おおかみさんと少女
この作品は、映画『A.I』の十分の一でもいいから人に感動を与えたくて書いたものです。皆さんの胸の奥にじんっと来てくれれば幸いです
その国には狼がいた。
狼のその毛は月の光で白銀の波を打ち、その目は毛皮と同じ色に輝きを放っていた。
人々はその美しい生き物を恐れながら生きてきた。
時には弓をもって狼を射殺し、時には槍をもって突き殺し、時には剣をもって斬り殺していた。
そうしていつしか人は、恐れる者から恐れられる者へと成り代わっていった。武器を持ち、罠を仕掛け、追い込み、狩っていった。
狼はいつしか姿を消しはじめ、人々の中から不安が消えてなくなった頃、彼らはそこを突いた。自分達のことを忘れはじめた人間達に報復をするために。
一匹の大きな狼が、小さな岡の上でないた。それを合図に近隣の森から狼達が大きな狼のもとに集まりはじめた。その数はかなりのもので、あたり一面銀色の草原と化したかのような光景だった。
彼らが目指すは人間達の街。大きな狼の一声で銀の草原は風のように移動を開始した。まるで川が流れるかのように。
「何? やぁねぇ。昼間から犬が鳴いてるの?」
家の前で隣人と話をしていた女性が遠吠えが聞こえたほうを向き言った。隣人は首を傾げた。
「犬ってあんな鳴き方でしたっけ?」
二人の女性が同じ方向を向いた。銀色の川がこちらに向かって流れてきている。
「な、なにあれ!」
銀の川は街のなかに流れ込んできた。通り過ぎざまに人を食い千切りながら。
二人の女性は悲鳴を上げ、狼達の牙と爪の犠牲となった。
狼達はいくつかに分かれ、街の中を駆け回る。通り過ぎざまに人を食い千切りながら。たとえ女子供でも容赦はない。彼らもまた、子供や妻や夫や友や仲間を人間に殺されているから。同じ苦しみを。狼達の心はみな同じ、その一言。
「助けてくれー!」
「あなたー!」
「マ、ママ!」
「うわあぁ!」
「キャァァ!」
色々な声を飲み込みながら銀の川は流れ続ける。
兵隊が武器を持って狼達の前に立ちはばかる。矢を放ち、槍を突き出し、剣を振るい狼達を次々と血肉の塊にしていく。
人間は強かった。百以上いた狼達があっという間に射殺され、突き殺され、斬り殺されていった。
特にボウガンという武器が強かった。矢を放ったかと思うと、すぐに引き直しまた射ってくる。狼達は立ち向かい、道連れを試みるが無理だった。
気が付けば、全滅。ただ一匹を残して。
兵隊は一匹残ったことを知らない。残った一匹は建物と建物の間に潜み、その銀色の毛皮に泥を塗り茶色にし、その瞳から銀の輝きを消して、そう、その狼は犬に化けたのだ。
そうして射られ、突かれ、斬られたその傷を静かに癒すのだった。
静かに、犬のように……
「わぁー! いぬさんだ!」
犬に成り済ました狼の耳に可愛らしい少女の声が聞こえてきた。狼は餌を取るとき以外あけることない、わずかに銀色が混じった白い色の瞳の目を開けた。
「いぬさん、怪我してる。痛い?」
少女は近づいてくる。
「我に近寄るな」
狼はそう言った。
「いぬさん喋れるの? すごいねぇ!」
少女はさらに歩み寄る。犬に成り済ましているとはいえ、それは遠目で見た時の話で、近くまでこられると銀色の毛皮を隠し切ることはできない。
殺してしまおうか
狼はそう考える。少女は徐々に近づいてくる。狼は歩数を数えた。
あと三歩
あと二歩
あと一歩
狼は飛び掛かり、少女を押し倒し、四脚で器用に少女の手足を押さえ、その牙を喉仏に添えた。
一咬みで終わる。だが、狼は牙を少女の細い首から離し、その白銀の輝きを取り戻した瞳で顔を覗き込んだ。
「いぬさん、お腹すいてるの? ルミを食べるの?」
少女は泣くまいと唇を噛みながら目に溜めた涙をこぼさないようにしている。肉球を通して少女が震えているのもわかる。恐いという感情が全身から伝わってくる。
「食べられたら痛いかな? 痛いのやだよぅ……」
少女の目に溜まっていた涙が限界に達しこぼれた。目を閉じた。狼には恐怖を押し殺しているように見えた。
狼は少女の上から下りて、解放した。そしてもとの場所に丸まって伏せた。そして目を閉じた。
