仲冬
「……ええ、そうです。☓☓町の公園で……ええ、ええ。……いえ、私が勝手にしたことですので……ええ……難しい年頃ですもの……ええ。……はい、お願いします……ええ……いえ、そんな。お気になさらないで下さい。」
冬子さんがチズの家と僕の家に、ほぼ同じ内容の連絡を入れているのが、断片的に聞こえた。
まずは無事なこと。発見した場所。ずぶ濡れだったので、とりあえずは入浴させたこと。僕らが難しい年頃であること。少し落ち着くまで大目に見てあげてほしい、ということ。明朝、必ず送り届けること。
そんな内容を、巧みな話術と祖母譲りの人当たりの良さで、うまくまとめていた。
正直僕だけなら最初から落ちついていたし、どちらかといえば被害者であるような気もしたけれど、チズを残して退散するのはチズに対しても、そして冬子さんに対しても薄情な気がした。
雨の公園で僕らを拾った冬子さんは、車に乗せてくれると二人の家には向かわず、『せきと』へと連れて帰った。
チズ、僕の順に浴室を使わせ、着替えを与え、温かいミルクを淹れてくれた。電話の声が聞こえたのは、チズが入浴中で、僕がストーブにあたっていたときである。
「おなか、空いたでしょう? それで少し、もたせてね。」
ミルクを運んですぐ、冬子さんは厨房へと消えた。二人で同時に啜るミルクは少し甘くしてあった。
「このにおい、シナモン、かな、」
車でも黙りっぱなしだったチズがぽつりと呟く。すっぴんになった彼女の眉毛は、半分無かった。
「チョコ……みたいなにおいもするね、」
「味も、少しする。」
「ホワイトチョコ、かな、」
「色、無いもんな。」
「うん。」
「俺、結構好き、これ。」
「あたしも、まあまあ、好き。」
どうでもいい会話は、僕らなりの現実逃避だった。
冬子さんが味方してくれたとはいえ、明日どやされるのは目に見えている。束の間の安息を、今は静かに共有した。
『せきと』は本日、休業日だった。
冬子さん以外の人影は見当たらず、彼女自身もあの公園前を通りがかったのは、用事からの帰りだったらしい。
閑散とした店内で、冬子さんは二人分の夕食を拵えてくれた。
「おまちどうさま、」
いつもは父と並ぶカウンター席にチズと座るのは、妙な気分だ。
ミートボールと茄子のケチャップ炒め、きのことズッキーニのガーリックソテー、マヨネーズで味つけされたツナサラダ、白菜と卵の味噌汁、冷奴のアボカドのせ。若い僕らの舌に考慮してか、普段『せきと』では見かけない品が多く並ぶ。
そういえば、物凄くおなかが空いた。
「よかったらこれも、」
最後に並べられた筑前煮を合図に、冬子さんは召し上がれを言ってくれた。
僕とチズは一心不乱に食べた。どれも間違いなく美味しかったのに、味わう余裕なんてとても無かった。結局僕もチズもごはんと味噌汁を二回ずつおかわりして、おかずはすべて綺麗に平らげた。
「作り甲斐があったわ。」
冬子さんは食後に番茶を淹れながら笑った。
「……ごちそうさま……でした。」
チズに先を越されたのは予想外だった。
「その、すごくおいしかった…です。」
たどたどしくお礼を言う。僕はチズよりもはっきりと「ご馳走様でした。」を言った。
「お粗末様でした。」
冬子さんは丁寧に品良く、でも優しく返してくれた。
それから、チズだけを見据えて、
「元希さんね、お付き合いされてる方と喧嘩したんですって。」と、穏やかに微笑んだ。
「えっ、」
チズの目が丸くなる。
「あなたたちがいなくなって、挨拶どころじゃなくなったから日を改めてほしいって言ったら、怒らせちゃったみたいよ。」
くすくすと少女のようにあどけなく、でも母性的に笑う。
