けてくだされば……」
その言葉に、目の前がぐらりと揺れた。膝が崩れそうになったが、なんとか持ちこたえた。医師の声が、遠くなったり近くなったりする。うまく聞き取れない。けれど言葉の意味だけは、鋭く突き刺さってきた。
アンリはすぐそこにいる。私が、ただの贈り物ひとつ渡せなかった人が。何を贈ればいいかと考えて、何度も手を止めたあの夜。ためらい、迷い、照れて目を逸らした数々の瞬間が、いま猛烈な後悔となって押し寄せた。もうあの声が、あの眼差しが、消えてしまうかもしれないという事実が、呼吸を苦しくする。
「どうか、そばに、夫のそばにいさせてください」
ようやくの思いで口にしたその願いは、ほとんど息のように細く、まともな音をなしていなかった。でも、それ以上に何を言えばいいのかわからなかった。胸の奥が重く、痛いほどに沈んでいた。あの人が、こんなかたちで遠くなっていくかもしれないと思うだけで、声をあげて泣きたい衝動が喉の奥で渦巻いた。
医師は短くうなずき、私の前をあける。アンリは白いシーツに包まれて、仰向けに、動かずにいた。胸の上下がかすかに動いているのを見て、わずかに息を吐いた。だが、それだけでは足りなかった。安心などできない。あまりにも顔色が悪かった。唇の色は青く、目元には深い影が落ちていた。
「アンリ……」
その名を呼ぶと、胸の奥から何かがほどけて、堰を切ったように涙が溢れる。彼の冷たい指先に、自分の手を重ねた。その細く、かすかな温もりに、何度も頷くように、手のひらを包み込んだ。
「まだ、何も言えてない。あなたに、渡していないものがあるの。まだ、ありがとうも……」
震える手で、彼の指を包みながら、私は必死に言葉を紡いでいた。そうしなければ、心が崩れてしまいそうだった。
「返したいの。ちゃんと、あなたに」
彼の目は閉じたままだった。けれど、私は信じたかった。この手のひらの温もりを通して、私の声が、想いが、届いているのだと。届いてほしいと、祈らずにはいられなかった。
「だから、お願い……」
その先は、もう声にならなかった。喉が詰まり、嗚咽が洩れた。私はただ、彼の手を離すまいと、身を屈めてその頬に額を寄せた。
意識のない彼の寝息は、ひどく浅く、不規則だった。何度も途切れたかと思うたびに胸が締めつけられ、そのたびに私はそっと彼の名前を呼んだ。
重ねた手のぬくもりは、息をひそめるように頼りなかった。命がほんのわずかに残る灯であるなら、私はそのそばに座り、風が吹かぬように両手で囲うしかなかった。私はもう何もできない。そばにいることでしか、この人を守る術がない。
喉が痛むほど泣いたあと、私はもう声を上げることもできなかった。熱を帯びた目の奥が焼けるように重く、何度も瞬きをしても視界は滲んだままだった。
私は彼の腕にすがったまま、ゆっくりと目を閉じた。意識は深く沈んでいく。体の奥に溜まった疲労が、潮のように押し寄せていた。もう何時間ここに座っていたのか分からない。時計の音も人の気配も、もう耳には届かなくなっていた。
私はその夜、彼の眠る枕元で、静かにまぶたを閉じた。冷えた手を離さずに。名前を心の中で繰り返しながら、泣き疲れた身体を、彼の命のそばに伏せて。自分の鼓動だけが、いつまでも耳に残っていた。
目を開けた瞬間、世界が急に輪郭を取り戻した。天井の装飾、布団の重み、こわばった身体の感覚。私はほんの一秒、自分がどこにいるのか分からずにいたが、すぐに胸の奥を激しくかき乱す感情がそれを教えてくれた。
彼のそばで眠っていたのだ。我に返ると同時に、心臓がひときわ大きく跳ねた。私は身を乗り出し、すぐにアンリの手を取った。冷たい。けれど、まったくの虚ろではなかった。微かに、血が通っている気配があった。私は震える指先で彼の首筋に手を添え、息を呑むように脈を探った。
