死ぬのなら貴方のそばで
日ごとに曖昧になる記憶の中から、彼女の事を思いだす。果たして、彼女は私で良かったのだろうか。
何度も問い何度も笑って大丈夫ですよと返された。不安になった私を慰める為の言葉。我ながら情けないと知りつつも、その只の言葉にすがり続けながら生きてきた。
妻が息を引き取ったのは、孫が生まれてから二年ほどしてからだった。その二年。私は妻の変調には気づかなかった。妻はいつもどおり私の世話を焼き、家の用事を片付けていた。その事に安心していたのかもしれない。私は妻の体調を気に掛ける事なく、ただただ変わらない毎日を過ごしていた。
妻が病気だったと知ったのは、彼女が倒れ、既に手遅れの状態になってからだ。少しの入院生活を過ごし、妻は私に見送られながら、あっけなく死んだ。延命処置など一切せずに、あっけなく。
抱きしめると、慈しむように私を抱きしめ返してくれる、優しい女性だった。
「お祖母ちゃんはどんな人だったの?」
そう孫の愛に尋ねられた。読んでいた新聞から目を離し、愛を見る。座っていたソファーが、小さくぎしりとなる。愛は妻に良く似たふわりとした黒髪を揺らし、大きな丸い目で私を見つめていた。その目は、好奇心に駆られた妻が見せていた目だ。うつ伏せになった小さい体の前に、私と妻が映ったアルバムが広げられている。私と妻が初めて出会った頃の写真が入ったページだ。
「覚えていないか? 確かに、まだ二歳だったからな」
「七年前でしょ? 覚えてないよ、そんな小さい時の事」
ねー、ボクジュ、といって愛は隣で寝そべっていた猫の背中を撫でた。猫は、こそばゆそうに背中を反らして、孫を一瞥した。艶のある黒毛を舐めて、また元の体勢で寝そべる。酷く億劫そうにしている。
ボクジュは愛が拾ってきた猫だ。黒い毛に映える桃色の鼻。その鼻の黒い点が墨汁を垂らしたようだという理由で、ボクジュと名付けられた。とは言え、トイレの世話も、餌の世話もある事情で殆ど私がやっている。
「そもそもボクジュはその頃いなかったからな。愛は、お祖母ちゃんに抱っこしてもらうのが好きだったんだ」
覚えてないと、愛は少し上を向いてから言った。
大きくなっていく愛を抱きかかえながら、妻は、体を鍛えなきゃね、と朗らかに笑っていた。あの頃にはもう、病魔に侵されていたのか。
「お祖母ちゃんはそうさな。独断と思い込みと決めつけが特徴でその上顔のいい男が好みの優しい女性だったよ」
「優しいの後づけ感がすごいんだけど」
「情緒不安定で自分の発言に責任を持たない所もあった」
「私のお祖母ちゃんろくでもないね」
愛が呆れたように目を細める。開いているページの妻の顔を指先でとんとんと叩いている。写真に写るまだ若々しい頃の妻は、右手に赤ワインの入ったグラスを持ち笑顔を浮かべている。その妻を挟むように私と、顔の整った男がいる。若干妻とその男の方が距離が近い。
「写真では、良いとこのお嬢様って感じ。もしかしてこれ馴れ初め? このイケメンは誰?」
訪ねてくる愛に、私は苦笑いする。話そうか、と一瞬、目を閉じた。曖昧で、セピア色になっていく記憶の中でも、初めて出会ったあの日のことは鮮明だ。彼女の色を。声を。瞳を思い出す。彼女に出会ったその日から、飢える様に人を求める心を。満たされない事の苦しみを。
狂おしい程に人に愛してほしいという願望を、教えられたのだ。
その日は友人の披露宴だった。広い会場に新郎新婦の友人、親戚一同が集まっている。その中で私は、同じテーブルに座るもう一人の友人と共に、用意されていた赤ワインを飲んでいた。
「あいつも、とうとう人生の墓場に足突っ込むのか」
ぼそりと、隣に座る愁がつぶやいた。くっきりとした、熱量と深みを持つ目で、何処かしらをぼぉっと眺めている。茶色い地毛を揺らし、顔を赤らめながらあまり減っていない赤ワインの入ったグラスを片手に持っている。整った顔立ちのそれは、男の自分からしても色気が感じられる様なものだ。謎の魅力というものだろうか。その目線は壇上に並んで座っている新郎新婦へと向けられていた。その二人は、誰が見ても輝かんばかりの笑顔を浮かべている。僕達は、新郎の友人として招かれていた。他の友人達は思い思いの場所にいる。
「なんにしろ、埋まれる場所があるってのは良い事だろう。お前みたいに女の手で死体にされそうな奴と違って」
