第10話
通ってきた白い扉とはまた違う、一回り小さな茶の扉を抜けて、二人は大広間を出た。
朝ネオが着付けたドレスはお酒の染みがついているし、髪はこけたいきおいで解れていた。
「さわ様、よく我慢なさいました。あの方はわが国の中で最も力を持つ属国の一の姫ガーネット様。新しい方が入られるたび、こうして新入りの方に嫌がらせをなさっているのです。あそこで争わなかったのは賢明な判断です」
うつむき、ただ歩くさわが泣いていると思ったのか、ネオはメガネをかけた厳しい顔つきからは意外なほどに優しい声で言った。
「このまま宴には戻らずに休んで結構ですよ。ベガ様には『さわ様は体調を崩されました』とお伝えしますので」
さわに与えられた部屋に着いたのか、扉を開けながら、ネオは後ろに立つさわに言った。
しかし返ってきたのは意外な言葉だった。
「薄い青のドレスはある? 背の開いた、でもいやらしくない程度に露出は少なめのものだとなおいいわ。裾は足にまとわりつくような、こうひらひらした長めのドレス。品の良い銀の靴も用意して。ヒールは高いものを。あとちいさなピンはある? できるだけたくさん。あとは化粧道具も用意して」
さわはさっさとよごれたドレスを脱いでいた。
唖然とするネオに「早く」と急かす様は、思わず背筋が伸びるほどの威厳があった。
しかしさすが長年侍女を務めるだけのことはある。すぐに我に返り、さわが所望したものを次々と並べて行く。
さわは、鏡の前に座り髪の毛をいじり始めた。普段のさわはストレートだが、先ほどネオに軽く巻かれていたため今は緩やかなカーブを描いている。その髪を半分掬い上げ、複雑な形に編み上げながらピンでどんどんと留めていく。
そして化粧道具を開き、見慣れない道具で化粧を施して行く。ネオに化粧を施されたときに見ていたため、大体のつかい方は覚えた。
さわは一度見たものは忘れない。
ネオよりも繊細に、大胆に色を使いながら、鏡の中の自分を清楚ながら妖艶な女性に変えてゆく。
最後に紅を引き、すっと立ち上がってドレスに手を掛けた。
ネオが後ろに立ち、ドレスを着せてゆく。
歌は演じなければ歌えない。
これは奈良橋の持論だった。
プロの歌い手はどんな歌でも歌えなければならない。と奈良橋は言った。
歌に載せられた歌詞が、思いが、全て自分の経験したものだとは限らない。
でも、歌うからにはそれを真実に昇華させる必要がある。
「どんなものでも、挑戦してみなさい。知っていればそれを歌うのは簡単だ。でも若いがゆえに知らないことも多いだろう。それでもどんな歌でも歌えるように、演じなさい。その歌の主人公に自分をするんだ。演じれば、それが真実になる」
「それに、自分をよく見せるよう努力しなさい。日本では売れるために見た目は欠かせないよ」
それからはいろんなことに挑戦した。
どんな自分にもなれるように様々なことを勉強した。
必至こいてバイトをしてお金を貯めては、お茶やお花や武道などの習い事につぎ込む日々。
奈良橋が「先行投資だ」と言って、作る曲を高く買ってくれるようになってからは、一人ヨーロッパを旅をしたり、ハンググライダーで空を飛んでみたり、ダイビングで海をもぐったりもした。
自分をよく見せるためにファッションの勉強もした。
自分を一番美しく見せる服、髪型、化粧、仕草。
しかしそれはさわの知識を増やしたが、知らないものを歌うところまではいかなかった。
そんな時、日本である舞台を見て、ある女性の一人三役の演じ分けに惚れこんだ。
まったく違う表情と、性格。その人が生まれ育った背景までも、にじみ出る雰囲気で演じ分けてみせる彼女の舞台を見るために、日本中を3ヶ月追い掛け回したこともある。根負けした彼女について半年劇団の稽古に通った。そこで「演じることそのもの」を学んで初めて、経験したことのない知らないことを、演じて歌うところまで昇華できるようになったのだ。
そこからのさわの歌の上達はすさまじかった。
知っていることも、「より知っているように」演じて歌う。
知らないことは「知っているかのように」演じて歌う。
さわは歌うとき女優になる。
さわがさわでなくなって初めて、どんな歌も歌える。
――やってやるわ。
私は馬鹿にされるのが、歌をけなされることの次に嫌いなのよ!!
そう決意して、手のひらに爪のあとがつくくらいにぎゅっと握って、「誰よりも美しく、賢い女性」を思い描く。
そしてひとつ微笑むと、それは完成した。