二人だけの新年会
二人だけの新年会
2025年1月4日、伸子は朝からずっと同じ場所に置かれている新聞に目をやった。相変わらず報告書の行は10行のままだ。一字も進まない。キーボードに意味もない「ダビデ」「バラ子」「トレーナー」などの文字を打っては、すぐに消してしまうことを何度繰り返しただろう。およそ2年におよぶ、虹の輪プロジェクトの報告書が進まない。心のシャッターの映像を思い返そうと。まぶたをとじた。その時、テーブルを揺らしたスマホ。スマホから響く響香の声に、かすかな光の藁でもとめるようにでかけた。「新年会しよう。」
二人だけの新年会は、店を探す前に、札幌の地下道、いわゆるチカホのベンチではじまってしまった。ここでも、ふたりは以前、長居したことがある。コンビニの横に静かに佇む大きな金庫がある場所。こんなところに金庫があるなんて、伸子に教えてもらう前まで気づかなかったので、それまでも何度も通っていた響香は驚いたのを覚えている。その金庫は、北海道拓殖銀行がそこにあったことを、沈黙して鎮座しているように物語っていた。破綻からもう30年近くが過ぎていた。伸子は、今の北広島ニコニコ水道局に勤める前、この拓銀の行員だった。銀行が相次いで破綻しそうになった時代を思い出す。
なぜ、北海道の銀行だけが国の助けを得られなかったのか、いまだにわからない。あのときも、そんなことには触れず、「あ...わたし、結構働きづめの人生だったわ。これからは好きなことをどんどんしたいの。日本を知る旅をしたいわ」と語ったベンチ。
再び、このチカホのベンチで、還暦を過ぎた伸子と、50代も終盤に差しかかった響香は、少しだけおめかしして、札幌駅で待ち合わせて、歩いて5分のこのベンチに座った。
日本を知る旅、という手のひらサイズではなく、地球儀を抱え込むような夢だと分かっていても、ふたりの会話は時を超え、いつものトーンで始まる。
「響香さんに出会えてよかったわ。二年におよぶこの企画、会社や関係各所に報告書を出さなくちゃいけないんだけど、行き詰まっていたのよ」
「まず、公共の予算を使うって、大変なことよね」と、伸子は溜息をついた。
今度も伸子はそれ以上のことを言わなかったが、響香は、エッフェル塔でニッカと笑う女議員の写真を思い出した。
写真一枚で責められる彼女たちを哀れに感じながらTVを見ていたが、思いもよらぬ場所で誰かのため息を感じるとは思わなかった。
「何も成果がなかった。あちこちの国の水道インフラを見てきたけれど、帰ってきたら、私のメモはうちの資料室にあるものばかり。興味深い情報もあったけど、各国のプレゼンのスライド撮影は禁止だったし、お互い自国の資料持ち出し禁止で集まっていたから」
「伸子さんもプレゼンしたの?」
「したわ。眼鏡を忘れちゃって、大変なことになった。慌てて『眼鏡は顔の一部です』って言ったら、大爆笑。『あー、早く帰って卵かけご飯食べたい。それより、納豆ごはん。』って言ったら、大ウソつき呼ばわり。穴があったら入りたかったわ」独り言だけがマイクにひろわれちゃって。 それが、AIで各国の言葉に通訳されたから、最悪よ。
そのときの情景が、今も鮮明に胸に残っているという。
壇上での沈黙のあと、ふと口にしてしまった独り言。
会場に響いたのは、翻訳AIによって拡声されたその言葉だった。
「Glasses are a part of my face... I wish to enter a hole... I desire rice with raw egg. Correction: fermented soybeans.」
「What is ‘fermented soybeans’?」
「ナットウ? 腐った豆のことか?クレージーだな……」
どこからか、片言の日本語で、
「エ?ナマタマゴ タベル ニンゲン、イルワケナイダロウ…」
という声まで聞こえてきた。
ざわめきと、国際色豊かな笑いが、波のように会場を包み込んだ。
——あの時、本当に穴があったら入りたかった。