——ある。
極めて弱く、不安定ではあるが、確かにそこに命の脈動があった。私は口元を押さえて、小さくうなずいた。涙がこぼれそうになった。まだ終わっていない。この手は、まだ温かくなる余地を残している。
背後で動いた気配に気づくと、控えていた医師がこちらに歩み寄ってきていた。彼は私の顔を見て、ゆっくりと深く、肯定のうなずきを一つくれた。
「峠を越えました。ひとまず、危機は脱しましたよ、奥様」
私はその場に崩れるように座り、両手で顔を覆った。嗚咽はなかった。けれど、涙だけが途切れず頬を伝って落ちていった。肩がわずかに震えた。熱い涙の奥で、ただひたすら神に祈っていた。
———ありがとうございます。どうか、この命を、この人を、まだ私から奪わないでください。
昨夜から胸の奥で、何度も繰り返した言葉だった。願いが届いたことが、奇跡のように思えた。
そのとき、不意に小さな音が聞こえた。
「……ソフィー……」
私の名前を呼ぶ声が、耳に届いた。乾いた、かすれた、消え入りそうなその声を聞いて、私は顔を上げた。
アンリのまぶたが、ゆっくりと持ち上がっていた。焦点の合わない瞳がわずかに揺れ、次第にこちらを捉える。それは夢ではなかった。彼は、意識を取り戻していた。
「アンリ……」
返事はなかったが、彼のまぶたがかすかに動いた。手のひらに微かな力がこもる。それだけで、胸がいっぱいになった。
部屋の空気が変わるのを感じた。医師と看護師が目配せを交わし、静かに立ち上がった。扉の方へ向かい、ひとことも言葉を交わすことなく、そっと部屋をあとにした。取手の金属が小さく鳴り、閉ざされた扉の向こうに気配が消える。
彼は生きている。
そして、その命の灯は今も私の掌の中で、細く、しかし確かに燃えている。胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。初めてあった日の夜、彼を拒絶した自分。渡したかった物を抱えたまま、逃げるように背を向けた自分。すべてが悔やまれて、けれど今、ようやくここにたどり着けた気がした。
「……アンリ」
再び、彼の名前を呼ぶ。その響きが空気のなかで震えた瞬間、弱々しくも唇が動いた。
「……生きて……しまったのか……」
細く掠れたそれは、あまりに弱く、あまりに無力な響きだった。私は凍りついたようにその言葉に立ち尽くす。死から引き戻された者の、自嘲と諦念の滲んだ呟きだった。まるで、自分が戻ってきてしまったことを、誰よりも自分が恥じているかのように。
「……私が死ねば、君は……君は自由になれたのに……」
その言葉に、胸の奥がぎり、と締めつけられた。なぜ、どうして、そんなふうにしか思えないの。どうして、自分をそんなにも軽んじてしまうの。あなたが刺されたと聞いて、私は胸が張り裂けそうだった。あなたのいない世界を想像して、それはどんなに辛いことかと思った。
永遠にも思えるような夜を経て、私はようやく気づくことができたのだ。私は、そう、紛れもなく、あなたを。
「私は、あなたを愛しているのよ」
はっきりとそう言い切ったとき、自分の声がこんなにも澄んでいることに驚いた。涙に濡れた頬、震える指先、荒い息遣い。けれど、その言葉だけは、どこまでも確かだった。誰にも奪えない、私の真実だった。
アンリのまなざしがわずかに揺れて、長い睫毛の奥に、静かな驚きが滲んでいた。彼は何かを言いかけたが、うまく言葉が出ないようだった。喉が上下に動き、苦しげに息を吐く。
「そんな、はずはない」
彼は顔をわずかに背け、まるで幻を見ているかのように、そしてそれを振り払うかのように目を閉じた。
「私は……君を縛り、遠ざけて……ひどい夫だった。冷たく、無愛想で、君に笑ってもらえるようなことも、ひとつも……」
