序章 嵐の前触れ
その日も平和だった。
一言で表すなら、平和という言葉に尽きるほど、何も問題のない幸せな時間が流れていた。
温かな太陽の光が地上に降り注ぎ、その下で人々を含めた多くの生命が、自分達の人生を謳歌している。
海に浮かぶ巨大魔術都市アクアディオスに住む、ロイド・シャイローズ伯もそんな人間の中の一人だったが、この壮年の精霊族の伯爵にとっては、今日のような日はまた特別だった。
雲一つない、よく晴れた一日。
海から吹く風は心地よく、暑くも寒くもない。
大地はようやく、嵐の多い冬の季節を抜けて、生命を謳歌するための春に移りつつあった。シャイローズ伯はその季節の移ろいに感謝しつつ、いささか顔のバランスを考えるに当たっては大きすぎる鼻から、思い切り空気を吸い込んだ。
草木と、花の香りがシャイローズ伯の五感を刺激する。横に長く、尖った耳がぴくぴくと動いた。
大きく息を吸い込み、吐き出すという行為を一頻り終えたところで、シャイローズ伯は剪定鋏を片手に、ご自慢のバラのアーチに向かった。
バラは、常に手入れを欠かしてはならないのだ。
そう、彼女らは何とも嫉妬深く、少しでも気に掛けることを怠ると、その年に美しく咲いてはくれない。広大な庭の草花や木を一人で管理しているシャイローズ伯は、ご自慢の貴婦人の性格をよく知っていた。だから、毎日の日課である庭の管理はバラの剪定に始まる。
小鳥の囀りと、蝶の舞う姿が見える。
朝の露に濡れた草が、美しい水の玉を抱いている。
それを見ていて、今の自分の置かれた状況が平和でないと感じられる人間がいるのだろうか?
少なくとも、シャイローズ伯の頭にはそれ以外の言葉は浮かばなかった。
そう、メイドが一通の手紙を持ってくるまでは―――。
黒い紙に紫色の瞳をした、魔族のメイドがシャイローズ伯に駆け寄ってくる。
「旦那様、お手紙が届いております」
バラの剪定に取り掛かろうとしていたところを邪魔されて、少し機嫌を損ねたシャイローズ伯だった。
「手紙くらい後で読む。すまんが書斎に置いておいてくれないか?」
しかし、メイドは拒否した。
「そうは仰りますが、緊急にという事でございます」
「緊急だと?」
緊急だと言われて読まないわけにもいかない。これでもシャイローズ伯は、アクアディオスでは一目置かれた存在なのだ。誰かが伯を頼って、何か話を持ってきたのかもしれない。
確かに、手紙の内容を流し読みするとシャイローズ伯を何者かが頼っているようだった。紫色の瞳をしたメイドは、シャイローズ伯がいつものように手紙を流し読みして、興味なさそうにそれを返してくるのを待っていた。
この伯爵様は、本当に自分の興味のあるもの以外には全く興味を示さないのだ。
しかし、この日ばかりは違った。
シャイローズ伯の顔が、見る見るうちに青くなる。
「旦那様?」
紫色の瞳に映る、青い顔。あまりの変貌にメイドの頬を一筋の汗が伝った。
そんなメイドとシャイローズ伯を、運命という奴は気にもかけなかった。特にシャイローズ伯には、見向きもしない。そんな過酷な運命が、猫の耳を持つ獣人のメイドの手によって運ばれてくる。いつもならメイドの中でも群を抜いて可愛らしく見える猫耳メイドだが、この時ばかりはシャイローズ伯にとって悪魔の遣いにも等しい。
いや、悪魔そのものと言っても差し支えなかった。
「旦那様、お手紙です。緊急でございます」
黙って、そして恐る恐るシャイローズ伯は手紙を受け取る。
ぶるぶる震える手は、何とか手紙を開く。目はその内容を確認するが、それらが頭に入って来るたびにシャイローズ伯の顔が、青色から土気色に変わっていった。
いつもの伯爵の顔は、精霊族にありがちな真っ白な顔だ。雪のように白く、女性もうらやむ美白が売りの、綺麗な肌なのだ。
しかし、今の状況は完全に死人だ。
そんなシャイローズ伯の顔を見て、何か気まずいものを感じたのか。
獣人のメイドと魔族のメイドは顔を見合わせた。
「あの・・・・・・旦那様?」
今度は猫耳メイドが声を掛けてみるが、シャイローズ伯にその声は届いていない。更に悪いことに、手紙はこれで終わりではなかった。
「旦那様、お手紙です。緊急ですよ」