俺は自由に生きたいんですー、と愁は皮肉気に笑った。その笑い方さえ絵になる男だ。この顔に騙された女性は数多い。先程も新婦の友人の席を回っている最中に、新婦の友人と連絡先を交換していた。結婚式に何しに来たのかと思う。男女が永遠を誓う席で、女性と軽薄な関係を結ぶ。何とも不謹慎な男だ。そう思いながら、今までの人生で最高潮の幸せを迎えているであろう新婦を眺める。白いウイングドレスを着た彼女は、以前新郎に写真で見せてもらった姿より、一段と煌びやかだ。その姿を見て、僕は目を細める。
「どうして結婚するz日の女性は、あんなにも美しくなるんだろうな」
「そりゃお前、結婚式用に格別綺麗に見える様にお化粧施してるからだろ?」
隣の愁がまた夢の無い事を言う。もっと、情緒深い感想を述べる事は出来ないものなのか。
「あとはあれだ。墓場に一緒に入っても良いってくらい惚れた男と永遠を誓うんだから、さいっこうの幸せオーラを出して当然ってもんだろうが」
更にこんだけ色んな人に祝福されてたら嬉しいもんだ。そう言い気持ちよさそうにワインを飲む彼を見て、成程そういうのが女性に効くのだろうかと思う。酷くキザだが。字面にするととても軽薄だが、この男が言うとその言葉に説明しがたい熱が乗る。本人にとってどうかは限らず、そう聞こえる。愁と交際していた何人もの女性は、見かけるたびに幸せそうな顔をしていたのを思い出す。
会場の扉が開いた。そこから若い女性が一人入ってくる。――一瞬式場中の目線がその女性に惹きつけられた。
女性は物怖じすることなくそのまま真っ直ぐに、新婦の元へと向かう。両手を合わせて、何か喋っている。新婦は、その入って来た女性ととても親しげだ。遅れてきた友人、だろうか。ぼぉっとしていると、愁がワインを持ったまま立ち上がった。にやりとして、その女性を見ている。よく見る、捕食者を思わせる目だ。
「ちょっくら声かけてくる。かなり可愛い子っぽいしな」
やっぱりか、と呆れる。好みの女性を見れば、愁は直ぐに唾を付けに行く。幸せな時間を過ごした女性は多いが、泣かした女性も同じ数だけいるのがこの男だ。小学校からの長い付き合いで、何人もそういった女性を見てきた。全くと思いながら自分も席を立つ。
「何、お前もあの子狙うの? あげねぇぞ?」
「何をもう自分の物にした気になってるんだ。違う。僕はまだ新婦とまだ挨拶をしてなかったからな。ついでだ」
愁は知らないうちにさっさと挨拶を済ませていたようだが。気づけば新婦友人の席に一人取り残されていた。
新郎新婦の席に近づいて行くと、新郎が愁を見て露骨に顔をしかめた。遅れて来ていた女性も、後ろに誰かいるのかと此方を振り返った。その女性と、私の目が――合わなかった。女性は私の少し前を歩いていた愁の方に真っ先に視線をやっていた。観察するように眺めている。
「愁、お前また来たのか。家の嫁さんをまだ口説き足りないのかよ」
「や、あんまし綺麗だからつい。口説くっつっても一緒に今度お茶しませんか? って聞いただけだろー?」
それが口説いてるって言うんだよ、と新郎が言う。そんな事をしていたのかと呆れる。愁には毎回呆れっぱなしだ。不謹慎極まれる。
「略奪は好みじゃないねぇ。やっぱりちゃんとした愛が無けりゃぁ。だからまずは勝手に惚れさせる所からだな。それなら過失もなしでオールオーケーだ」
「それを略奪って言わず何て言うんだよ」
そりゃまぁ、その気が無くとも惚れさせる男の罪って言うか、色気により産まれるピンク色の悲劇というか。と愁は割と本気の様子で言う。
僕と愁の共通の友人である新郎は、愁のこういった所は慣れたものなので苦笑いをしているが、何も知らない新婦はどこまで本気なのかと困惑している。それでも愁の容姿と、言葉に乗る力強さのようなもので、照れている様子だ。その顔の赤らみは、若干量摂取したアルコール分と結婚式による興奮のせいだと思いたい。そうでなければそれこそ昼のドラマの様な事態になるだろう。
あの、と、置いてけぼりにされていた女性が声をあげた。新婦もそれに気づいたようで、ごめん命と声を掛けた。女性は命と言うらしい。愁は彼女目当てでこの席まで来たというのに、今思い出した様にそちらを向いた。基本的にその場の気分で動く男だ。
「ミコトさんっていうんですかぁ。感じでいのち? 良い名前だ。生命そのものを一文字で表す名前。これ以上壮大で深い意味のある名前は無い。とても素敵だ。命さん自身も、今日の主役の花嫁に負けないくらい可憐な方ですね」
本当に、よく回る。酒に弱いくせに飲むから、いつも以上に滑りが良いようだ。滑り落ちてくれないものか。