「いいえ、いいえ。そんなことないわ」
私はかぶりを振った。涙でにじむ視界のなかで、彼の瞳を探すように身を乗り出し、そっとその頬に手を添えた。
途切れがちに紡がれた言葉は、彼が長いあいだ胸の奥に押し込めてきた悔恨そのものだった。まるで、言葉にすること自体が自分を罰するかのように、彼はかすかに顔を背けた。弱々しく伏せられたまぶたの下で、その目がどれほどの思いを見てきたのかと思うと、胸がつまった。
「私こそ、ひどい妻だった。あなたのせいじゃないのに、勝手に傷ついて、勝手に怒って、悔しさと哀しみを、あなたにぶつけていた」
あの夜の記憶が、鋭く蘇って胸を刺す。蝋燭のゆらめく寝室、乾いた沈黙の中で、私は言った。私は、娼婦にはならないと。なんという侮辱だろう。彼の沈黙を、私は勝手に敵とみなして、自分の弱さと混同し、この人の誠実な眼差しを疑った。
「ごめんなさい。私があんなことを言わなければ……私があなたを、ちゃんと見ていれば……こんなふうに、傷つけずにすんだのに」
私は、自分が貴族の娘であることを盾にし、縁談に従わされた被害者であることにしがみついていた。誰のことも信じられなかった。何も求めず、ただ傷つけまいとする相手を、真綿で首を絞めるように遠ざけた。あれほど冷たい言葉を向けられて、どうして彼は怒らなかったのだろう。どうして、黙ってそれを受け入れてしまったのだろう。
私の言葉はあまりにも残酷で、あまりにもひとりよがりだった。自分だけが傷ついていると思い込んでいた私は、彼がどれほど深く傷つけられたかを、想像することすらできなかったのだ。
「アンリ、私を許してくれる?」
私の問いかけに、アンリは頷いて、静かにまぶたを伏せた。深く沈みこむような思考のなかで、彼は彼自身の痛みと向き合っているように見えた。
「もう一度、私をあなたの妻でいさせてくれる?」
頬を伝う涙は止まらなかった。私は初めて、自分の心のままに彼と向き合っているのだと思った。逃げずに、愛していると伝え、許しを乞い、歩み寄ろうとしている。かつての自分にはできなかったことを、今ようやく。
アンリは微かにまぶたを持ち上げた。その目に、涙が光っていた。弱々しいながらも、唇が震えて、言葉が紡がれる。
「もちろんだ、ソフィー……私も、君を愛している」
私は涙でぐしゃぐしゃになった顔で頷き、彼の手をもう一度、優しく包んだ。重ねた指の先に、確かな鼓動があった。生きている。生きて、ここにいる。私の夫が。これまで何度、すれ違い、傷つけ合い、言葉にできない想いを胸に沈めてきたことだろう。けれど、今ここにいる彼の声が、たしかに私を抱きとめてくれた。遠ざけていたはずの手が、いまはぬくもりを分かち合っている。
たとえ明日また困難が訪れようとも、もう恐れたりはしない。私たちは選んだのだ。過去ではなく、未来を。罪ではなく、赦しを。すれ違いではなく、共に歩むことを。凍てついた冬を越えて、ふたりの春が、ようやく訪れようとしているのだと思った。永い夜を超えた朝の光は、もう迷いを残すことなく、私たちをやさしく包んでいた。
◆
事件の全容が明らかになったのは、アンリの容体が落ち着いてからしばらく経った頃だった。
彼を刺したのは、王都で急成長する彼の商会に対抗心を燃やしていた同業の男だった。計画的な襲撃ではなかった。酒に酔った勢いで、偶然すれ違ったところを衝動的に——それが犯人の供述だった。
それでも、あの一夜が私たちに残した傷は、言葉で語り尽くせるものではない。だが同時に、それがなければ私は、あの人の真実にも、自分の心にもたどりつけなかったのだと思う。痛みと引き換えに与えられた再出発の機会を、私たちはもう手放さない。
