Xマスをエックスマスと読んだ、の段(激論注意)
この文字を見たとき、数秒間、本当にまったく理解できませんでした。わたしの頭にはマス目が浮かび、方眼紙の束がパラパラとめくられ、次いで京都市内地図の碁盤の目を思い描き、その後ものすごく唐突に、「……あっ!! クリスマスかっ!」と閃いたのです。これはもう、脳科学で言うアハ体験に相違ありません。ええ、脳ために非常に良い運動をいたしました。
さて、クリスマスについて思うことがひとつ。
少々熱がこもっておりますので、議論が鬱陶しいと思われる方は、お読みになることを避けてください。
問題とは、そもそも何であるかということをきちんと把握しなければならないという主張です。
そのことを把握しているうえで、嘆いたり、浮かれたり楽しんだりするならば、別段問題はないでしょう。
物事を考えるうえで、前提を正すということが重要です。
ある物事に関してある主張があったと仮定します。
その主張の是非をいう前にまず、その物事はそもそも問題になり得るのか、議論するに値するのかを検討することが必要です。「本当にそうか?」と常に疑いを持つということです。
そして、その物事の抱える問題は何であるのかを掴みます。その物事に問題を発見したとして、では何にとってどう問題であるのかその問題の対象となるもの・問題を及ぼすものを多角的、多面的に検討したうえで、ある物事のある主張に関して自分の意見として提示します。
そのとき初めて、ある物事のある主張について是非を述べることができます。その主張自体を、問題になり得ないとして退けることも可能です。
可能、というのは自分の意見を提示するために、 議論の段階を踏んでいることを前提としています。この段階すべてをすっとばして、ある物事のある主張の是非を問う、あるいはある物事のある主張をするということはできないのです。
ようやく本題です。
「クリぼっち」なる言葉がここ最近出現して参りましたが、クリスマスを一人で過ごすことの一体何がどういけないのか教えてほしいですね、クリスチャンの方以外はイベントと化しているこの日本において。
普通に仕事してたわ! って話です。
まず日本にはクリスマス休暇がないし、クリスマスが平日(あるいは勤務日)だったとして、仕事をして疲れているのにわざわざ平日(勤務日)の夜に時間を割いてまで誰かと(主に恋人と)義務的に会うだなんて、非生産的だというのが所見です。
わたしが言いたいのは、クリスマスを一人で過ごすことがまるで恥で悪のような扱いをされている、あるいはそのことを面白がったりする風潮があることに憤りを感じているということです。それが世間の総意であるかのように言われることも。もちろん、楽しくクリスマスを過ごす方がいることに何の異論もありません。
ただなぜ、そう画一的にクリスマスを過ごすことが良しとされているのか甚だ疑問です。
わたしはクリスマスの意味を知ってから、なんとなくそのように疑問を抱くようになって、最近の「クリぼっち」という言葉の出現によってそれはピークに達しました。随分と長い間、クリスマスの過ごし方に潜在的にどこか抵抗を覚えていましたが、ここにきてなんか、最近の風潮にキレました。
個人的に、それどころではない差し迫った問題を抱えているときに、「クリスマスを一人で過ごす人の割合は何パーセントです」などとテレビやネットで報道されているのを見ると、「いやいや、だから何? それはそもそも問題であるのか? だとしたら問題提起は一体どういったものになるというのか」と問い質したくなるのです。この場合は虫の居所が悪かったんです。しかし、指摘すべきことはやはり存在しています。
物事の本質をとらえないまま、本質が何であるかも定かでないままに、あることの現象や事象について善悪・優劣を決めてしまう(または善悪・優劣がその現象や事象において存在していると決めてしまう)ということは、非常に問題です。
クリスマスを一人で過ごすことを揶揄するような風潮があったり、誰かと過ごさねばならないような強制的観念が世間に存在していることが、そもそも歪なのです。
テレビやネットで、その歪さが特に指摘されずに当たり前のようにクリスマスに関する報道がなされていることに違和感を覚えます。さらに、クリスマスを迎えるまでは盛んにそれらの報道がなされているにも関わらず、クリスマスが過ぎると何事もなかったかのように、クリスマスに関しての報道がなくなることに益々もって寒気がします。
物事を考えるうえで、前提を正すということが重要です。それを忘れないならば、不毛な議論に惑わされることはありません、という話でした。
ご清聴ありがとうございました。
以下は、怒りに任せて羅列した論点です。
いろいろ粗がありまとまっておりませんが、参考までに。
読まなくてもいいです。疲れます。
★「クリぼっち」の一体何が問題なのでしょう。
・ まず、「クリぼっち」とはどのような状態を指しますか?
クリスマスを一人で過ごすと定義します。
では、「クリぼっち」の何が問題ですか?
クリスマスを共に過ごす恋人がいないことですか? 友達がいないことですか? 家族がいないことですか? 何の予定もないことですか?
・ では、以上のことと仮定して、それはどう問題であるのですか?
まず、恋人・友達・家族がいないというのはどのような状態を指しますか?
恋人がいない: 好きな人がそもそもいない状態。好きな人はいるが片思いである状態。好きな人には別に想う相手がいる状態。「恋人」という肩書きを持つ人がいない状態。以上を含めて、恋人を必要とするとは思わない状態。
友達がいない: 友情を感じる人がいない状態。友人というものが経験上存在しない状態。友人はいるが該当の日に共に過ごす約束がない状態。
家族がいない: 略します。
・ 以上のことを踏まえたうえで、どう問題であるのですか?
恋人・友達・家族がいないという周囲への体面的な問題ですか?
社会生活に馴染むことができず、周囲の誰とも良好な関係を築いてこれなかった結果という社会的な問題ですか?
また、何の予定もないというのは、人間の存在意義に関わるような尊厳の問題ですか? あるいは体面的な問題ですか?
・ では、周囲への体面的な問題は、どうして起こるのですか? またどのような場面で起こりますか? 地域・国別での世界的な事例はありますか?
・ では、周囲の誰とも良好な関係を築いてこれなかったという問題は、どうして起こるのですか?
・ では、予定がないというのは、人間の尊厳に影響するものですか? それはどのように人間に影響しますか?
・ では、クリスマス行事と人間の尊厳には相関関係はありますか? それはどのようなものですか? 相関関係があるとして、その論拠は何ですか? 地域・国別での世界的な事例はありますか?
・ そもそも、クリスマス行事とは何を指しますか?
・ 以上のことを以って、「クリぼっち」と「クリぼっち」でないものとの間に優劣は存在すると言えますか? 存在するとした場合、その判断を有効とする論拠や規範は何ですか?
……もういいわ、バカバカしいわ! やってられっか!
とまあ、こんな感じに論点が次々と浮上するので、考えるだけ不毛というものです。
ですから報道というものは、少なくとも以上のような疑問を解消し、この議論を論破するだけの根拠を持っていなければしてはならないと思うのです。
もういい、もう本当に疲れた。いかに「クリぼっち」を取り巻く環境がバカバカしいかお分かりいただけたと思います。
お読みくださり、誠にかたじけなく存じます。