彼女も愁の調子に驚いているのか、何も言わずじっと愁の顔を見詰めている。いや、女性が初対面で愁の顔を凝視する事はよくあるが、彼女のそれはどことなく趣が違う気がする。口元がにやけている様には見えるが。
しかし、愁のその発言も頷ける程に、命と言う女性は目を惹きつけた。まず印象深い目をしている。式場の光を白く反射しながら今は愁を向いているその目は、酷く真っ直ぐだ。並みの女性ならもう少し目が動揺しそうなものだが、彼女は一切ぶれることなく愁の顔を見ている。口元はともかく。整った顔立ちは勿論の事だが、それ以外を自分が見る事が許されないと感じるほどに目へと目線が持って行かれる。そう、印象深さという点ではある意味愁の目と似ているかもしれない。
服装は派手さは無いが目に映える黄色のドレスを着ており、所々にある装飾品から、良い物だと分かる。スタイルも恐らく優れているのだろう。胸部が程よく膨らんでいる。そこよりも、やはり目の印象の方が大きいが。腰まで伸びているふわりとした黒髪は女性らしさを際立たせており、香りが漂ってきそうだ。
横からの僕の観察する目に気づいたのか、彼女は愁から目を離し僕の方を見た。愁は自分の言葉への反応が殆ど無いためかきょとんとしている。そっけない対応をされることに慣れていない奴だ。
彼女は一瞬僕を強く見つめて、そしてまた愁を見た。その一瞬で、僕の心臓の裏側にまで舌が入り込んだような錯覚を感じた。それほどまでに正面から見る彼女の目は強烈だった。内側を見透かされるという表現では生温い。呑み込まれて咀嚼されるような。愁を見ている時は光を反射していた目は、正面からだと光を反射しない、黒い光のような瞳孔だった。目の内側に吸い込まれながら向かっていくようで、此方に入り込んでくるような。外からも中からも浸蝕されていく気分。決して不快ではなく、寧ろ。
愁が見られて熱を与えられる目なら、彼女の目は内側から貪り食い尽くし更に咀嚼するような目だ。
ほんの一瞬でこれだけの感情を彼女は僕に与えた。彼女自身は何度か目を動かしながら僕と愁を見比べている。
愁と一緒にいると偶にある事だ。違いを確かめるような、比べるような挙動。慣れたものだ。大抵は愁を見て目を輝かせ、僕を見てこんなものだよねという目になる。その点に関しては、自分が酷く卑屈になっている気がしないでもないが。慣れたものの、筈だ。
女性にされる挙動としてはよくある事なのに、自分がいつも以上に卑屈になっている気がする。彼女の瞳のせいだろうか。
「まぁとにかく、お近づきの印に一杯どうぞ。命さんの為に用意したんです」
彼女の見比べ運動にしびれを切らしたのか、らしくなく早口で顔をほんの少し強張らせて言う。そのまま命、さんに先程口をつけてそのまま持ってきていた赤ワインが入ったグラスを薦めた。女性を酔わしてお持ち帰りをするのもこいつの常套手段。愁に薦められると、男でも泥酔状態なのにあれよあれよと飲んでしまう。愁自身は一口二口で顔が赤くなると言うのに。
「わ、いいんですか? 急いで来たから喉乾いてて。頂きます。お優しいんですね」
初めて彼女がまともに言葉を発した。目の力とは裏腹に、少し幼さの残る、丁寧で柔らかい口調だ。違和感等は無く、確実な好印象を残す、聞きやすい声をしている。
彼女はそのまま愁に渡されたワインを口に含んだ。形の良い桃色の唇がワインを口の中へと運び込み、白く細い、汗がうっすらと浮いている喉がこくりと隆起する。黄色いドレスを押し上げている形の良い胸部も、それに合わせて微かに上下し。
そこまでを目で追って、何を馬鹿なと思う。一体何故たかだか初対面の女性が飲んだワインをここまで目で追うと言うのか。僕は彼女から目をそらし、軽く愁を睨んだ。別段、彼女と間接キスをさらっとした事に怒ったわけではない。嘘をついた事を咎めただけだ。
「命ちゃん気をつけなよ。そこの愁って男は女の子を騙して取って食って捨てちゃっても何の罪悪感も沸かないような奴なんだから。気を許さないのが吉だよ」
そう新郎が少し冗談めかして彼女に声を掛ける。新郎は前から彼女と知り合いだったようだ。新婦の影響だろうか。新婦も新婦で苦笑いをしている。
「誤解を招くような事言うなよ。俺は毎回ちゃんと正直に女の子に向き合って、ちゃんと正式にお付き合いしてお互い幸せになってから、女の子から離れて行くってだけなんだから」
「わぁ、愁さん最低ですね。イケメンでも許されない所業じゃないですかそれ?」
「お、命ちゃん思ったより毒はくねぇ。いいねいいね可愛いね。でも嘘だから。新郎さん俺に嫁さん口説かれたから嘘付いただけだから。本当に最低かどうか実際に付き合ってみたら分かるよ?」