メイド達の中でも最も年上で、メイドを統括する立場にあるベテランメイドが手紙を持ってくる。彼女は体に何らかの特徴があるわけではなく、この世界で最も数の多い人間族だった。
三枚目の手紙を受け取ったシャイローズ伯は、最早中身を見ることはなかった。彼は差出人の名前だけを見ると、一目散に駆けだした。
「どうされたのでしょうか?」
黒い髪を揺らし、可愛らしく小首を傾げたメイドが疑問を口にした。
「何やら、とても慌てていたようですけど・・・・・・」
猫耳メイドにもシャイローズ伯の慌てようは、奇怪に映ったらしい。
しかし、メイド長は落ち着いていた。これも年季の違いという奴なのかもしれない。
「私はシャイローズ伯の御屋敷にお勤めして十年目です。こんなことは一度や二度ではありません。後はギャラハットが何とかするでしょう。さぁ、そんなことよりも、仕事に戻りますよ」
三人のメイドはそれぞれ仕事に戻って行った。
そして流石と言うべきか、メイド長が予測した通り、シャイローズ伯が向かったのはこの屋敷で最も頼りになる存在である男、ウィール・ギャラハットの元だった。人間族で白髪を豊かに蓄えた、紳士然としたこの老執事は幾度となくシャイローズ伯の窮地を救ってきた有能な人物だった。
その日も静かに、黙々と作業をこなしていたギャラハットの元に、慌てふためいたシャイローズ伯が入ってくる。
「ギ、ギャ、ギャラハット!」
しかし、極めて優秀なバトラーであるギャラハットは、そんな伯爵の姿を見ても眉一つ動かさなかった。
「何か問題でも? 旦那様?」
そんなギャラハットの態度を見て、自分の慌てようが恥ずかしくなったのかもしれない。一度身に着けている乱れた服を整えてから、シャイローズ伯は落ち着いた様子で持っていた手紙を、執事に見せた。
「これを見てくれ。周りには大したことはないかもしれないが、私には大きな問題だ」
ギャラハットは手紙を手に取って、差出人と内容を、それぞれ確認する。その間も、彼の静かなる湖面のような表情は一向に変化することがない。
「ふむ。状況は分かりました。旦那様の一大事は、私にとっても一大事にございます」
「どうすればいい?」
「そうですな。私に全権をお任せいただけますかな? サー・シャイローズ?」
「うむ。しかし、私の考えとしては、この手紙にある要求を呑むことは断りたいと思っている」
ギャラハットの顔が、初めて表情らしいものを見せた。しかし、その表情の意味をシャイローズ伯は知っている。
「それは出来ません。旦那様。あなたの行っている精神と、この都市の精神に反します。このギャラハット、如何に旦那様の願いでも今の願いは受け入れられません」
無表情のギャラハットが、少しだけ眉毛を上げて水色の瞳でシャイローズ伯を見てくる時。その時は理路整然と反論を行う時だ。ちなみに、シャイローズ伯には対抗手段は残されていない。
「いや、その・・・・・・。何と言うか、私はこの差出人達が苦手なのだ。何とか他の者に任せるとか、そういうことは出来んものかな?」
「ダメです。サー・シャイローズ。臣下たる私から申し上げるのは、要求を呑むという提案だけです。そうすれば私も、しかと働きましょう。しかしそれ以外には何も提案できなければ、大した働きも出来ません」
ギャラハットに出来ないことは、他の者が出来るわけもない。
シャイローズ伯は、目の前の男の力をよく知っていた。
「むぅ・・・・・・」
ぐうの音も出ないシャイローズ伯には、ギャラハットの無言の圧力がかかり続ける。
沈黙は金なりと言うが、この時ばかりはシャイローズ伯の敵にまわっていた。こうなった以上、残された手段は一つだけだ。
「ギャラハット、お前に任せる」
「はっ。お任せください。旦那様におかれましては、心安らかに日々をお過ごしください」
ギャラハットは安心させるために言ったに過ぎない。しかしシャイローズ伯は、今回の一件についてはギャラハットよりも上手だった。
彼は知っている。
心安らかに日々が送れることなど、暫くはないだろうことを。
それだけ手紙に書いてあった要求を呑むことは、シャイローズ伯にとっても重要事だった。
シャイローズ伯の日常に、嵐が近づきつつあった。