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プロローグ〜1

  プロローグ


 少女はクラスメイトの、黒髪の女子を睨みながら、ノートに何か書き付けていた。睨まれた女子は男子の落とした鉛筆を拾い上げるところだった。

「はあい、これ落としたよぉ」

 語尾が伸び、それを聞いた少女は眉間にしわを寄せた。また手が動く。

「ありがと」

 男子は優しい笑顔で受け取った。

 ほらね、全然違う。あたしが落とし物拾ったって、ああ、とかしか言わないじゃん。ありがと、ってどういうわけ?

「いいえ、どういたしましてぇ」

 女子の首は左に傾き、男子を見上げるようにして、微笑む。それを見た少女の眉間のしわは、ますます深くなる。

 あいつ、さっきの体育の時間だってマット敷くのにチョー時間かかったんだ、ノロいくせに頑張ってます、みたいな顔して運びやがってさ、何か言ったらこっちがいじめてるみたいに見えるんだよね。センコーもあいつには言わないでさ、同じ班のあたしらが「早くしろ」つって叱られたじゃん。それに跳び箱三段も跳べないし。跳べないだけじゃなく、跳び箱崩しやがって、すぐ横で倒立の練習してたあたしの肩に三段目が降って来たんだよね。文句言っても、え? とか言うだけで全然理解できないし、マジいらつくんだよね。いつもすげー鈍臭いくせに、何さっきのあれ? 男子が何か落としたらすぐ気付くんだ。反応よかったよね。オカシくね? ほんと、死ねってかんじ。

 少女は視線をノートに落とした。

「ブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコブリッコばか死ねくそ消えろぼけ、だれかあいつを殺してくれ」


 女は同僚の嬌声で我に返った。本当に周りの音が聞こえないほど、集中して仕事をしていたのだ。

 明日のプレゼン資料が、まだできていない。女は今朝から休憩も取らず、ずっとキーボードを叩いていた。

 振り向くと、同僚が上司と笑い合っていた。小首をかしげて、肩に届く髪の毛の先を弄んでいる。

 だいたい、あいつが期限守らなかったから、わたしがこんな目に合ってるんじゃないか。

 女は同僚を睨んだ。目が合って、同僚はハッと口を押さえた。

「どうしたんだい?」

 上司の声。女はまた、パソコンに向かい合う。

「資料ができたら、君もコピーくらいは手伝わなきゃな」

「はぁい。反省してまぁす」

「まあ、いいさ。それよりコーヒーでも飲もうか」

 ちょっと待ってよ。あんたたち、今休憩してたんじゃなかったの? まだコーヒー飲むわけ? ていうか、「それよりコーヒー」って何よ。「それより」って? あいつが仕事ちゃんとやってりゃあ、わたしだって休憩時間返上で働くこともないし、談笑するあんたらを睨むこともなかったのよ。反省させろよ。コーヒーより反省だろうが。ていうか、わたしに一杯持って来たってバチは当たらないと思うんだけどね。ていうかていうか、上司のハゲ、わたしらだったら、ちっさいミスでもねちねちしつこいくせに、あのオンナだったら野放しなんだな。仕事できんのはこっちだっつーの。あいつが絡むと足ひっぱられてばっかりなんだよ。くそ、早くクビにしてくれりゃあいいのに。なんなのよ、なんでわたしがあいつの尻拭いさせられんのよ。

「死ねブリッコ」

 女は四半期売り上げ推移のグラフの下に、そう打ってしまった。しばらくの間削除できずに画面を見つめていると、乾いた目に涙がにじんだ。


「こんな歌手の、どこがいいんだろうねえ。わたしは腹が立って腹が立って、しょうがないよ」

 妻は、寝転がってテレビを見ながら、そう呟いた。

 液晶画面の中で、ピンクのワンピースを着た少女が、時折小首をかしげ、舌足らずな甘い声で音程を上手に外しながら、ぎこちないステップを踏んで歌っている。

「たしかに時代錯誤だけど、それがかえって新しいんじゃないの。いいと思うけど」

 夫は、妻の背後のソファに腰掛けてそう言った。実際、その歌手はかわいくて好みだったのだ。

 夫の言葉が終わるのを待たずに、妻はすごいスピードで体を起こし、振り返って夫を見た。その瞬間夫の脳裏に、悪鬼羅刹のごとく、という言葉がよぎった。あれ? この言葉、何で読んだんだっけ? 四谷怪談? 八墓村? スティーブン・キング? でもどの本も、こんなには怖くはなかったと思うけど。

