横溝正史『獄門島』を読んで(釣りのタイトル)
いや~、自分って小説書く才能ないわ~、マジでないわ~と思う。
書評に書くべきなんだろうが、横溝正史の『獄門島』は小説としてかなり完成されている。ミステリー部分においては、あっと驚く鮮やかなトリックというのはじつは特にないのだが、当時の時代背景や島の慣習が、登場人物の行動すべてに作者の綿密な計算のうえに表現されている。登場人物の行動に無理がない、というよりもっと、「やむを得ず、仕方がなかった」と読者にやるせなく痛感させる技量はさすがとしか言いようがない。
この『獄門島』を読んでいると、自分の才能のなさに際限なく落ち込むのだが、たとえばこんな方法でわたしは解決を図る。
「自分ブサイクだわ」と思うことがあるけれど、「しかし顔は変えられないし、この顔で生きていくしかない。※自分の写った写真さえ目の当たりにしなければ、自分はブサイクではないと信じていられる」という思考の筋道と同じである。(どこからどこまでもツッコミどころ満載である)
要するに、この有限な才能(顔)で生きていくしかないとある種の諦めをもち、一方で真実から目を背け、けれど自分にはきっと才能がある(見ようによってはカワイイ)とどこかで盲目的に信じることが必要である、という『獄門島』を引き合いに出して語るにはあまりにお粗末というか失礼というか論理もへったくれもない解決方法なのである。
ちなみに、小説の序盤は特におどろおどろしい雰囲気があるのだが、金田一耕介のコミカルな動きの表現がありそれがスパイスとして作用している。小説全体のバランスはとても良いと思われる。
一読の価値はあるので、機会があれば手にとっていただきたい。
※ 鏡でみる自分の顔と、写真に写る自分の顔は違うという認識のもと。写真に写っている自分すなわち真実の姿なのだが、わたしはそれを絶対に認めたくない。有難いことに、人間の脳は忘れるという機能を持っている。人間には救済の道がおのずと開かれているものなのである。