「チズちゃんの勝ちよ。よくやったわね。」
そして最後に、彼女を賞賛した。
隣を見ると、チズはぽろぽろと涙を落としていた。
栓が抜けてしまったみたいに涙は止まらない。
あらあら、まあまあ。冬子さんは手巾をあてがいながらチズを撫でた。
とたんに表情も崩れ、うええん、うええん、と声をあげてチズは泣いた。
子供みたいに一頻り泣いた。
「フミ、起きてる?」
襖を隔てて声がした。寝たふりをしようと思ったけど、怒られそうなのでやめた。
「ああ。」
「あたしが泣いたのバラしたら、ひどいからね、」
寝たふりをしなくても怒られた。言うわけないだろ。枕に顔を埋めてなげやりに言い返した。来客用の枕からは、ほんのりと芳香剤のにおいがする。
「なんかさ、修学旅行みたいだよね、」
さっきまで泣きじゃくっていたのが嘘みたいに、チズは嬉々と声を潜めた。
冗談じゃない。こっちは巻き込まれて散々なんだぞ。言い返そうとしたところで、今度は声を被せてきた。
「あたし、やっぱりあの人嫌い。」
この期に及んで女の子ってくだらないな。普段の僕なら言っただろう。でも、チズの語調はいつもと少し違った。
「思い知らされちゃうよ、あんなの。」
チズは身勝手で、感情的で、ませてて、ひた向きで、めざとい、女の子らしい女の子だ。
でも今の彼女を、くだらない女子達の一部として片づけるのは、些か軽率な気もした。
「あたし絶対、元希さんに好きになってもらうんだ。」
次第に意気込んで、明るくなる。
「今の相手なんて時間の問題だよね、きっと。あんなことで喧嘩しちゃうなんてさ。あたしなら一生、元希さんへの恋が続けられるもん。」
最後のほうは笑っていた。
ほどなくして声は寝息に変わり、暗闇に僕だけが取り残された。
あんなに疲れていたのに眠れない。雨がやんで、怖いくらい静かだ。
冴えた目で部屋中を見渡すと、障子の向こうがぼんやりと明るい。障子の先は縁側を挟んだ庭だった。灯りは、庭を囲む生垣の更に奥で点っている。
飛び石を辿れば、生垣の向こうへ行けそうだ。
忍び足で玄関から靴を運び、縁側から外へ出る。灯りに誘われて飛び石を歩いた。
飛び石はやはり、あの庭に続いていた。
「あら、フミちゃん。」
子供の頃、夢中で通った兎の庭だ。
あの頃と同じように冬子さんは兎を抱いて、そこに居た。
「眠れないの?」
寝巻にショールを羽織った冬子さんはいつも以上に艶っぽくて、あの頃みたく気さくに声をかけられそうにない。ただでさえ、このシチュエーションも何年かぶりだ。
「なんだか懐かしいわね。」
僕の緊張をよそに、冬子さんは口元を綻ばせる。その仕草も表情もあの頃のままで、僕はこの上ないくらい安堵した。
「俺、久しぶりで嬉しかったです。」
胸を撫で下ろしたとたんに、夕食時に言いそびれてしまったことを告げた。
「筑前煮、おいしかったです。」
先ほど食卓に並んだのは、あの、やたら甘い煮物だった。
そのあとは、兎を撫でながらたわいない話をした。
外灯なんて付いてたんですね、ここ。
付けたのは最近よ。私の、わがまま。
ロロの毛色、少し薄くなりましたね、
ああ、この子たちね、二代目、なの。
二代目?
「兎の寿命は長くないって知ってるくせにね、私。先に死ぬってわかっているのに、どうしても飼っちゃうのよね。」
もう、僕の知っているロロとキヌはいないことを、冬子さんは伏し目がちに教えてくれた。
ところが突然、ロロを目線の位置まで抱き上げ、ぬいぐるみで遊ぶかのように手足を玩びながら、「でもガス抜きは必要なのよ。」と、いたずらに笑った。
冬子さんって、そんな子供っぽいことしましたっけ?
