クリスマスのばかやろう ~名店Xの接客録~
私が勤務しているフレンチレストラン(仮に「名店X」としておこう)は、実に創業60年を数える老舗である。
長い歴史を持つ飲食店には、さまざまなエピソードがあるものだ。良きにつけ、悪しきにつけ。
その一つを従業員の私、大野京子が紹介しようと思う。私にとって、名店Xで起きたエピソードの中でも、「最悪」のものの一つだ。
◇
「ケナゲさんから、今年も予約がありました」
予約電話を受けた従業員の声に、開店準備中の店内がざわついた。
「ケナゲさん」とは、この店のかなり特殊な常連さんだ。
見た目は30代後半、身長180センチほどのすらりとした体型で、ダブルのスーツを着こなしている。カップルで満席の店内でも、決して浮くことのない紳士然としたイケメンだ。
ケナゲさんは、毎年クリスマス・イブの夜に2人分の予約を入れてくる。
来店すると、テーブルの上に真っ赤なバラの花束を置いて。いかにも愛する恋人に、情熱的なプロポーズを決めそうな風情で待っている。店の窓からは、緑や赤にライトアップされた東京タワーが間近に見える。
厨房では、愛し合う二人がそろうのを、当店自慢の料理たちが今や遅しと待っている。
しかし来ないのだ。ケナゲさんのテーブルには愛する彼女は、一向に姿を現さない。恋人にすっぽかされたのかと、ほかのテーブルではヒソヒソ話も広がる。私も冷や冷やしながら見守っていた。
ただ、そんな悲劇も1度だけなら「イブにかわいそうなイケメンがいたね」といっとき話題になるだけだっただろう。
しかし、ケナゲさんの「一人きりのイブ」は、毎年続いた。恐ろしい話だ。予約を入れては、待ちぼうけ、の繰り返し。
「本当に誰かを待っているのか」
「もしかして、妄想に取り付かれた『変な人』なんじゃない」。
従業員の間でも、さまざまな憶測が飛び交った。ともかく20席ほどがすべてカップルで埋まる店内で一人、何時間も待ち続ける気持ちは察するに余りある。「クリぼっち」の最終形、マゾ的な行いだ。
予約のときには「林田」と名乗っているが、見ていて切なくなる健気な様子に「ケナゲさん」のあだなが、すっかり定着してしまった。従業員はもちろん平静を装ってはいるが、それとなく好奇と疑惑の視線をケナゲさんに向けてしまうのは、無理からぬことだった。
そしてついに、5年目となったクリスマス・イブの夜。
入り口のガラス扉の向こうにケナゲさんが現れると、私は心の中で「今年も来た!」と叫んでしまった。
ケナゲさんを見るのは、これで5回目。つまり28歳の私も、毎年クリスマス・イブを良い人と過ごすこともなく仕事で潰してきたというわけだ。彼氏がいる他の従業員に「私、予定がないから」と宣言して、率先してシフトに入って、親切な先輩のふりをして。そんな自分自身の遍歴を思い出して、軽く絶望する。
「クリスマスのばかやろうっ」。私は内心でそう毒づく。お店はかき入れ時でも、本当は彼氏がいれば一緒に過ごしたい。しかし春に始まった恋も、毎年クリスマスにはすっかり溶けきっているのだ。
テーブルに案内すると、ケナゲさんは過去4年と同じように「人を待ってるんで、来たら料理を運んでください」と言った。2人分、合計2万6千円なり。多分、食べられることのない料理。
案内を終えると、フロアの隅に立っている同い年の従業員、吉田友美と目があった。
彼女も、ケナゲさんの動向が気になっているようだ。私は友美に近づいて、店の奥の柱の陰へと誘導。こっそり報告した。
「今年も『人を待ってる』だってさ」
客席からは見えないのをいいことに、友美がべえっと舌を出す。
「バカな奴。毎年お金を無駄にしてさ。そんなら、料理代を私らに寄付しろっての」