帰ってきたら、後輩たちが、「ラブロマンスの旅?だったりして、、」と冗談交じりに話すのが聞こえた。
「名古屋の四間通りで、もっと立ち止まっていればよかった。」と、伸子は加えた。
実際、四間通りに立った時、伸子も、すごいことができそうな気がした。
「四間通?」響香が聞き返すと、名古屋の四間通りの説明をしてくれた。
そして、ふたりで江戸時代の文化について話した。伸子さんが「井戸を見たことある?」と聞くので、小学校の頃、駅から帰る途中で見ていた井戸の話をした。
「どこ?」と聞かれ、「妙蓮寺」と答えた。
「妙蓮寺?駅名聞くと『きくな(菊名)』っていう駅があって、その次が妙蓮寺。目の前に見えるのは横浜港。そして遠くに見えるのは真っ白な富士山。校歌の一フレーズを歌った。
お腹がすいたので、コンビニでパンを買った。細かいお金がないので、一万円札を出すと、新しい紙幣が渋沢栄一だった。
響香は、ぽつりぽつりと記憶の中の妙蓮寺を思い出して語り始めた。
それは、伸子の長い旅の物語が滝のように流れ落ち、深い滝壺に沈み、
やがて静かに地下を伝ってゆく水となり、
下流のどこかに、あらたな源流を生み出すような時間だった。
それは、過去という海へとそそぐ、最初のしずくのように。
響香の記憶の中に静かに佇む妙蓮寺の井戸。戦前の焼け野原に自分と井戸を置き、ゆっくりと自分が想像した100年の歴史を話した。
響香から語りのひとしずくは、静かに滴り落ち、輪を描いて小さな泉に溶け込んでいく。
渋沢栄一さんは、小4の社会で地元の鉄道を作ったヒーローとして習った。だから、『日本のお札にまでなる人』って、実感が湧かなかったけど…。」
「横浜が日本の水道インフラの起点だったことは間違いないわ。」と、伸子は言った。
画期的だった横浜水道や、渋沢栄一が手掛けた宗派を超えたシンボルとして、妙蓮寺の駅も戦争で大きな被害を受けたはずなのに、あれよあれよと復旧していたその理由が、今、わかるような気がする。
一滴の輪が静かに消えると、時を置いて、また二しずくがぽつり、ぽつりと落ちるように、響香の語りは続いた。
日本発の近代の横浜水道を横目に、関東大震災の焼け野原、戦後の焼け野原、二度の焼け野原を経験した人たちが集まった場所、それは、あの小学生のとき静かに境内にあった妙蓮寺の井戸に集まったに違いない。水道のない時代、井戸はコミュニティーができてたという。井戸端会議なんて、言葉だってあるくらいだし。「こんなところに水道があったらいいな」とつぶやき、みんなでその夢を語り始めたに違いない。
「東京からかなり遠いけど、東京にはもう、いろんな利権が絡んでいて…ならば、まず横浜に。」日本の近代水道の基礎ができていった。
もちろん、それ以前にも水道という考えは名古屋城やお城の周辺にあったけれど、町の防火のためだったのかもしれない。きっと、伸子さんが名古屋城の四間道で見たようなものだったんだろう。
渋沢栄一さんと寺の住職が妙蓮寺の井戸の前で「どこでもお水が飲めるようにしたい」と井戸端会議を開いたんだ。
そして、妙蓮寺と横浜関内を繋げる電車ができた。
栄一「住職、ここの井戸の水はいいですね。」
住職「この土地、活かしてくれませんか?」
栄一「かなえますよ。」
住職「お願いしますよ。」
100年前の、妙蓮寺駅の完成。それを願った、渋沢栄一さんもいたに違いない。この駅の土地を提供してくれた住職と並んで、渋沢栄一氏も妙蓮寺完成式にいたかもしれいない。
1926年の関内は商業の中心地で、横浜の近代化が進んでいた。その中で関東大震災の爪痕がまだ色濃く残っていただろう。妙蓮寺の井戸の前で交わされた「井戸会議」は、今の横浜、東京、名古屋、そして日本の世界最高水準の水道インフラを支える始まりだったのかもしれない。
「そんなこと、今まで考えたこともなかったけど、響香さんと話していると、そう思えてくるの。」
伸子がそう言うと、響香は微笑んだ。
響香の語る妙蓮寺の過去に心を引かれながら、伸子はゆっくりと身を置くことに決め、かばんからアイパッドを取り出した。地図アプリで妙蓮寺という地名を探し始めた。