晩冬
「私、朝丘さんが結構好きなんです。」
アルバイト先の加谷さんに突然告白されたのは、大学卒業間近の勤務最終日、閉店後のことだった。
加谷笑美子さんは二つ年下だけど、僕より一年ほど長く務めているので、このカフェでは先輩だ。
「俺も加谷さんが結構好きだよ。」
加谷さんは特別美人ではないけれど、愛嬌のある感じのいい人だった。見た目は至って普通の学生なのに、言葉遣いや仕草の節々に、育ちの良さが見えるところにも好感が持てた。
「あ、いえ。たぶん私、困らせちゃうほうの、好き、なんです。」
「彼女になりたいとか、そっちのほう?」
「ひらたく言えば。そっち、です。」
冗談と見せかけた願望に、彼女は笑顔で、あくまで真面目に答えてくれる。
どきりとしてしまい、僕はそこから素直になることにした。
「俺も、彼女になってほしいほうの、好き、だよ。」
「えっ、」
とたんに空気が変わった。
加谷さんは、どうしよう、と呟きながら唇に指をあて、やがてにこりと笑いながら、
「無かったことにしてください。」
と、予想外の返答をしてきた。
「彼女になってくれないの?」
「なれないです。」
「なりたいほうって言わなかった?」
「なれると思ってなかったので。」
格好悪く食い下がる僕に、加谷さんは誠実な態度でひとつひとつ、返してくる。
「今日で朝丘さんが最終日だったから、伝えておきたかっただけなんです。ごめんなさい。私、いつか絶対ふられちゃうんで、付き合うのは遠慮しておきます。」
「ふらないよ、絶対。」
「それって、結婚の約束みたいじゃないですか、」
どこまでも真面目な受け答えをして、小首を傾げる。
彼女に習い、僕も真面目に、誠実な返事をした。
「それもいいかもな。」
「じゃあ、余計にだめです。」
「なんだよそれ、」
「子宮が無いんです、私。」
加谷さんはさらりと言う。続けて、「むかし、病気で。」ともさらりと付け加えた。
僕は驚いた。加谷さんの発言にじゃない。
加谷さんの発言に対する自分が、へえ、と思うくらいにしか感じなかったことに、だ。
彼女にとって今のはきっと、切り札だったのだろう。僕を想っての気遣いか、はたまたしつこい男をあしらう方法なのか。どちらにせよ、交際や結婚を拒むための最終手段だったに違いない。
「彼女になんてなれたら欲が出ちゃうと思います。でも、結婚できないから、私。」
「結婚はできるだろ。」
僕は賭けてみることにした。
「朝丘さんの人生、無駄にしちゃうだけです。」
「無駄になんてならないよ。」
「子供、産めませんよ?」
「一生二人きりで遊べるな、」
「本気で言ってます?」
「本気に聞こえない?」
………。
………。
………、
「ちょっとだけ、きこえます。」
賭けは僕の勝ちだ。加谷さんははにかみながら笑った。
五年の交際を経て僕らは結婚した。
当時の僕の稼ぎにしては上等な指輪を贈り、家族だけの小さな式も挙げた。
「私の、一生の宝物。」
妻は今でも時々、お世辞にも高価とはいえない指輪をかざして笑ってくれる。
子供は作れない。
笑美子と夫婦になる上で、それを咎める者は誰一人いなかった。
既に子がいる姉夫婦や、結婚五年目にして懐妊したチズの存在もあったのかもしれないが、一番の要因は笑美子の人柄だろう。
彼女持ち前の愛嬌には、朝丘家も仲村家も、婚約前の顔合わせの時点ですっかり魅了されていた。
特に笑美子の手腕を実感したのは、八歳になる姪の依世でさえ手懐けたことだ。
姉の第二子・依世は昔から人見知りが激しく、他人はもちろん親類間でも僕以外の人間に懐かないことで、姉の手を焼かせていた。
「依世ちゃんだけは、笑美子ちゃんでも無理だろうな。むしろ笑美子ちゃんだからこそ、無理かも。」
チズはそう予言していた。大好きな叔父さん(僕のことだ)を盗られたようなものだ、それが彼女のいう根拠だった。
「イヨね、おじさまがいいの。」
決まり文句を添えて僕から離れようとしない姪が、チズの予言に反して、笑美子と手を繋ぎ動物園や水族館に出掛けるようになったのは、彼女を紹介してからすぐのことだった。
僕と笑美子の間に依世を挟んで手を繋ぎ、三人で色々な所に出掛けた。
本物の親子のような光景に幸せそうにする笑美子を見て時々、いいな、と思えた。しかし同時に、時々、煩わしくもあった。
依世は、もちろん可愛い。なついてくれるから、可愛い。でも依世との時間を心から楽しむ妻の姿に、複雑な自分もいる。