客商売なのに、口が悪いと思うだろうか。いやいや、友美は壮絶な体験を経た、私の「同志」なのだ。
数年前、友美を悲劇が襲った。「立てないくらいの風邪」を理由に、彼氏からクリスマス・イブのデートをドタキャンされた。友美が不審に思い、彼氏の部屋に合鍵で入ってみれば、サンタとトナカイよろしく、彼氏が見知らぬ裸の女の上に馬乗りになっていた。呆然とする友美に、彼氏が女の腰をつかみながら発した一言、「メリークリスマス」を彼女は、生涯忘れることがないだろうと言う。
その話を飲み会の席で聞いたのは、何年前のことだったろうか。以来、友美はクリスマス・イブには怠ることなく、京子とともに仕事に励んでいる。
ケナゲさんは、水だけを飲んで、ぼんやりと夜景を眺めている。にぎわう店内で、毎年のこととはいえ一人で緊張しているのか、ケナゲさんのコップの水かさはすぐに減っていく。
友美はケナゲさんを「怪しい人」と思っているようで、あまり近寄らない。自然、私が水を注ぎに行くことが多くなる。
私は水差しを手に、テーブルに近づいた。ケナゲさんが見つめる先では、東京タワーが相変わらず色とりどりのライトを光らせている。
ぽつりとケナゲさんが唐突に言葉を発したのは、私がコップに水を注ぎ終えようか、というタイミングだった。
「東京タワーとクリスマス・イブは、切っても切れない縁があるんです」
私ははっとして、言葉を返していた。
「それは、その、赤と白で塗り分けられているからですか」
ケナゲさんは、ゆっくりと首を振る。
「つまんないことなんですよ」と前置きをして。
「東京タワーが完成して、初めて一般公開されたのが60年前。1958年の12月24日なんです。当時はクリスマスを祝う習慣って、日本にあったんですかね」
笑うと、少し若く見える。実は20代後半くらいなのだろうか。私は60年前の日本なんて、全くイメージがわかず「そうですね……どうなんでしょう」としか答えられなかった。
「申し訳ない。余計なことばかり考えてしまった」
本当に一人の気まずさに耐えかねてといった様子のケナゲさんに、私は思わず笑ってしまった。
「ワインはいかがですか?」
ケナゲさんは、手を小さく振った。
「いえ、僕は許しを待っている身だから」
「許し? それはキリスト教的な……例えば神様の?」
クリスマスにあまりに場違いな「許し」の意味が分からず、思わず聞いてしまった。客の身の上に踏み込むことは、普段は決してしないことなのだが。
「いえ、そうじゃありません。人からの許しを待っているんです」
ケナゲさんは、ふうとため息をついた。
「まあ、寛容な神様なら、もっと早く許してくれたのかもしれませんけど。僕はかつて、それだけの大きな過ちを犯してしまった」
ケナゲさんの目元に、うっすらと涙が浮かぶ。
私が言葉に詰まっているうちに、隣に誰かが立った。
振り返ると、前菜の皿を手にした友美だった。
5年間、ケナゲさんのテーブルに、一度も運ばれることのなかった料理だ。
なぜ? まさか、待ち人がついにやってきたのか。
私は店内に目を走らせた。変わった様子はない。
友美は静かに二人分の前菜の皿をテーブルに置くと、
「お食事の邪魔になりますので」
と言った。
空になった腕で、テーブルの上の花束を抱きしめるようにすくい上げた。
友美が小さくつぶやく。
「5年間も。毎年。ばかやろう」
クリスマスツリーの先っぽで輝く星のような笑顔が、不安げだったケナゲさんの顔に広がった。
ああそうか。ケナゲさんは友美に、クリスマス・イブの過ちを無言で謝り続けていたのだ。
毎年。
来年のイブ、ケナゲさんは店に来ないのだろう。そして友美も。
ああ、もう。最悪だ。クリスマスのばかやろう。