少女は涙の筋を付けながら起き上がった。
「いぬさん、ルミを食べないの?」
狼は内心驚いた。恐怖して逃げ出すならまだしも、自分を食べないのか、などと聞き返してきたのだから。狼は目を閉じたまま答えた。
「我は鼠を食すが人は食わぬ」
少女はうれしそうに少し笑ってみせた。狼は目を瞑っていたがわかった。
少女が近づいてきて、目の前でしゃがみこんだ。
「いぬさん、本当はおおかみさん?」
少女はわずかに見える銀の毛を見て尋ねた。狼は感じた。少女がまだ少し震えていることを。
「ああそうだ」
狼は感じた。少女の恐怖心が増したことを。狼は目を深く閉じた。
まったく馬鹿なことをした。犬だと言っておけばよかったものを……
狼は死を覚悟した。少女が他の誰かに、自分がここに隠れていることを伝えるに違いない。そして兵隊が来て自分を殺すに違いない。そう考え、思考を停止させた。死ぬことを考えても仕方がない。そう考えたからだ。
しかし、その狼の予想は大幅に外れた。
暖かく、小さな手が狼の頭をなでる。狼は目をうっすらと開けた。少女が怖がりながら頭をなでている。
しばらくして、少女の表情は恐怖からやさしい笑みに変わっていった。狼はその表情の変化を見届けたあと再び目を閉じた。
「おおかみさん、きれいな毛だねぇ」
少女の言葉から恐怖による震えが無くなり、代わりにやさしい笑みが加わっていた。
「恐くはないのか?」
狼は尋ねた。
「うん、恐くないよ」
少女は笑顔で答えた。しばらくなでたあと、狼の隣にちょこんと座った。
「おおかみさん、お名前は?」
少女は笑顔で尋ねてきた。その顔には恐怖はなかった。
狼は考え込んだ。はて、名などあったろうか。たかだか狼一匹の分際で個別の違いを分けるためのものがあったろうか。そして、狼は答えた。
「名はない。付ける必要もない。狼と呼ぶがいい」
少女は一瞬、悲しそうな顔をしたがすぐに笑顔に戻した。
「じゃあおおかみさんって呼ぶね。おおかみさん、私はルミっていうの」
尋ねてもいないのに。狼はそう思ったが、とりあえずうなずいた。
「あは! じゃあこれでルミとおおかみさんはお友達だ!」
少女は狼の前脚をつかんで振った。握手のつもりらしい。
「よろしくね、おおかみさん」
狼は尻尾を振って答えた。狼は、尻尾を振りながら考えた。
この子が隣に並んで座っていれば、誰から見ても我は犬に見えるだろう。しばらくは時間が稼げるな
次の日、ルミが来た。
「こんにちは、おおかみさん」
狼は尻尾を振って答える。ルミは隣に座ってパンを狼に差し出した。
「おおかみさん、お腹すいたでしょう? これ食べて」
少女は笑ってパンを差し出す。
「我はもういい。先程鼠を食した。おぬしこそ腹がすいているのだろう。そのパンは自分で食べるがいい」
少女は頭を振った。しかし、体は正直に音を鳴らす。少女は顔を赤くしてパンを食べはじめた。
それからは少女が自分の身の回りのことを狼に話しはじめた。自分が住んでいる孤児院のこと。そこの仲間達のこと。
狼は目を閉じて聞く。ルミの話を聞きながら耳をそばだてて、暗い建物の間から見える道を歩く人々の足音を聞いた。
「それでねぇ、……どうしたのおおかみさん?」
ルミは狼が他のことに気をとられていることに気が付き、狼の顔を覗き込む。
「いや、なんでもない。それよりそのジャスミンとやらがどうしたのだ?」
ジャスミンとはルミの孤児院での友達である。
「あ、そうそう。それでね、ジャスミンがね……」
それからルミは日が暮れるまで話しつづけた。とても楽しそうに。
「あ、もう帰らなきゃ。ばいばいおおかみさん!」
手を振って走っていくルミを尻尾を振って見送る狼。そして狼は、自分が口の端を緩めていることに気付いた。
「……しばらくの間、忘れていた。安らぐという言葉を」
それは、人間達に子供を殺され、妻を殺され、親友を殺されたときから忘れていた感覚だった。出会ってたったの二日しか経ってはいない。しかし、狼にとっては時間など関係なかった。一つの事実の前には時間など小さなものだ。
明日も来てくれるだろうか?
