第二話 学生寮Ⅰ
シャイローズ伯の邸宅は広い。
そこかしこに素晴らしい花や草木があり、手入れの行き届いたそれがシャイローズ伯の熱意を感じさせる。
「匂いますな」
「そうですね。バラのいい香りがします」
月影は素直にそう答えたのだが、ギャラハットは冷淡な目を彼に向けた。
「そうではなく、あなた自身がと申し上げたのです」
「あ、そりゃあ失礼」
シャイローズ伯は今は草木を愛でる優しい好々爺だが、その昔は『雷神』の名を関する有名な魔術師だった。確か月影の親父である松蔭と旅をしていたはずだ。その頃の話を、何度か彼は聞いたことがあった。
ちなみにシャイローズ伯はとてもきれい好きで有名だった。
確かにこの庭を見れば、それも一目瞭然、頷ける。
「こちらへどうぞ」
ギャラハット氏にすすめられるがままに、月影はある場所に向かっていた。その向かう先に、白亜の建物が見えてくる。それは煙突から黙々と白い煙を上げており、見た目は炊事場に見えなくもない。
しかしもっと別の用途を、この建物は持っている。
「どうぞ。新しい道着を用意させましたゆえ、そちらは処分してもよろしいでしょうか?」
月影が身に着けているのは紺色の道着で、それはもう所々が擦り切れていたりシミがついていたりでみすぼらしいことこの上なかった。だが、彼は捨てるということを拒否した。
「いや、これでも擦り切れた個所を縫い直せば、まだ使えます。それにこれは、私がお師匠さんからいただいた道着。そう簡単に捨てては罰が当たってしまいます」
「・・・・・・そうですか。では一応洗濯させておきましょう」
「かたじけない」
再度一礼して、建物に振り返る。しかし、この建物自体が何かを確認しておかねばならない。
「ところで、ここは?」
「風呂場でございます。もう何日も水浴びすらしていないでしょう? あなたの体から立ち上るのは、汗と潮の匂い。まるでこの街に来たての海賊のようです」
一瞬ぎくりとしながらも、月影は笑顔を取り繕った。それを見破ったのか、あるいは見破らなかったのか、それははっきりしないがギャラハット氏は追及するほど野暮でもなかった。
「とにかく、まずは体をお浄めください。我が主に会うのは、それからです」
「承知しました」
月影とて風呂嫌いなわけではない。むしろ好きなほうだ。
それに彼がこれまで修行を続けてきた魔大陸は風呂などほとんどなかった。
「久しぶりの風呂か。これは楽しみだな」
喜び勇んで風呂場に向かう。湯船につかる楽しみを心に秘めて。ただし鼻歌を歌っている時点で、すでに隠しきれていないのだが。
彼が風呂場に手を駆けた瞬間、隣のドアを開けて一人の女性が出てきた。
まだ風呂上がりで乳白色の髪を艶めかしく濡らし、タオルでそれの水分を取りながら、彼女は風呂場から出てくる。男性用と女性用が分けられているのは、多分シャイローズ伯が経営する寮に男性と女性がいるからだろう。そう、月影は大学に通うために、シャイローズ伯に寮を使わせてもらうための申請に来たのだった。
まぁ、それはさて置き。
今は目の前の女性である。正直、すげぇ美人だというのが月影が最初に彼女を見た印象である。
乳白色の髪は長く、腰のあたりまで伸びている。手入れは大変そうだと思ったが、目の前の女性にはお似合いだった。そして瞳はエメラルドグリーン。目鼻立ちはしゅっとしており、体も全体的に細身だ。無駄な肉が一切ついておらず、月影のように武芸に秀でたものなら彼女のそれが武芸によって管理されたものだとすぐにわかる。
女性も月影に気づき、一瞬その姿を目に留めた。
だが、あまりに汚い身なりだったせいか。それともただ単に興味がなかったのか。
軽く一礼するとその場を立ち去ってしまった。
「すげぇ美人だったな」
とはいえ、今はお近づきになれるわけでもない。
まずはギャラハット氏の言うとおりにゆっくり風呂にでも浸かって疲れと汚れを取ることだ。
久しぶりの風呂とあって、長風呂をしてしまった。
しかしその間に魔大陸で別れた友のことを思い出す。
その友人たちも同郷の出身者であり、それぞれの道を修行するために道を分かったのだった。
「さて、あいつらも元気にしてればいいけどな」
今度少し落ち着いたら手紙でも送ってみるかと思いながら、月影は風呂を上がる。
新しい道着は同じく紺色。しかしそのむせ返るような奇妙な香りは、それが新品であることを間違いなく伝えてくれる。
「何年ぶりかな? こんな新しい道着の匂いを嗅ぐのは」
触れば手に道着の色が付く。
染めて乾かして、そのままの道着だ。袴も同様に紺色。
「ずいぶんと時間がかかりましたな」
「久しぶりの風呂だったもので。随分と設備が整った場所ですね」
「かなりの職人を導入して作らせましたからね。恐らくこの庭も、そして学生寮の設備もアクアディオス随一であることには間違いないでしょう」
「それはすごい」
月影とギャラハットは再びしばらくの間歩き、やがて敷地内に設けられた林を抜けて見えてきた巨大な建物に入る。これも白亜の建物で、しかし先ほどの風呂場とは比べ物にならないほど立派だった。
その中の一室に通される。
「我が主、お客人をお連れいたしました」
「うむ、入りたまえ」
扉が開く。そこにいたのは、月影の記憶の中のままの姿でいたシャイローズ伯のだった。
「よく来た月影。まぁ、まずはそこに座りたまえ」