ふふ。
……なんですか、
フミちゃんこそ、敬語使ったり、「俺」だなんて、へんなの。
この人にとって僕は今でも、ランドセルを背負った「フミちゃん」らしい。
僕が『せきと』でアルバイトをするようになったのは、それからすぐのことだった。
あの夜、冬子さんは近況を教えてくれた。
『せきと』自体の客足はお陰様だが、女将である祖母の透析通いにより、営業時間に制限がでてしまったこと。もともと祖母が趣味半分で始めたような店だし、母と二人では回しきれないだろうから、畳んでしまおうかという話が出ているということ。
「俺、手伝います。」
後先考えず衝動的に言ってしまった。
冬子さんは真に受けず、くすくす笑っていたけど、僕があまりにも食い下がるものなので最終的には、「朝丘さん(両親のことだ)と元希さんのお許し」を条件に、受け容れてくれた。
兄を条件に加えるあたり、冬子さんは意地が悪い。我が家では親よりも兄のほうが僕の躾に厳しいことを、彼女は把握していたのだ。
堅物な彼は、自分は家業を継ぐ将来が確定していたにも関わらず、学生時代は文武両道を貫いた。僕がそこそこ偏差値の高い高校に入った背景にも、兄の影がある。
僕は入学後最初のテストで、上出来な結果を出してから兄を説得した。
意外にも、許可はすんなり下りた。よくよく考えてみれば容易いことだ。成績さえ良ければ行動を制限されないし、幼少時代から女に権力を握られているような僕には、悪い遊びに誘う仲間もいない。僕は思う存分、『せきと』で働いた。
働くのは楽しかった。
食器洗い、掃除、力仕事など雑用がほとんどだったけれど苦ではなかったし、給料も高校生にしては充分だったし、テスト前には休みを貰えるなど、時間に融通も利いた。
客の「バカな男」達も人だけは良い連中だったし(頻繁に訪れる父には目を背けたくなったけど)、仕事上がりに食べる賄いも、店や時々庭ですごす冬子さんとの時間も楽しみだった。
この頃から、若女将さんが女将、冬子さんが若女将と呼ばれるようになっていた。
そういえば、働き始めて一つだけ予想外だったことがある。
女将さん……つまり冬子さんのお母さんが、とても優しかったことだ。それは僕や客相手にだけではなくて、冬子さんに対してもだった。
勝手な意見だが、外面の良い人間は身内に厳しいという法則が、僕の中にある。
でも女将さんは冬子さんをまったく叱らない。営業後に反省もさせないどころか、営業時間外では仕事の話なんて一切しない。無論、それは無関心や愛情不足とも違う。
「だって私、養子、だもの。」
働き始めてもうすぐ三年。進路も決まり、来月には上京することになった僕の最後の出勤日、営業後に二人きりの、ささやかな祝杯を挙げてくれた冬子さんは、突然打ち明けた。
「それ、俺に話していいんですか、」
「あら、フミちゃんだから話したのよ。」
冬子さんの表情に陰りは無かった。深刻、といった雰囲気もない。内緒の話ね、という好奇心をあおるような物言いだった。
自分でも不思議なくらい驚かなかった。むしろ納得できたくらいだ。それならば彼女が十代半ばにして、器量良しの母親よりも優れた美貌を持っていたことに、辻褄があう。
「母はね、私を愛するために育てたの。私も、母に応えてるの。」
たしかに女将さんの優しさや甘さに関係無く、冬子さんには叱るべき非も、改善させるべき欠点も無かった。
彼女はどんな場面においても、品良く慎ましい自慢の「娘」だった。僕を含むバカな男達が夢中になった、完璧な女性だった。
「私、母の子になれて本当に幸せだったわ。だからね、私、子供は絶対産まないの。」
血の繋がった家族の愛し方なんて、知らないもの。深いまばたきをいくつかしながら、冬子さんは穏やかに言った。
「結婚も、しないんですか、」
「かもね。」
「もったいないですよ。」