そんなとき僕は、あのときの賭けが大当たりだったのだと、つくづく実感するばかりだった。
「子供を持たないことが、妻からの唯一の結婚条件でした。」
ある日の昼間、たまたま居合わせた僕と姉は、テレビの音に目も心も引っ張られた。
声の主は一ノ瀬成彦だ。トーク番組のゲストとして出演していた彼は、結婚七年目になる夫人とのエピソードを赤裸々に語っていた。
「だから本当は、妻にふられてたんですよ、私。」
彼の意味深な発言に司会者は、「と、おっしゃいますと?」なんて食いつく。
「結婚を申し込んだ際に妻から、「子供は産まないけどそれでいいのか」と返されたんです。彼女からすれば、断る口実だったのでしょうね。相手が私だったのは、彼女も運の尽きでしたけど。」
一ノ瀬成彦は自身も元より、子供は持たない人生を歩むつもりだったと告白し始めた。
「両親とさえ穏当な関係を築けなかった私に、子供を持つなんて夢は懐けませんでした。私は男ですし、そんな人生でも未練は無かったので、一生独身なんて選択も視野に入れていましたよ。でも、妻に……初めて同じ考えの女性に、出逢えたんです。」
子供を持たない代わりに、二人で色々な所へ遊びに行こうと約束したこと。
今でも手を繋いでデートをしていること。
何年何十年経とうと、ずっと二人で恋を続けてゆくこと。
そんな彼女と一生、一緒に居たいと思えたこと。
結婚前に誓った二人の約束を、彼は穏やかに語った。
そして終わりに、「もちろん最初は一目惚れだったので、偉そうなことは言えませんけどね」と付け加え、会場の笑いをさらった。
「あなたと笑美ちゃんみたいね、」
姉がすかさず言う。僕もすかさず言い返した。
「子供を持たないと持てないは違うけどな。」
「でもフミは、持たなくても持てなくても、よかったんでしょう?」
笑美ちゃんが居ればよかったんでしょう? のろけになると自覚しつつ、僕は大いに頷いてほくそ笑んでやった。
「おんなじね、冬ちゃんと。」
やっぱり意識していたか。あえて口にしないでいたあの人の名前を、姉は敗者の面持ちで引っ張り出す。
「結局私、あの子に何も敵わなかったわ。早く結婚して、若いうちに子供産むしか、勝ち目はないって思ってたの。実家帰るたびに、あの子がまだ独身なんだって聞いて、安心してたもの。わざと地元で、君依や依世を連れて歩いて、あの子と鉢合わせにならないかななんて、考えたりしてたわ、」
急に饒舌になった独り言のような台詞を、姉は、「ほんと、女っていくつになってもくだらないのよね。」なんて一文で締め括った。
「男はいくつになってもバカだけどな。」
僕もそれに準えて、言い返した。
姉さん、
俺は充分、姉さんは幸せだと思う。
君享さんと結婚できたし、君依と依世も産まれたし。
俺とも冬子さんとも違うけど、ちゃんと幸せだよ。
だからさ、もう、君依と依世を道具扱いするのは、やめてやってよ。
こんな本心を言ってたまるものか。それが僕のあの人にできる、せめてもの贐だ。
「文也くんの初恋の人ってどんな人?」
笑美子は時々、思い立ったように聞いてくる。だいたいが脈絡のない突然のものだ。
「私に似てる?」
そして答える前に、第二波も与えてくる。
「なんだよ急に。」
はぐらかしてへらっと笑うと、笑美子は僕を背もたれに、ぺったりとくっついてきた。
「あのね、初恋は実らないっていうでしょ? でもね、最終的には初恋の相手に似てる人を選ぶんですって。しかも性格とかじゃなくて、容姿が似てる人。本能的に選んじゃうみたいよ。」
きっとどこかで得てきたばかりの俗説を、得意気に話す。話半分に聞くつもりだったけれど、気づいたら記憶をたどっていた。そのなかで、笑美子に似てる人に心当たりは無かった。
「私が、最後のひとじゃないのかもね。」
あっけらかんと笑美子は言う。
「縁起でもねえな。」
僕はまたへらっと笑った。
俗説なんて信じるもんじゃない。それを大前提に少し考えた。
僕はこれから先、笑美子以外の誰かと恋に落ちるのだろうか。考えられなかった。だいいち、僕は一度でも、笑美子に恋を捧げたことがあったのだろうか。
『あたしなら一生、元希さんへの恋が続けられるもん。』
チズの言葉が今になって身に沁みた。
『私が最後のひとじゃないのかもね。』
笑美子の残酷な予言が、甘い誘惑にも悪魔の囁きにも聞こえた。