愁がまた軽い調子でそんなふざけた事を言う。命、さんと言い、打ち解けるのが随分早い。愁もさんづけがもうちゃん付けになっている。二人は気が合うという事なのだろうか。僕に至ってはまだ彼女に名前すら伝えていないのに。というか新婦に挨拶に来たのにまだ一言も発してすらいない。空気以下だ。
「あー! 良いんじゃない命? イケメンが三度のご飯より好きだって言ってたじゃない。イケメンほど見るだけで幸せになれる存在はいない。正に神が創りたもうた造形美そのものだーって頭の可笑しい事言うくらいだし」
新婦まで悪ノリしている。やはり顔が赤いのは酔っているからだろう。そんなに飲んではいけないと言うのに。
新婦のその言葉を聞いて、途端に命が力説しだした。
「ふふふ、正にその通りだよお嫁さん! イケメンはもうね、存在してるだけでいいの。それだけで幸せを振りまいてるの。男性でも抱かれたいと思う男性こそイケメンでありそれすなわち万能の愛の結晶なのです。ただし生活力と旦那力は低そうなので子種さえ提供してくれれば可! イケメンの子どもを育てたい!」
力のある目に更に力を込め、その上全身と声にも力を入れて正に力説している。もうワインが回ったのだろうか。しかし、やはりかと思う、ここまで好きだと明言しているのなら、どうなるかは想像が付く、
じゃあ命ちゃん連絡先教えてー、と言う愁に彼女も軽くいいですよーと応じる。まぁ、当然だ。よく見る風景だ。つまりいつものことだ。感情がどうこうなる事ではない。そう思いながらもう新婦への挨拶はどうでもいいから席に戻って酒でも飲もう。熱燗があるといいなと戻ろうとした時。
「あの、すいません。お名前教えて頂いてもいいですか?」
そう命、さんから初めて声を掛けられた。突然意識を向けられたせいで、声が出なくなる。驚いて、驚いて心臓が跳ねる。その上彼女の目と真っ向から向き合ったせいで体も目も何もかもが固まってしまった。
「……そいつはね、孝っていうんだよ」
気を利かせたのか、愁が代わりに応えてくれた。何処か、不機嫌な声で。
孝さん。彼女は発音を確かめながら、唇を動かし。空気を震わせる。それだけでも、僕の背筋の内側から熱が線をなぞる。いい加減自覚しろと言うように。
そして彼女は目をそらし、ワインをぐっと飲み干してから、見るからに投げやりにこう言った。
「私と、結婚をしてくれませんか?」
「初対面で結婚の申し込みって、お婆ちゃん頭可笑しい人だったの?」
「うん。おじいちゃんも友達が何か怪しいお薬でも飲ませたのかと思ったよ。それか結婚詐欺だってね」
愛は命に良く似た瞳を向けながら話に聞き入っていた。命と同じ、取り込まれるかのような大きく丸く黒い瞳だ。この年でこんな魔性の目をしていたら、将来何人の男を狂わせるものかと期待とも不安とも取れない気分だ。ほんの少しでも私の遺伝子が出ていたらもう少し平凡な目つきだったのではと思う。これは息子にも言える事だ。
「でもこうして私が生まれてる訳だからそういう事じゃなかったんだよね? ちゃんと結婚したんだもんね?」
「んー、どうだろうなぁ?」
えぇー、と愛が不満そうに呻く。その仕草は年齢相応で愛らしい。時計を見るともう随分と長い時間話していたことに気づく。いい加減愛を返さなければならない。
不満を垂らす愛を笑いながら玄関から送る。次来た時に続きを話す様に約束を取り付けさせられた。
「おじいちゃん、ボクジュのご飯とトイレ掃除忘れたら駄目だよ! 忘れてたら分かるからね。ボクジュちょっと変わったことがあったら鼻先の黒いのが薄くなるから」
そう言って走って帰って行ってしまった。
愛はボクジュを拾ったは良いが、家がペット禁止のマンションの為、置くことが出来なかった。なので、愛が何日か置きにでも来る事を条件に、私が世話をしている。
広い一軒家にボクジュと私の一匹と一人っきりになる。
息子とは、もう十何年も一緒に住んでいない。
翌日に愛は早々にやってきて、話の続きをせがんだ。
流石にいきなり結婚は如何なものかということで、僕と愛はお付き合いをすることになった。しかも何故命が僕と結婚したいと言ったのか全く分からなかったので、そこら辺を半ば詰問的に尋ねる事から始まった。無論、その間に山登りや美少年像が展示された美術館へのデート等済ませるべき事は済ましていった。なので傍から見るとこの詰問も何のことは無い。只の恋人同士の語らいにしか思えなかったであろう。