「あんた、安月給なのに小遣い3万も貰えてんのは、だれが働いてるからか、わかってんでしょうねえ? 今ちらっと、この女のことかわいいって思ったんでしょ? ふざけんじゃないわよ、わたしら必死こいて働いて、家のこと、ひいては日本のことを支えてやってんじゃないの。それをだらしない男がああいうバカで生産性のないブリッコ女にかまけて騙されて、かわいいだの何だのって甘やかすから、わたしらやってられんって言うのよ。ブリッコがどれだけわたしたち働く女の足を引っ張ってると思うの? だいたいあんたたち男ってのは」

 夫は、はい、はい、と体を小さくして妻の怒号をやり過ごそうとした。妻は最近、いつもこうだ。ふた言目には女が日本を支えてる、男はそれを正当に評価しない。役に立たないブリッコのケツばかり追いかけ回しやがって。

 きっとテレビの受け売りなんだ。だいたい政府が女をちやほやしすぎるからいけない。次の選挙で女性票が欲しいのはよくわかるけど、持ち上げられていい気になった女より怖いモノがあるか?

「ほんとに能力があるのは女なんだからね! 働く女なくして、日本が発展していくと思ってんのっ?」

 はあ? おまえはおれが朝出ていく時も夜帰る時も、寝てるかテレビを見てるかじゃないか。一日四時間程度のパートで、日本の発展だと? 恩着せがましいガミガミ屋の中古女より、バカでも生産性がなくっても、かわいくて従順なブリッコのほうがいいに決まってるだろうが。

 けれども夫は、ごめんなさい、ごめんなさい、と謝った。小遣いを3万から2万に減らされるのが怖いからだ。気を使ってベランダで吸う煙草を取り上げられるのが怖いからだ。悪鬼羅刹のごとき妻が、怖いからだ。

 先月同じ課の後輩が、ブリッコと呼ばれる女性のミスをかばってやって、左遷させられたばっかりだ。うちの会社は女が多いからな。社長もやつらの声を無視できないんだ。しかしそう考えると、なんてこった、おれの周りは悪鬼羅刹ばかりじゃないか。

「ごめんなさいごめんなさい、働ける女がいちばんです。ブリッコはカスです。社会のゴミです。ぼくが間違っていました、許してください」


      1


 ブリッコは感染する、というニュースが日本列島を震撼させた。

 政府はブリッコ対策委員会を設けるにあたり、国立情報大学社会学部助教授、三木田リサを有識者の一人として招聘した。

 5年前、ブリッコを社会から追放せよ、という強い世論に押される形で「ブリッコ矯正施設」が作られブリッコを収容するようになってから、リサは一貫してブリッコたちの人権尊重と矯正施設の環境改善を訴えて来た。

 32歳という若さで、リサはメディアに引っ張りだこだった。それはリサの立場が少数派であるからにほかならない。世論はリサを叩くことで、団結しようとする。

 5年前に「ブリッコは病気である」と、ある学者が発表した。個人の性質、性格ではない。ブリッコたちには共通して、脳の同じ部分にポリープが発見されたのだ。その異常により、語尾が伸びる、首を傾ける、物事の理解が困難になる、などの症状が現れることがわかった。けれど原因がわからなかった。ところが今日、ブリッコはウイルスによる、との発表が、ブリッコ研究医師団からなされたのだ。

 時計を見ると10時だった。午後1時に総理官邸にて、ということだったので時間はあったが、何も手につかない。リサは仕方なくテレビの電源を入れ、リモコンを手に取った。

「税金がもったいないから、早く殺しちゃえばいいんだよ」

 乱暴な声がまず耳に飛び込んだ。素人討論番組だ。出演者はみんな首がもげるほど深く頷いている。リサは番組表から報道番組を探して、チャンネルを変えた。

「一人残らず矯正施設にぶち込むしかありませんね」

 映像が変わった瞬間、いつも頑なに中立の立場を取るアナウンサーがそう言った。

 リサの元にファックスで送られてきた医師団の発表には、感染の危険性があるのは、病気などで免疫力の落ちている人、高齢者、乳幼児、と書いてある。しかし健康な多くの人には感染しない、という重要な事実が、報道では意図的に隠されていた。