いつか、僕の前に現れるのだろうか。
白い肌と彫刻のような顔をした、背の高い、どこか影のある、初恋の相手に似たひとが。
そのとき、そのひとは僕にとってどんな存在になるのだろう。
急にいとおしくなった妻の髪を撫でると、同時に、彼女は「あ、」とテレビを指差す。その先にはなんとも奇遇なことに、あの人気俳優の姿があった。
「私、昔けっこう好きだったんだ、一ノ瀬成彦。結婚したときショックだったなあ、」
全然悔しそうじゃない口ぶりで、しみじみ言う。
「ここの夫婦ってね、作らないんだって、子供。親近感、湧いちゃうよね。」
今度は少し空元気に言った。
持たない、と、持てない、は違う。その差を親近感なんて言葉で埋めようとしている彼女に、心臓がぎゅうっとして、座ったまま背後から抱きしめた。
「なあ笑美子。……依世、貰うか?」
僕はもともと子供に未練なんて無いけれど、笑美子は違う。
こどもが好きで、人が好きで、ひとから愛される質なのに、たまたま産むことができなかっただけだ。
「姉さんから養子の話が出てるんだ。依世も、おまえになついてるし……」
「文也くんは私だけじゃ不服なの? 一生二人っきりなんて言ったくせに、傷ついちゃうなあ。」
話の途中で振り向いた笑美子は、僕の腕をほどいて、わざとらしく頬を膨らませた。
「なんちゃって、うそうそ。」
すぐ、いつもの顔つきに戻った。それからほんの少し真面目な笑顔で、ほんの少し低い目線から僕を仰ぐ。
「私、ぜいたくな女なの。文也くんと二人っきりで暮らして、時々依世ちゃんとも遊ぶ、今のこの感じがすごく幸せなの。」
「贅沢なんかじゃないだろ。もっと、欲張れよ。」
笑美子の頬をつねって僕は笑う。
「欲張ってるわ。私がどれだけ貪欲な女か、文也くんはまだ知らないのよ。貪欲で強欲で独占欲だらけだって、これからゆっくり思い知ればいいの。」
笑美子も僕の両頬をつねる。「頑固者、」僕が言うと、「分からず屋、」笑美子は言い返す。
僕らの争いはどうも殺伐にならないしくみになっていて、結局はなごやかに、ぽかぽかとしたいたちごっこになってしまう。
「私、依世ちゃん大好きよ。実の娘以上だとも思ってるもの。でも本当に親子なんかになっちゃったら、今度こそ本当に恨まれちゃうわ、」
なんだよそれ。おかしなこと言うんだな。いたちごっこの延長でへらっと笑う僕に、笑美子は目を細めた。
「文也くん、女に関しては女のほうが賢いのよ?」
妖艶に、でもあどけなく、どことなく母性的に。
まるで幼い僕が追い続けた、あの人のように。
「それに私たちにはこれがあるわ。私の一生の、宝物。」
妻のかざす左薬指で、プラチナの輪が光る。
これは証だ。子を遺せない僕と笑美子が、夫婦だった証。僕らが幸せだった証。
そして、僕とあの人の、消せない誓いの、証。
冬子さん
見て見ぬふりばかりして、ごめんなさい
俺が、歯痒かったですよね
兄を、愛したかったんですよね
ロロとキヌを殺したのはあなたなんですね
ごめんなさい
俺は都合の良い、きれいなあなただけを見ていたかったんです
好きでした
ずっとずっと好きでした
ガス抜き、させてあげられなくて、ごめんなさい
辿り真似るだけの俺を、赦してください
「金曜は駅で待ち合わせましょう。今週は焼肉屋さんがいいわ、冷麺食べたいの。それから帰りにDVD借りて、お菓子とかごはんも買い込んで、土日は一歩も外に出ないで、ごろごろするの。買い物はスーパーじゃなきゃだめよ。私の好きなカフェオレ、コンビニじゃ売ってないんだもの。DVD、何借りよっかなあ……。インディジョーンズとファミリーゲームがいいかな。あとクレヨンしんちゃん。文也くん、バイオハザードの最新作観たいって言ってたよね? 私、あれちょっと苦手。血とか出るんだもん。あ、そうそう。土日の間に、次の旅行の予定もたてなきゃね。次は温泉、絶対温泉よ。露天風呂がお部屋についてて、ご飯がおいしいところがいいわ。」
笑美子は育ちが良くて愛嬌はあるけれど、僕にだけは結構わがままだ。
予定より帰宅が遅れるとふて腐れたり、
自ら怖い番組を観ておきながら夜中トイレに叩き起こしたり、
同じぬいぐるみの色違いを、何個も欲しがったり。
僕にはこの我儘な妻が、愛しく誇らしい。
彼女の一生に振り回されよう。どんな我儘でもきこう。どこへ行くのにも手を繋ごう。
僕の人生は至ってふつうで、こんなにも幸せだ。