まず最初に訊いたのは、何故初対面の僕といきなり結婚したい等と言い出したか? だ。それに対する答えはこれ以上ないくらいにシンプルで、これ以上ない程に難問だった。
「簡単です。私が貴方が良いなと思ったからです」
命の返答はこれだけだ。それが何故なのか、と訊いてもそう思ったからです、としか返ってこなかった。これ以上何故と訊いてもどうしようもないため一旦保留とした。これが一番知りたかった事ではあったのだが。
他に訊いたのは何故愁ではなく僕だったのか、だ。前の質問と似ているようで違う。より細かく訊けばあの時僕と愁の何を見比べて僕を選んだのかという事だ。
命自身もその時の自分の感情については新鮮なもので、上手く説明できるものではなかったらしい。
「いえ、全然違うって思って私もびっくりしてたんです。イケメンの愁さんを見ている時と、イケメンとは言い難い貴方を見ている時で、自分の中の感情が全然違くって」
間違ってはいないだろうが今その毒はいらなかった。
「イケメンの愁さんを見ている時は幸せなんです」
「僕を見ている時は幸せでないと……?」
幸せなら愁で良かったのではないだろうか。
「違うんです。愁さんを見ている時は幸せなんですけど、貴方を見ている時はそうじゃないんです」
「何も違わないように思うんだけどね……?」
我ながら、中々に恨めしい声が出るものだ。
「もっとこうのっぴきならないといいますか、こう……恥ずかしいので、言いません」
そう命は顔を赤らめて言う。これまでで見たことがない程に赤かった。ここまで引っ張ってそれか、と思う。最初の質問からこの質問までにもう随分と色々とこなしてきたというのに。それだけ恥ずかしい事なのだろうか。見て幸せ、以上に恥ずかしい発言はそう無いように思うが、一体あの時命は僕を見て何を思っていたと言うのか。
「私ってこれでもすっごく恥ずかしがり屋で、奥手で、好きな人に対して素直になれない女の子なんです。だから、そういう事なんです」
「いや分からないし、奥手で照れ屋で素直になれない女の子は初対面の男性に結婚の申し込みとかしません」
私の言葉に、命はううっと呻いて顔を赤くして言う。
「どうしても知りたいんでしたら、そうですね。私がもうすぐ死ぬって時に、傍にいてください。事故で死にそうな時も、病気で死にそうな時も……老衰で死にそうな時も。その時傍にいてくださったら、教えてあげます」
物凄く甘々な言葉を言われている気がする。
「逆の時は教えてあげませんからね。何で死にそうになってて、どれだけ懇願してても、私より先に死にそうな時は絶対に教えてあげません」
「なんだか、とにかくいいから傍に居ろって言われてるのかな?」
ここで、恥ずかしそうに俯いていた彼女は顔を上げて、私の目を真っ直ぐと見つめた。
「とにかく孝さんは不安に思う事なんて何一つ無いんです。大丈夫ですよ」
最後のその言葉で命への質問は打ち切られた。どうやら決定的に安心できる言葉は命が死ぬ時に傍にいない限り訊かせてもらえないらしい。その後何度そういった不安を吐露しても、大丈夫ですよの一言で流され、そして僕も大丈夫ですよと言う彼女の瞳の力によって、満足してしまっていた。あんな目をしている命が、嘘をつくはずがないのだと。その瞳が、彼女の中の何を表しているのかすら考える事をせずに。
そう、結局僕は命から何一つ根拠となる言葉を得られなかったのだ。不安の種は不安のまま根を大きく張り巡らせ、発芽することなく僕の胸中に残り続けた。
これは命の友人であり、記念すべき僕と命の交際開始日に結婚式を成していた新婦が命について語った言葉だ。通りすがりの喫茶店の中で愁と二人でお茶をしていたものだから、ついお邪魔をしてしまった。ついでに黙っておく代わりに奥さん命さんについて教えてくれませんかと。
「命はね、魔性の女とかとはまた違うけど、どうしても目を持ってかれるのよね。だから目立つし、男の子とも何人も交際してたみたいなんだけど。誰も長続きしない。参っちゃうのよ、あの目に。皆近づいては離れてく。その上気分屋な所あるから。付き合ってる人がいるのに他の人とも、なんてこともあったわ」
私はあの子好きなんだけど。貴方多分一番長く持ってるわと、お昼の団地妻さんは言っていた。隣で愁が、俺は貴女のその憂いと微熱が込められた瞳も好きですよと言っていたのは放っておく。愁も、長続きはしないタイプだ。友人関係も含めて、僕ほど長く一緒に居る奴はいないと言い切れる。愁と命は共通点が多い。そもそも仲が良いのだ。よく二人で出掛け、そして帰ってくる。その度にやきもきする僕の気持ちにもなって欲しい。