 リサがヤケになって番組サーフィンしていると、電話が鳴った。テレビの音量を絞ってから受話器を取ると、大手新聞社を名乗る男性の声が聞こえた。

「三木田先生、本日の夕刊分にコメントをいただきたいのですが」

 リサはすぐに答えた。

「ごめんなさい、政府の対策委員会に呼ばれてますので、もう家を出るんです」

 5分あれば取材には応じられるが、何も話したくないのだ。

「じゃあ、携帯電話にもう一度かけるから、話しながら移動してくださいよ」

 男の声が急に馴れ馴れしくなった。いや、違う。リサは嫌悪を感じた。馴れ馴れしいんじゃなくて、横柄になったんだ。

「いろいろ準備もありますので、お断りさせていただきます」

 リサの言葉に、はっきりと鼻で笑ってから、男は答えた。

「ああ、そうですか。センセイ、ブリッコどもといっしょに殺されますよ」

 プツン、と通話が切れた。今の男の言葉が世論そのものだろう。リサはそう思って、独り言をつぶやいた。

「女に洗脳された男どもめ」

 はじめ、ブリッコ追放の声を上げたのは女性たちだった。多くの男性たちは、どちらかというと否定的に見ていたはずなのだ。それなのに、今のこの現状はどうだ。最初からそうだったかのように、男たちまでブリッコを迫害して社会の隅に追いやり続けている。

 女たちが大義名分を口にし出したときから、反論は許されなくなったのだ。ブリッコは仕事の効率と生産を下げる。野放しにしておいては、国益を著しく損ねるではないか。そういった大義に反論すると、次は反論した者が「非国民」として吊るされる。

 食欲が湧くはずもなく、リサは朝食を取らず、サプリメントだけを口に入れた。そしてまたテレビの音量を上げ、チャンネルサーフィンを始めた。どの番組を見ても、世論はすでに決していた。だれもがブリッコ矯正施設の管理強化を、いや、それより手っ取り早い方法として、病原菌の撲滅を願っていた。

 何の対策も講じられないまま、あっという間に時間が過ぎた。リサは隙間のないスキニーパンツに細身のジャケットを羽織り、銀の細いアンクレットを付けて、家を出た。

 リサはこのシンプルなアンクレットを、ブリッコについて語るときには必ずつけることにしている。何の役にも立たず、人目に触れることもない銀の細いアンクレット。社会から大いなる無駄、非効率化の諸悪の根源というレッテルを貼られたブリッコを擁護することは、能率主義を掲げる社会に真っ向から反論することだ。できるだけ無駄なものを身につけることで、リサは戦闘態勢に入ることができる。

 リサは背筋を伸ばして、早足で歩いた。

「三木田先生、どう言い訳されるおつもりですかね」

 リサが総理官邸に向かっていると、湿っぽい男の声が追いついた。リサの顔が引き攣ったように歪む。

 リサには顔を見なくても、声の主がわかっていた。民友党の平良(たいら)議員だ。ブリッコ差別論者。これまでもテレビ番組で何度となく論を戦わせたことがあった。

「言い訳って、何ですか?」

 リサは必要以上に冷たい声で言った。顔はまだ見ない。というより、見る気がしない。

「ブリッコ、感染するんですよ。あなた今まで『ブリッコの隔離は不当だ』って主張してきたでしょう。それを真に受けてブリッコ放し飼いにして、ブリッコが蔓延した地域なんかがあったとしたら、どんな言い訳をされるのかなぁ、と思ったわけですよ。世間の非難はあなたに集中しますよ」

 言われなくてもわかっていた。リサはもう充分、世間の考えていることがわかっている。

「調べればすぐわかりますよ、きっとあちこちでそういう不祥事があるに違いないんだ。みんな、怒ってるだろうなあ」

 リサは足を速めた。平良は中年の中でもとびっきり脂ぎっていて、こういう時に浮かべる笑顔は彼の醜い表情の中でも、群を抜いていやらしい。そのにやにやした顔を見ないように、見ないように歩いているのに、平良は歩みを揃えて、ぴったりとついて来た。

「対策室設置、っていってもね、これは三木田先生、あなたの吊るし上げですよ。よくもまあ、ノコノコとやってきましたね。いやぁ、尊敬しますよ。反省してるんですか、今までの強気の発言」

 平良の言うとおり、リサは今まで強い論調で、ブリッコの解放を訴えてきた。最近出た番組の中でも「ブリッコの痛みがわからないバカな不感症のおっさん議員」と言い放っていた。直後に無言電話が頻繁にあったが、あれはきっと平良だったのだろう。

 平良を無視して、リサは首相官邸正門を駆け足で潜り抜けた。取り壊しが決まっている噴水を横目に、対策室の設置されたホールへと向かう。振り返ると、言いたいことを言い終えたのか、平良が今度はひどくゆっくり歩いていた。余裕を見せたいのかもしれない。