アンリの怪我が癒え、彼が歩けるようになってから、私たちは並んで馬車に乗った。目指すのは、あの屋敷——私が家庭教師として雇ってもらっていたあの商家だった。
突然仕事を途絶えさせてしまった非礼を詫びるためだったが、私の胸にはやはり小さな不安が残っていた。名ばかりの貴族の娘が、婚家に頼らず働こうと選んだ場所。だからこそ、信頼を裏切ってしまったのではないかと心配していた。
けれど、私たちを迎えた夫人は、事情を聞き終えると、静かに微笑んだ。
「まあ、まあ……それは大変でしたね。無事で何より。人の命に比べたら、こんなことなんでもありませんよ。どうか、ご主人様のお身体をお大事に」
その温かな言葉に、私は思わず目頭を押さえた。彼女の隣で、アンリも深く頭を下げた。
「不躾ながら、感謝に堪えません。……妻が、こうして社会に関わる場所を得られたことを、私はとても誇らしく思っています」
その言葉に、夫人はわずかに目を見開き、けれどすぐに柔らかく微笑んだ。
「そうおっしゃっていただけるなら、私も嬉しいですわ。奥様はとても良い先生でした。娘も、またお会いできる日を心待ちにしておりましたのよ」
その言葉に、胸の奥が熱くなった。張りつめていたものがゆっくりとほどけ、私は思わず目元に手をやった。夫人の隣に立っていた小さな娘が、少しだけはにかみながら「ソフィーせんせい、またきてね」と言ってくれた。
「……ありがとう。ありがとう、ございます」
声にならない声が、唇の奥からこぼれた。張りつめていた心のひもがほどけた瞬間、私はもう涙をこらえることができなかった。目頭をぬぐおうとした手が震え、視界の中で、少女の笑顔がにじんでゆく。夫人は私の手をしっかり握って、それから笑ってうなずいてくれた。
「これからのことは、どうぞゆっくり、おふたりでお考えになってくださいな。何も急ぐ必要はありませんよ。春は、いつだって始まりの季節ですもの」
玄関を後にして外の光のなかへ出ると、まだ肌寒い風が頬をかすめた。けれど、空はやわらかに晴れ、午後の日差しが街路樹の枝先を優しく照らしていた。
私はふと、隣を歩くアンリの横顔を見上げる。彼もまた、穏やかな瞳をしていた。かつて見せたことのなかった、どこかほっとしたような、静かな笑みだった。
ふたり並んで歩きながら、私はふいに遠い記憶に引き寄せられた。父と母——かつて私の世界のすべてだった人たちの姿が、春の匂いにまじって心に蘇る。あの人たちは今なにをして、なにを思っているのだろう。後悔しているだろうか。私は、愛されていたのだろうか。
答えは出ないままだった。きっとこの先もそうだろう。どんな思いも、悲しみも、人は抱えて生きていくしかない。けれど、私はもう、そこに立ち尽くすことはしなかった。
今、私はようやく、自分自身の手で新しい家族の形をつかもうとしている。過去に縛られるのではなく、今この瞬間に立ち会うことで。逃げずに、怖がらずに、目の前の人と手を取り合って、ひとつずつ積み重ねてゆく。私たちは傷つき、さまよい、孤独を知った。だからこそ、今そばにいる人のあたたかさを、真っすぐに受けとめられる。
私はアンリの手を取って、少し強く握った。振り返るように彼が私を見る。その瞳に映る自分を見て、私はようやく一人の人間として、誰かと並んで生きることを許されたのだと思った。
並んで歩く道に、木々の若芽が揺れていた。新しく芽吹いたものたちが、確かにそこにある。過去を越え、赦しを得て、ふたりで迎える最初の季節が、いま訪れようとしているのだった。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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