話を聞くにつれて不安が高まる中でも、それでも僕は命の傍に居たいと思った。とっくに呑み込まれていたのだろう。だってそもそも結婚式の時一言も発せなかったのは、ずっと命の瞳に魅せられていたからなのだから。
僕と命が結婚したのはほどなくしてからだ。白いウエディングドレスに身を包む彼女の眼は、ドレスを侵食していくかのように黒く幸福そうに輝いてた。
命が愁と寄り添ってホテルから出てきたのを見たのは、これまたほどなくしてからだった。
僕の仕事の帰り道の事だ。その日命は愁と例の団地妻とその夫の四人で会食をすると言っていた。四人でなら間違いもないだろうと思いながらも、それでも不安に思いながら帰っていた。夫婦生活は問題なかったが、やはり命が愁と二人で出かけるという事は続いていた。
何故それをずっと黙認していたのかと、この時程後悔した事はない。もうかなり遅い時間で、とっくに命は帰っているものと思っていた。その時だ。
命が愁の腕を掴み、ホテルから出てくるのを目撃した。私は思わず身を隠した。何故、と思いながら。命が何かしらを愁に話しかけていた。深夜のため、ホテルの光があって尚二人の細かい表情等はよく見えない。が、愁は足元がおぼついていない。酔っているようだ。愁の方も、何かを命にわめいているようだ。愁は直ぐに酔うが、女性にその姿を見せるのは珍しい。それだけ心を許しているという事なのだろうか。声は聞こえるが、正確には聞き取れない。命はまた、何かを愁にしゃべりかけた。
そしてそこにタクシーが走ってきて、愁を乗せて去って行った。命は、そのまま帰り道を辿っていった。
僕は家に帰った後いつも通り出迎える命に対して、何も言う事が出来なかった。彼女の瞳は、いつも通り黒い。
命が息子を授かったのは、それから直ぐの事だ。
今日はもう、愛は帰らせた。私が愛に語ったのは、結婚式の様子までだ。結婚式の愁の祝言には、愛もお腹を抱えて笑い転げていた。それ以上先はまだあの子には早いだろう。しかし、祖母と似て鋭い子だ。もしかしたら、何かしら思うところがあるのかもしれない。今日の帰り際には、私ってお爺ちゃんに似てる? と聞かれてしまった。愛はおばあちゃんの方にそっくりだと言うと、嬉しそうな様な不服そうな様な様子で帰って行った。
愁が死んだのも、命が妊娠した事がわかってから直ぐの事だった。
その時交際していた女性に何十か所も丹念に刺された状態で、アパートの自室に倒れていたらしい。愁を刺した女性は、遺体の横で、彼の眼がいけないのよと、延々とそれだけを繰り返し続けていたと聞いた。その女性は、愁の眼の持つ熱に当てられ過ぎてしまったのだろう。愁は自分の持つ魅力を利用した上で、その危険性もよく分かっていた。だからいつも相手を熱しすぎてしまわないように、女とも男とも一定の時間で関係を離していたのだ。今回は初めて、愁が時間を見誤ってしまったのかもしれない。その初めてが最悪の結果となった訳だが。僕は小さい頃からの長い付き合いのせいか、愁とは比較的普通の関係を築いていた。
愁の、驚くほどに参拝者の少ない葬式で、命はこんな言葉を僕に言った。
「愁さんは、俺の方が先に執着してたんだって言ってました。いきなりやってきて、お願いだから横取りしないでくれよって。私は愁さんと同類ですから。私にも必要なんですとしか返せませんでした。……それに関しては、私は心の底から愁さんと考さんに申し訳なく思います」
僕には彼女が何を言っているのかは全く分からなかった。そうして、愁が死んで少ししてから息子が産まれた。
何故、と思った。産まれてきた息子は、私にはまったく似ていないように思われた。少なくとも私にはそう思えた。命によく似た、黒い瞳。顔だちも私の息子とは思えない程に整っており、何人もの女性に熱を孕ませていた友人を思わせる。どうあっても自分の子どもには思えない。なのに。なのに。
こんなにも愛おしく感じるなんて。大きくなっていく様が愛おしい。自分顔を見つめてくる姿が愛おしい。生きていてくれるだけでも愛おしい、なんて。
息子は健やかに成長していった。数えるのも可笑しくなるほどに早く。
そうして愛が産まれた。僕とは似ていない。しかし何て。何て。
妻が倒れたのは、孫が産まれて二年後だ。
何故言ってくれなかったのかと思う。何故。何故と。妻に出会ってから、こうやって疑問を持ってばかりだ。何も言わない僕を、ベッドの上で妻が見つめている。倒れてから、途端に皺が増えたように感じる。そんな妻を見て、僕の胸に激しい感情が渦巻いて来た。聞いてしまおうと。認めたくなかった事を。自分の中で、解決した筈の事を。そうしなければ、これをどうしようもない。
