死生観について
なかなか本題に入らない。
先日、職場で『赤穂浪士』の話が出てちょっと盛り上がっていた。
『赤穂浪士』とは、元禄時代、赤穂藩藩主浅野内匠頭が吉良上野介に対し江戸城殿中において斬りかかったことが発端となり、浅野内匠頭は切腹、浅野家は断絶、吉良には咎めなしとなったことを不服として主君の仇を討つべく吉良邸に討ち入りをかけた四十七士のことである。『赤穂浪士』の題名そのままに、または別名『忠臣蔵』として、年末のドラマなどで繰り返し放映されていることはあまりにも有名である。
滅私奉公の典型的な例であり、吉良を討ち取ったのちの浪士たちは切腹をし命を絶ったという事件の悲劇性も相まって今日に至るまで日本人の心をおおききくつかんで放さない義士であり忠臣であり、また物語でもある。
さて、筆者も『赤穂浪士』の物語が大好きなうちの一人である。中学生のときに観た『忠臣蔵』で、浪士たちの“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様やストーリーの展開に胸躍らせたものである。
が、しかしここで注視したいのが、「“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様」という意識である。
「“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様」とは果たして手放しで賞賛し、箱に入れて鑑賞してよいものであろうか。答えとしては是であり否である。
じつはこの言葉はまるまる筆者がその場で使った言葉なのだが、これを言ったときに待ったがかかったのである。その待ったをかけた人曰く、「そういう日本人の考え方がね~ちょっと受け容れ難い」のだそうだ。
ここからが本題なわけである。
『赤穂浪士』を、あくまで「物語の中の話」であるということを大前提として楽しむのなら適切な楽しみ方といえよう。先述したように『赤穂浪士』は、事件のその悲劇性によって大衆に愛されてきたといえる。
源義経に象徴される判官贔屓という言葉が示すように、かわいそうな立場にある人に同情の念をいだきときに贔屓するという土壌が古くからこの国にはそなわっていた。『赤穂浪士』においても当時の江戸の人々はそうした悲劇性を愛したであろう。
だが厄介なことに現代では、「“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様」という考え方は大衆的なものになってしまっている。そもそもが、“主君のために忠義を尽くす”という思想・規範が古く存在していたことに起因するものだからだ。これは死の美学とも言い換えられるであろう。
ただ付け加えておきたいのは、現代の人々にとって「“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様(生き方)」は当たり前のものではもはやない。大衆的とここで筆者がいう意味は、生き様ではなくその思想を指してのことである。
中世から近世の封建時代においての人々(特に武士階級)は“主君のために忠義を尽くす”という滅私奉公の概念的枠組みのなかで生きていた。反対にいえば、そのパラダイムが作用していた時代が封建時代である。人々はその概念のなかでしか生きる術を知らなかった。だから“主君のために忠義を尽くし”命を散らすことが栄誉ではあっても、およそ恰好いいだなんて筆者のような暢気きわまりない気持ちだったことではないだろう。“主君のために忠義を尽くす”という考えは呼吸をするように厳然たる事実として当時の人々の心に深く根を下ろしていたはずである。
そのような封建時代の滅私奉公というパラダイムを取り込みつつ、「“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様」という思想へ、新たな時代のはじまりとともに新たなパラダイムを構築していったという歴史的背景がある。
これは明治時代以降になって意識的に、もっといえば積極的あるいは作為的に教育に取り入れられていったものである。詳細は割愛するが、「桜」と「武士」に潔さを象徴させ、それらが日本人の在るべき生き様であると浸透させていったものだ。
であるからその意味において、現代的な個人の生き方としては到底受け容れがたいが、その生き様に代表されるような思想(考え方)は広く一般に馴染みがあるといえるのだ。
つまり冒頭の筆者の発言は、現代に生きる日本人にとって齟齬がないといってしまえるのである。筆者が『赤穂浪士』を楽しむことは、悲劇性を愛するという古来からの土壌と、潔く命を散らすという比較的新しいパラダイムのなかでつくられた死の美学によってささえられているのだ。
さて、では問題は何であるか。
筆者が思うに、死というものは生々しい感覚を伴って考えられるべきものである。筆者は、『赤穂浪士』の四十七士が忠義を尽くして命を絶ったことをうつくしいと思えど、現実の戦争や紛争でいかなるかたちであれ命を落とした人に対してはそのような感想はけっしていだいていない。大義・正義のもとで果敢に戦った人へも、自分を犠牲にして誰かを救い亡くなった人へも、である。
要するに、フィクションと現実を混同するなという話である。こんだけ割いてそんなオチかよ、というものであるが、そんなオチである。
「“主君のために忠義を尽くし命を散らす”という潔い生き様」とは果たして手放しで賞賛し、箱に入れて鑑賞してよいものであろうか。
答えは是であり否である。
「日本人のそういう考え方」のために『赤穂浪士』を楽しむことを放棄してしまうのはあまりに味気ないし、「日本人のそういう考え方」のもとで現実の死を認識することは死に対して、死者に対しての冒涜というものであろう。
わかったうえで敢えて娯楽を享受し、過酷な現実から目を背けないことは現代に生きるわれわれにとっての理知であり使命であると筆者は思うのである。




