申される、参られるはもとを正せば誤りでなかった、の段
時代劇や時代小説などで、耳にしたり目にしたりしたことはありませんか。
「いまなんと申された」や、「参られよ」なんていう言葉。
結論から言えば、現代ではこの用法は誤りであり、歴史的にみれば誤りではなかったということです。「言う」や「来る」の丁寧で改まった言い方で、日頃使用されていた言葉だそうです。
謙譲語だとか、尊敬語だとか国語的な話は割愛します、なんたって面倒なので。わたしが「申される」をどう解釈していたかだけを述べますね。
ただ、現代での正しい言い方は記しておきます。そんなもん、知っとるわ! とは仰らないでくださいませ。
「申される」→「仰る」
「参られる」→「いらっしゃる、お見えになる、お越しになる」など
さて、「申される」はどうやら昔は通常使われていたらしい、ということは朧げに理解しながらも、どのような相手に対し使うのかということまでは知らなかったわたし。そこで自分なりに解釈してはじき出した答えは、「相手が自分と身分が同等もしくは自分よりも格下であって、尊敬語を使うまでもないと判断したとき、あるいはそのように判断するとき」です。
AさんとBさんがいるとします。
AさんのほうがBさんよりも身分が低いとします。
AさんはBさんに対し、「仰る」などの相手を敬う尊敬語を使う必要があります。
Bさんは、Aさんに「昨日は日本橋で魚を食べた」と言ったとします。
ここでの返答は、AさんはBさんに「いまなんと仰いましたか」あるいは「いまなんと仰った」とするのが礼儀でしょう。
今度は、AさんのほうがBさんよりも身分が高いとします。
そうするとAさんはBさんに、「仰る」などの相手を敬う尊敬語を使う必要はなくなります。
ですが、AさんはBさんに、尊敬語を使うまではしなくてもよい相手だが、Bさんが「言った」という行為に対して敬語を使いたいあるいは使う必要があると判断したときに「申された」とBさんに使う。
という、聞きようによっては嫌味ともとれる敬語の使い方をしているのだと思っていました。
なぜそのように考えたかといえば、昔は封建制度だったので、身分の線引きはとても厳格であったはずです。なので、話をしている相手の身分を逐一念頭に置いて、敬語の使い方も相手によって細かく変えていたのではないかと思っていました。
でもいちいちそのような判断をして使っているわけではなく、単純に「言った」を丁寧に表すときに使っていたようです。
相手の身分が自分よりも上の場合でも、このように使っていたようです。ただ、その相手本人を目の前にして「いまなんと申されましたか」などと使っていたかまでは調べていません。当人がその場にいないときに、当人の話をするときなどに使っていたことはあるようです。