なんにもない、なんにもない、まったくなんにもない。
彼女は会社のマドンナだった。
僕よりも2つ年上で。
秘書室に勤務していて、優しい雰囲気を纏う。
僕は、いつもおどおどして、へらへら笑っていた。
彼女の先輩の、結婚が決まった。
その先輩は、もちろん美しく、聖母様のような優しい存在だった。
そのお祝いに呼ばれた僕は、初めてマドンナを正面から見つめた。
お酒の席で僕と話をしたとき、本当の彼女はしっかり者で、芯が強い人なんだと知った。
何を言われたのか覚えていないけど、何だか結構怒られていたような気がする。
僕は、へらへら笑っていた。
帰り際に、聖母様がそっと耳打ちしてくれた。
マドンナは、君が入社してからずっと気になっているみたいと。
今日が最後のチャンスだと言っていたと。
僕が転職することは、みんなが知っていた。
だから、何だかバツが悪かった。
少しだけ、胸が痛んだ。
帰りの地下鉄まで、マドンナと一緒だった。
一歩ずつ、僕らの距離は近くなっていく。
そして、僕の鼓動は早くなっていく。
ホームはお互いに反対側だった。
彼女を電車に乗せるまで、見送ろうと思っていた。
その間に、一歩を踏み出せばいい。
分かっていたはずなのに。
あと一歩、勇気が出なかった。
薄暗い地下鉄。
夜の静けさと喧騒を乗せていく。
僕は、結局何も出来ずじまいだった。
相変わらず、へらへら笑っていた。
電車のドアが閉まるその瞬間まで。
彼女が悲し気に見つめていたのを、今でも鮮明に覚えている。
そのドア越しに、彼女は気丈に笑っていたけど。
彼女の噛んだ唇が、僕の胸を刺した。
僕が転職して少しして、風の便りで彼女が会社を去ったと知った。
その後の便りは何もない。
なんにもない
なんにもない
まったくなんにもない。
生まれた
生まれた
何が生まれた。
星がひとつ
暗い宇宙に
生まれた。
昔からダメな自分。
よく、自分が生まれてきた理由とか、価値とかで悩んでいる人がいる。
それはきっと、エゴや傲りで。
本当はそこに理由とか価値はないんだと思う。
だから、ただ、生きていていいんだ。
僕の胸の中の微かな痛みが、生きていると伝えてくる。
ただ、生きようと伝えてくる。
だから、僕は今日も生きています。