「ゲス男」

 リサは肩を怒らせて前庭を抜けた。

「三木田先生ですね」

 ホールに入ろうとした時、だれかがリサの背後から声をかけた。リサが立ち止まって目を向けると、まだ若い見知らぬ男性だった。

「はじめまして。ぼくは自衛省の佐々木邦生(くにお)といいます。役職はありません。ただ、ブリッコ問題には興味があって、そのことが霞ヶ関ではちょっと知られています。もちろん三木田先生のことは、よく存じ上げております」

 佐々木はす、と手を出した。

「お会いできて、光栄です」

 リサは機械的に手を握り返し、唇だけで笑った。

「どうも。今日は官僚と政治家でよってたかってわたしを吊るし上げようっていうの? 有識者会議だって聞いたんだけどね」

 平良に浴びせられた言葉による鬱憤を初対面の佐々木に向けて発してしまい、リサはすぐに後悔した。

「ごめんなさい、ちょっと気が立ってるもんだから」

 佐々木は笑って首を振った。

「いえ、いいんです。官僚と政治家が多いのは確かです。しかもこの問題に関しては素人同然の、です。これでは有識者会議にはなりません。ブリッコ問題に正面から向き合っているのは、先生を含めて三、四人というところでしょう。あとの十数人は冷やかしです。というより」

 佐々木は言葉を止め、まっすぐリサを見て言った。

「先生にざまあみろ、というためだけに、半ば自主的に集まっています」

 それを聞いて、リサの頭に血が上った。わたしは何のために呼ばれたのだろう。何のために時間を割いて、会議をするのだろう。

「で、あなたもわたしにざまあみろ、と言いたいんですか?」

 佐々木からは敵意が感じられないにもかかわらず、思わずリサは佐々木を睨みつけた。

「三木田先生」

 佐々木はゆっくりと言った。

「みんながみんな、先生の敵ではありませんよ。少なくともぼくは、先生の意見におおむね賛成です。これから少しお辛いでしょうけど、先生は正しいと思うことをおっしゃってください」

 そこに平良が追いついてきた。

「先生、さすがにいい男を見逃しませんねぇ。色仕掛けで仲間に引き入れるおつもりですか? へへへ」

 佐々木はとっさに言葉を返せず、リサは当然のように無視した。平良も無視されるものと思っていたらしく、そのままホールに入っていった。

「どうもイライラして、キツいことを言ってごめんなさい」

 リサは言いながら、初めて佐々木を正面から見た。年齢はリサと変わらず、32、3というところだろう。いい男というわけではないが、清潔そうな印象だ。短く刈り込んだ髪とやけに白い歯が、官僚ではなく学生のように見える。しかし若くて清潔感がある、という一般的には好ましい属性も、これからの会議の中では少しも役に立たないだろう。

 会議が始まる時間、リサは席に着いたメンバーを見回して閉口した。

 リサと同じようにブリッコ擁護派で有名な評論家加藤信二と、ブリッコ救済会の会長小原洋介を除けば、あとはブリッコ迫害家とでも言ったほうが合っているような、極端なブリッコ差別論者ばかりだった。しかもそのほとんどが政治家、官僚である。医療関係者が一人もいないところを見ても、この会議に何の意味もないことがわかる。

「みなさん、お忙しい中お集まりいただいてありがとうございます。この度の発表には、驚かれたことと思います。政府としては、一刻も早い対応を迫られているわけでありまして、しかもその対応は正しいものでなければなりません。今までのような甘い見通しの対応をしていては、国民に烈しく非難されるでしょう」

「そのとおり!」

「首相万歳!」

 リサが合いの手に呆れて首相の取り巻きを見回すと、平良と目が合った。平良はさもうれしそうに、にやり、と笑った。

 首相の挨拶が終わると、議長が一礼した。

「議長の滝川です。本日、みなさま方には今後の政府の方針について、意見を戦わせていただきたいと思っております。まず、ブリッコ矯正施設についてですが」

「議長!」

 平良が勢いよく手を挙げた。

「今までブリッコは隔離すべきでない、とかナントカ言っていた人がここにおられるわけですが、ブリッコとともに暮らすことが安全でないことが発表されました。適切な隔離を行なわなかったために感染した不幸な患者たちから苦情が殺到すると予想されるのでありますが」

「三木田先生、そのへんはどうお考えですかな」

 平良の言葉が終わる前に、社産党の車崎がリサを睨みながら、ゆったりした口調でそう言った。さっそく来たか。リサは毅然と顔を上げて、答えた。

「わたしたちのだれもが、今日まで感染の事実を知りませんでした。知らなかったことが罪だと患者が訴えるなら、真摯に耳を傾けますが、しかし問題は、そうして感染してしまった患者たちに、これから何ができるかです。わたしはたとえブリッコが感染するとしても、不当な隔離、迫害は止めなければならないと考えております。それは今までの考え方と何ら変わるものではありません」