病床に伏せる妻に、聞くべき言葉ではないかもしれない。最低な事を聞こうとしているのかもしれない。だが、これで最期になるかもしれないと思うと、口から声が出ていた。我慢が出来なかった。
「君は、愁と関係を持っていたんじゃあ無いのか?」
この私の言葉を聞いて、妻は目を大きく見開いた。その驚きが、何を言っているのかという驚きなのか、知っていたのか、という驚きなのか私には分からない。だが、それはどちらでもいい。答えを聞く前に、私は抑えきれない感情を言葉にして妻に投げ放つ。弱っている妻に、暴力的なまでの感情を。年老いて枯れ木の様に精気が失われていっている体に、急激に熱が入る。
「だって君は、あんなにも愁と仲が良かった。あいつと直ぐに打ち解けたし、何度か二人きりで遊びにだっていっていただろう? 私にあいつについて話すときは、いつも褒め言葉ばかりだった! それに」
それに、息子は全く自分に似ていない。ここまで言って、自分が取り返しのつかない言葉を言った事に気が付いた。孫まで生まれているのに、今更何故こんな事を言っているのかと、自分が嫌になる。妻は、皺が刻まれた顔で、少し恨めしそうにして私を見つめていた。
「あの子は、私と愁さんの子どもだと思うんですか?」
そう言われて息を詰まらせる。妻はそんな私を見て、笑った。呆れたと言うように。
「自分の子どもじゃないかもしれないって思いながら、あんなに可愛がってたんですか」
「それは、あの子があんまりに可愛いものだから」
妻は、今度こそ本当に可笑しいと言う様子で笑い始めた。私は、何故妻が笑っているのか分からず困惑するしかなかった。何故、笑うのか。
「ふふ、だって、あんなにも似ているのに、似ていないだなんて。私が愁さんとっていうのも可笑しいのに、そんな事考えてたなんて」
「そんな事って、私は本当に悩んでいたん…………私と息子が似ている?」
「ええ、似ています。確かに顔や体つきは、私の血が多く出てしまったから似ていないかもしれませんが。仕草や性格なんかは、もうそっくり。貴方からすれば、自分の事だから気づかないかもしれませんが」
だから、間違いなくあの子は私達の子どもです。そう妻は言った。根拠のない、彼女から見た私と息子が似ていると、それだけのことで。妻は続けて、それにと言った。それに、私が愁さんとなんてありえないと。
「確かに目の保養とか、話し相手としては最高でしたが。けど私、ああいう女性に責任を持たない人、全然男の人として好きになれないんです」
「でも、君が愁とホテルから出てくるのを見た。何十年も前の事だけど。君が愁に寄り添って」
そう、あの日確かに私は見た、あれは何だったと言うのか。そう言うと彼女は少し驚いた様にしてから、思い出したように恥ずかしそうに笑った。
「見られてたんですか。恥ずかしいですね。あれは、酔っちゃった愁さんを、私が介抱していたんです。ホテルで愁さんを寝かせて、少し酔いが覚めたので帰ろうと。貴方も、見ていたなら助けてくれれば良かったのに」
けどほんと、どちらも分かってないのは貴方だけですねぇと、妻はそう言う。全て本当の事なのか。妻は一切の戸惑いも見せずに言っていた。しかし、結局何の根拠も証拠もない。それならば。まだ何かないか。そうやって俯き何も言えないでいる私に妻は声を掛けた。
「だから、大丈夫ですよ」
そういつものように笑って。いつものように言ってのけた。それを訊いて、私もようやく観念した。
妻の不貞を暴くことが目的だったのではない。そんな気持ちは、息子が産まれ、成長していくのを見ていく中でとっくに霧散していた。だから、この感情はきっと。
死んでほしくないと思っているだけなのだ。
こうやって妻を問い詰めれば、生き続けてくれるような気がしていたのだ。本当に、往生際が悪い。
妻は最初から全て見抜いていた様に微笑んでいる。やはり、敵わない。
しかし、ここまできても分からない事がある。彼女に選ばれてからずっと考え続けていた事だ。
「君は、どうして私を好きになってくれたんだい? 最初に会ったとき、私と愁でどんな違いを思ったんだ?」
妻は言っていた。私が死ぬ時、傍にいてくれたなら教えてあげますと。だから、最後にこれだけは訊いておきたかった。情けないにも程があるとは思うが。
「あら、よく覚えてましたね。とっくに忘れてるのかと思ってました。最近は訊かないものでしたから」
