表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/45

横溝正史『獄門島』を読んで(釣りのタイトル)



 いや~、自分って小説書く才能ないわ~、マジでないわ~と思う。

 書評に書くべきなんだろうが、横溝正史の『獄門島』は小説としてかなり完成されている。ミステリー部分においては、あっと驚く鮮やかなトリックというのはじつは特にないのだが、当時の時代背景や島の慣習が、登場人物の行動すべてに作者の綿密な計算のうえに表現されている。登場人物の行動に無理がない、というよりもっと、「やむを得ず、仕方がなかった」と読者にやるせなく痛感させる技量はさすがとしか言いようがない。


 この『獄門島』を読んでいると、自分の才能のなさに際限なく落ち込むのだが、たとえばこんな方法でわたしは解決を図る。

「自分ブサイクだわ」と思うことがあるけれど、「しかし顔は変えられないし、この顔で生きていくしかない。※自分の写った写真さえ目の当たりにしなければ、自分はブサイクではないと信じていられる」という思考の筋道と同じである。(どこからどこまでもツッコミどころ満載である)

 要するに、この有限な才能(顔)で生きていくしかないとある種の諦めをもち、一方で真実から目を背け、けれど自分にはきっと才能がある(見ようによってはカワイイ)とどこかで盲目的に信じることが必要である、という『獄門島』を引き合いに出して語るにはあまりにお粗末というか失礼というか論理もへったくれもない解決方法なのである。


 ちなみに、小説の序盤は特におどろおどろしい雰囲気があるのだが、金田一耕介のコミカルな動きの表現がありそれがスパイスとして作用している。小説全体のバランスはとても良いと思われる。

 一読の価値はあるので、機会があれば手にとっていただきたい。




※ 鏡でみる自分の顔と、写真に写る自分の顔は違うという認識のもと。写真に写っている自分すなわち真実の姿なのだが、わたしはそれを絶対に認めたくない。有難いことに、人間の脳は忘れるという機能を持っている。人間には救済の道がおのずと開かれているものなのである。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