第9話
通ってきたはずの黒い扉は、ただの壁になっていた。
さわの目の前には一直線に伸びる広い白亜の通路がある。柱には美しい彫刻が施され、両脇は様々な花が咲き乱れて美しい。
しかしその通路の長さが尋常ではなかった。軽く数百メートルはあるだろうまっすぐな道。
――いや、まじ意味わかんないかも。
ここがどんな空間であるのかが把握できず、さわは焦る。とりあえずリードの言う白い扉を探そうと通路を歩き始める。10分ほど歩いてやっと、かなり遠くにそれらしきものを見ることが出来た。
1時間は歩いただろうか、いやもっとかもしれない。
やっと白い扉の前に立ち、息を吐いた。時計を持たないさわは、体内時計で歩いていた時間を考えるが答えは出ない。
息を整えてノックをしようとした瞬間、扉はさわの手が触れる前にひとりでに開いた。
驚いたさわに扉の向こうから声がかかる。
「どうぞ、さわ嬢。リード魔法士長の遠縁の娘とか。2刻とはずいぶん早いお着きだ。回廊に気に入られたか」
ひとりでに開いたと思った扉は、よく見れば小さな少女が扉を開けていただけだった。
「わたしはカノン。ここの案内役をつとめている」
そしてその少女の向こうにはきらびやかな世界があった。
開いたその先は玄関でもなんでもない、大広間だった。
無数のシャンデリア、鳴り響く弦音楽。
むせ返るような花のにおいは、女性たちがつける香水だった。
「お披露目は派手に。そうベガ殿からおおせつかっておるゆえ、宴を開いたぞ」
見た目に似つかわしくない古めかしい喋り方をした少女は、さわの手を引いて大広間をぐんぐんと進む。いくつものテーブルにはおいしそうな料理、回る給仕たちの手にはお酒が乗っているのがにおいで分かった。
「ここにおるものは全員后候補とその侍女じゃ。今日は久方ぶりにベガ殿が来るとのことでみな張り切ってな」
少女に手を引かれるさわをみて、周りの女性たちが次々と振り返り、そしてこそこそと話し始める。
「あれが新しい候補?」
「どうせ卑しい身分のむすめよ」
「宰相の遠縁ですって」
大広間の向こう、階段の上の少し高くなっているところに、赤い髪のにやにや笑いを見つけて、さわはやっとこれがあの男のせいだと理解した。
おそらくベガがさわを困らせるために、このような宴に突然放り込んだのだろう。
カノンは女性たちの陰口が聞こえないかのように、間近に迫るベガのもとへ連れて行こうとした。しかしその瞬間、誰かの足がさわのドレスを踏んだのが分かった。カノンに引っ張られたさわは横のテーブルを引っ掛けて盛大にこけてしまった。
その瞬間、陰口が失笑と混じって大きな音になる。
さわの顔がぱっと朱に染まった。
「おぉ、すまん。急ぎすぎたか。ベガ殿に早う連れて来いといわれてのう」
カノンは自分が引っ張ったせいだと思ったのか、謝りながらさわに手を伸ばして起こそうとした。
しかしそれは叶わなかった。
カノンの手をつかもうとしたさわは、自分の頭からぽたぽたと水滴がたれるのを感じた。
「まぁ、卑しいむすめね。転んだ上にテーブルを倒し、その上頭からお酒を飲むだなんて」
真っ赤なドレスをきて流れる金髪を垂らす一人の女性が、ひっくり返した空のグラスを手に笑っていた。
「まぁガーネット様ったら」
取り巻きの娘たちは、さわの姿を見てまた笑った。
ガーネットと呼ばれた女性はベガに向き直り、自分がしたことになんの罪悪感も感じていないかのようにこう言った。
「ベガ様、酔狂がすぎますわ。このような王の御前でドレスに足を取られて転ぶ娘など、后候補に相応しいはずもありません」
「俺には誰かがドレスを踏んだように見えたんだが?」
言葉だけ聞けば責めているようだが、そんな言葉とは裏腹に楽しそうにベガは言う。
「まぁ、ベガ様。気のせいですわ」
ころころと鈴が鳴るような声で笑うガーネットに、さわはカチンときた。
表情でそれが窺い知れたのか、ベガがさわを煽る。
「なんだ、さわ。なにかいいたげじゃないか?」
――この男、まじむかつく
瞬間、さわは自分のスイッチが切り替わるのを感じた。
歌うときと同じ、血が上った頭から興奮が冷めていくのがわかる。
「着替えを」
まだしりもちをついたままだったさわが顔だけを上げてベガにこういった。
「着替えを所望します」
低いその声は、少しかすれているのに通る声だった。
かつて持っていた透明さや高い声は失われて尚、力のある声。
ざわめきが一瞬広間から消えた瞬間、どこからか現れたネオがさわの手をとった。
「御前失礼いたします」
ネオはそう言ってさわを大広間から連れ出した。
1刻は30分程度だとお考えください。
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