「忘れるわけがないさ。君に選ばれてから、ずっとその事を考え続けてきたんだから」
選ぶだなんて、と妻はまたもや可笑しそうに笑った。目を細め、少し間を置いてから口を開く。
「私が死ぬときに傍にいてくれると思ったんです。この人ならどんな時でも私の側に居てくれて、この人に私の最後を看取って欲しいって」
そう妻は事もなげに言った。こんな簡単なことも分かっていなかったの? と笑いながら。
「まさかそれだけかい? 僕を選んだ理由はそれだけ?」
「他に理由なんていらないじゃないですか。死ぬのを看取って欲しい。これ以上ないくらいの理由ですよ?」
「そんな、それだけなら僕じゃなくても良かったじゃないか。最後を看取る位、誰だって」
「酷いこと言うんですね。死に際の妻に向かって、自分じゃなくても良かっただなんて。最後くらい、僕で良かっただろう? とか自信満々に言って見せてくださいよ」
「そういう考えが出来るようなら苦労はしてこなかった」
本当ですね、とまた妻は可笑しそうに笑った。今日の妻は、とてもよく笑う。今日が人生最良の日であるかのように。病床の身でありながら、輝いて見える。
「けど、それでもやっぱり分からない。どうして、そう思ってくれたのか。だって、君はどう考えても最初、愁に好意をもっていたじゃあないか」
「あら、容姿の良い男性に対する好意と、好きな人に対する好意は別物ですよ。まだ女心が分かっていなかったんですね」
ぐうの音も出ない。そればかりは、死んでも分かりそうにない。あるいは愁なら分かっていたのか。
妻は、私は愁さんと同類の様な所があったから。と前置きをして続けた。
「愁さんは確かにとてもいい男性だった。でもね、それでも私は愁さんより貴方が良かったんですよ。愁さんはただ見てるだけで満足できた。けどあの時貴方には、この人は殺してでも食べてでも傍に置かなきゃいけない、そうしたいって思ったんです。凄く物騒だから、言うのが本当に恥ずかしかったんですよ」
本当にとんでもなく物騒な事を言われている。若いころ程の強さが無くなった瞳でも、本気で言っている事が分かる。当時これを言われていたら、私はあるいは妻から逃げて、いや、逃げられはしなかっただろうが。あの時感じた取り込まれるかのような感覚はそういう事だったのだろうか。しかし僕は今、だからそう思ったのが何故なのか、という顔をしているだろう。妻はここまで言っても分かりませんか、と呆れた顔をしている。ふう、と溜息をついた。
「簡単な事なんです。貴方がいいと思った。それだけです。本当にそれだけ。理由なんて無しに、感情だけでそう思った。貴方を好きだと思った理由は、私がそう思ったから。それで私には充分でした」
他には何もない、何もいらないと。僕が何かに優れていた。何か彼女に与えてあげた。彼女だけに分かる良い面があった。そういったエピソードも何もなしに、ただ、好きになったのだから仕方がないのだと。妻が最初に言った通りの事だった。
要はどうしようもないほど、一目ぼれだったんですよ。
妻はそう言いながら、恥ずかしそうに笑った。年齢と共に顔に刻まれた皺も、病魔による苦しさも。そんなもの全てなかったかのような、恋する乙女の笑顔だった。
だから、私は貴方が良かった。貴方で、本当に良かった。今日程生きて来て一番幸せな日はありません。
それが妻の最後の言葉だ。目を閉じ、眠ったかと思えば、そのまま目を覚まさず息を引き取った。
「おじいちゃんって、お父さんと似てるよね」
次の日にやってきた愛に、開口一番そう言われた。愛曰く、仕草や話し方がそっくりだと。私の眼を見る目が、全く一緒だと。根拠のない、感覚だけのその言葉。しかしそれだけでも嬉しく思ってしまう。確かに、猫の世話を口実に毎日娘に父親の様子を見に行かせるような息子の心配性は、私譲りなのかもしれない。
日に日に成長していく孫。毎日、その小さな体に瑞々しいまでの記憶を綴っていくその姿を見て、僕は思う。成程、確かに。姿を見るだけで愛おしいと思う事は、本当に簡単な事だったのだと。
本当に、何て理由の無い。
何て素敵な、一目惚れだった事か。
死ぬときに傍にいてくれるという事は、締め括りをその人の記憶と共に行うということ。どんな最後でも、その人さえいれば。その人に見ていて貰えさえすれば。これほど幸福な事がこの世界にあるのだろうか。なんて憧れる最後だろうか。
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