 車崎が年のせいでたるんだ頬の肉をだらり、とさせたままでぬめり、とリサを見上げた。

「不当な隔離。不当って何ですかな。治らない、惨めな病気がうつるんですぞ」

 評論家の加藤が口を挟んだ。

「不当というのは人権を守る観点から見て当を外れている、という当たり前の意味ですよ。やむを得ず隔離せざるを得ない場合であっても、そのやり方に人権侵害がないかどうか、きちんと検証されるべきである、とわたしたちは言っているのです」

「あんたには聞いとらん。ブリッコ好きのスケベ親父が」

 車崎がぐるり、と首を回して加藤を睨むと、平良が幇間のように「そうですぞ」と言った。

 リサは平良から顔を背けた。

「加藤さんのおっしゃったとおりです。どうあれ、わたしは今までどおりブリッコ矯正施設の環境改善を求めます」

「殺せ殺せ。ブリッコ全員殺せばいいんだよ」

 突然カン高い声で叫んだのは法審大臣だった。名前のわからない官僚がひとり、そうだ! と立ち上がった。

「ブリッコなんかに増えられちゃあ、真面目に働いてる我々、たまったもんじゃないですよ。なにしろあいつら、日本語通じないしさ、なんかナヨナヨしてキモイんだよね」

「そうそう、施設にもお金かからなくなるし、殺しちゃえば」

 この発言にはブリッコ救済会の小原が色めき立った。

「あんた、そんなこと言っていいと思ってるんですか! あんたの息子や娘がなっていたかもしれんのですよ!」

 法審大臣は小原に向かって放屁した。

「だからそうならんうちに、病原菌殺しちゃってって言ってんだよ。自分の子が仕事できない無能になったら、だれだって困るでしょうが。おれの子がブリッコ? ああ、日本はどうなっちゃうの。みんなが不幸になる。殺していいってば」

 小原は机を叩いて抗議したが、法審大臣はあさっての方を向いている。リサは我慢できずに口を開いた。

「いいですか、あなたが役立たずの大臣で、奥さん怖さにブリッコの迫害をしてるだけだといっても、だれもあなたを殺したりはしません。女性票を取る者だけが選挙に勝つ、という理由だけで五年前に矯正施設を作った党の幹部だといっても、殺したら殺したほうが悪いんです。どんなスケベじじいにも人権があるからです。生きて楽しむ権利があるからです。そこんとこ、よく考えてください」

「おい! だれに向かって言ってるんだ!」

 法審大臣ではなく、まわりの政治家が数人怒って立ち上がった。

「大臣はブリッコなんか、断じて、断じて好きじゃない!」

「そうだ! 政治家の家はみんなカカア天下で、ブリッコ睨んでないと家に入れてもらえない、なんてことはあり得ない!」

「あわわわわ、もうそれ以上言わんでよろしい」

 なぜか首相が止めに入った。

 リサが再び口を開こうとしたとき、向かいに座っていた佐々木がす、と立ち上がった。

「首相、それに先生方、落ち着いてください。建設的な話し合いをしましょう。政府としてブリッコを蔓延させないように何ができるのか、それを考える会議ではありませんか。何も三木田先生はブリッコを広めようとなさっているのではありませんよ」

 佐々木の立ち姿は、醜い老人たちの中にあって、とても清々しく若々しかった。しかしあまりにも頼りなかった。

 場のムードは一気に、佐々木に対する非難に変わった。

「何を偉そうなことを言っとるか、若造が」

「だいたいだれなんだね、君は。え? せめて次官にでもなってから発言したまえ」

「ブリッコの肩なんか持ってちゃあ、ぜったいに出世できないぞ」

「そのスーツはどこで買ったんだね。色がよくないよ、色が」

「有識者会議で何かを考えるなんて、ナンセンス極まりない。君はほんとに官僚かね」

 佐々木は何も言わずに座った。何を言っても無駄だった。リサの苛立ちは極限に達した。

「じゃあ、何のために集まったんですか」

 リサは精一杯の大きな声で、でも決して乱れずに言った。

「無駄を嫌ってブリッコ矯正施設を作られたあなたたちが、どうしてこんなに無駄な会議をなさるのか、わたしにはわかりません。議長、早くまとめてくださいませんか」

 議長の滝川は、は、っとして、ねずみのように首相と法審大臣、そして車崎をキョロキョロと見回した。そして深呼吸をして、さも威厳のある顔を作って、こう言った。

「では、多数決をとります。ブリッコ撲滅に賛成の方、挙手を」


つづく

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