すかさず言い放った僕の真面目な顔つきに、冬子さんは一瞬目をまるくしたけれど、やがて、あらまあ、と吹き出した。
「そうねえ。一生二人きりで、いろんな所に遊びに行って、いつまでも私の我儘をきいてくれて、どこに行くのにも、おじいちゃんとおばあちゃんになっても、手を繋いでくれる物好きな人がいたら、するかもしれないわ、結婚。」
「俺は結婚って、本来そういうものだと思います。」
また咄嗟に口走ってしまったが、それは彼女を持ち上げるための同意では無く、僕の本音だった。
僕には、女性の結婚に対する姿勢というか、捉えかたが理解できない。
女性の、というより、身近にいる二人の女に、だ。
姉はいわゆる「授かり婚」だったし、チズは夢の最終目標として、結婚を目指している。
まだ二十年も生きていない男の僕が生意気を言うようだが、結婚は切望するものではないと思う。かと言って、子供ができたからやむを得ず、というのも違う気がする。
そうなると冬子さんの考えている、一生寄り添える縁があるのならば、というのが一番しっくりくるのだ。
「冬子さんはふつうですよ。我儘でも、物好きでもありません。」
だから本音だった。盲目のつもりもない。僕は冬子さんの姿勢や価値観が好きで、少なくとも自分と彼女の間でだけは、その考えを正当化したかったのだ。
「そういうところ、打算的よね、フミちゃんは、」
打算的。しっとりと流れたその言葉が、艶を帯びて耳に浸透する。
冬子さんは穏やかに続けた。
「人から愛される質なのに、愛してくれた人を幸せにしないでしょう? 自分だけちゃっかり幸せになっちゃうのにね。ひとでなし、なのよ。」
冬子さんの『どこか違う』部分が久しぶりに垣間見た。
意味深というか、哲学的、のような。僕もある程度おとなになった気でいたけれど、彼女のこういった所を理解できるほどまだ賢くはなかった。
ひとつだけ言えるとしたら、「ひとでなし」という表現に、少なくとも好意的な意味は無い。
「人でなし……ですか、」
落胆を隠しきれずに呟くと、冬子さんはくすくすといたずらに笑って否定した。
「あら、褒めているのよ。フミちゃんって本当に、優しくて良い子。」
撫でようと伸ばしてきた白い手を、軽く頭を振って拒絶した。
「子供扱いしないでください、」
「子供でいてほしいのよ。今のフミちゃん、大好きだもの。」
冬子さんは、たぶん、信じていない。
僕がどんなに彼女の意見に賛同し、本音だと言い切っても、この人には子供の背伸びか夢言にしか届かない。
僕はあと二年もすれば、法的に大人に成る。
来月にはこの田舎を出る。
数年後には働き出す。
その中で、数えきれない出逢いがあるのだろう。
誰かと恋に落ち、今こうして冬子さんに同意した理想の未来なんて、きれいさっぱり忘れるかもしれない。
冬子さんはそんな、現実的でありきたりな僕の成長を見透かしているのだ。
僕だって心底否定できるわけじゃない。現実的である分、ありきたりな分、自信は無い。それはとても悔しかった。
「俺、実現してみせますよ。」
だから断言した。
「冬子さんのいう、一生二人きりで手を繋いで、我儘に振り回されながらたくさん遊ぶ、物好きな関係を築いてみせます。俺はその生き方を、一生ふつうだって言い張りますよ。」
正当化したかった。彼女の価値観を、賛同する自分を。
そしていつか目が醒めてしまわないように、予防線を張っておきたかった。
「だから好きよ、フミちゃん。」
東京でも頑張ってね。冬子さんは両手で僕の頬を包み、額同士をこつんと当てて微笑んだ。
今度は拒絶できなかった。死ぬほど恥ずかしかったけれど、突き放してしまったら、もう二度と、この白い指にも手にも腕にも、触れられないような気がしたんだ。この人には敵わない。
「……いってきます。」
二度目の別れは間違いなくこの日だった。