狼は鼠を食しながら笑った。笑いながら、笑うのも久しぶりだ、と思い、さらに笑った。瞳が白銀に輝くほどに。
「先生! 街に行っていいですか?」
ルミが手を勢い良く上げ、元気に言った。
「今日もですか。街でいいことでもありましたか?」
孤児院の先生と呼ばれる人物がルミの頭をなでた。
「えへへー秘密ー。ねえねえ、行っていいでしょー?」
ルミが先生の服の裾を引っ張りながら返事を待った。
少しの静寂の後、先生がため息をついた。
「わかりました。気を付けて行きなさい」
「やったー!」
ルミは手を振り上げて喜んだ。
「(まったく。子供の泣きそうな顔はどんな武器より強いな)」
先生は困った顔で、昼食のパンが入った小さなバスケットを抱えて走っていく小さな背中を見送った。他の子供たちがまわりを囲んでくるまで。
狼は耳をそばだててじっとしていた。兵隊を警戒しているのもあるが、何よりもルミが来ないかと足音を聞き分けているのだった。
小さな足で一生懸命に走る足音が聞こえてきた。狼は耳をピクンと動かした。口の端が緩む。狼はそれを尻尾で隠した。
「おおかみさん、こんにちは!」
ルミは元気よく、小さく、強くあいさつをした。
狼は尻尾を振って答える。
ルミは狼の頭をなでた後隣にちょこんと座り、昼食のパンを食べはじめた。
今日はめずらしく鼠を捕らえることができなかった狼は、その様子を想像しないように努めたが音が出てしまった。ルミはパンを食べる手を止め、心配そうに狼を覗き込んだ。
「お腹すいてるの? 食べる?」
半分ほど残っているパンを狼に差し出す。
「我は一食くらい食わずとも平気だ。気にせず食べるがいい」
狼は嘘をついた。一食ではない。昨日の夜も鼠を一匹しか食べていない。傷を癒すために栄養を使っているため、一食でも抜くのは致命的である。
ルミはそれを見抜いたのか、首を横に大きく振り、パンを狼に押しつけた。
「ダメだよ食べなきゃ! 死んじゃうよ!」
狼は仕方なくルミのパンを口に頬張る。狼は涙を一筋流した。申し訳なく思い、心が痛んだ。
「どうしたのおおかみさん? 悲しいの?」
ルミがさらに心配そうに狼の顔を覗き込む。
「いや、うれしいのだ。パンをありがとう」
狼は笑ってみせた。目を大きく開き、白銀に輝かせ、笑った。ルミも笑う。
それからルミは話しはじめた。孤児院での今までの生活のこと、昨日のこと、そしてこれからの夢のことを狼に語った。
「大人になったらね、先生みたいな人になるの。それでね、先生とけっこんするの」
とても楽しそうにルミは話し続けた。狼も丸くなりながら、口の端を緩ませていた。
「あ、もうこんな時間だ。おおかみさん、ばいばい!」
ルミは小さなバスケットを持って手を振りながら走っていった。狼は尻尾を振って見送る。
幸せとは、あらゆる形で存在するのだな
狼は、今までの幸せな時間を思い出した。妻と子供達に囲まれてじゃれあったこと、中間達と過ごした時間、何よりも妻と出会えたこと。狼は笑った。笑って、その思い出のページのなかにルミと出会えたことを加えた。
それから一ヵ月ほど同じようなことを繰り返してきた。ときにはルミが孤児院の仲間と喧嘩して狼のもとに泣きにきたこともあった。こない日もあった。雨の日や、風の強い日などがそうだった。
狼の怪我はもうほとんど完治していた。しかし狼はそこから動かなかった。ある日ルミがなぜかと尋ねたとき、『歩き方を忘れた』と嘘をついてルミに心配された。
本当は、ただ単にルミに会いたいだけだったが、そんなこと面と向かって言えることではない。
「おおかみさん、寒くないの?」
ルミは、皮のマントを頭からかぶりながら尋ねた。
「我は毛皮に覆われている故平気だ。おぬしこそ寒かろう。あまり無理をして体を壊してはいけない、暖かくなるまでここには来るな」
狼は言った。本当は毎日でも来てほしかったが、それ以上にルミに無理をさせたくなかった。
ルミは小さくうなずいた。
「さあ、今日はもう帰るがいい。寒くなる」
ルミはしばらく渋ったあと、立ち上がった。
「うん、ばいばいおおかみさん」
ルミは名残惜しそうに小さく手を振って走っていった。狼は尻尾を振って見送った。
兵隊の数が増えている。見つかるのも時間の問題か
狼は一匹、丸くなった。白銀に輝く瞳で真直ぐに見つめながら。
「さて、私と一緒に街へお買物に行きたい人」
誰も手を挙げない。無理もない。そとは雪が降っている。
「やれやれ、寒がりですねみん……おや?」
先生が見ているほうをみんなが見る。ルミが必死に手を挙げていた。
「ルミさん、行きますか?」
「うん!」
先生の言葉に強くうなずくルミ。
「じゃあ決まりですね。じゃあルミさん、着替えていきましょう」
先生とルミは防寒着に着替え、孤児院を出た。
街はいつも賑やかだ。だが、今日はいつもと違う。雰囲気が違う。
ルミは不安になった。話をする人々の口から狼と聞こえてきたからだった。ルミはたまらず、繋いでいた先生の手を引っ張った。
「どうしました?」
先生はルミの様子がいつもと違うことに気付いた。
「あっちにいっていいですか?」
先生はルミが指差す方を見て、ルミを見る。
「そうですか。では一緒に行きましょう」
先生が言い終わるか終わらないかのうちにルミは走りだした。
いつも建物の間に狼がいた。その建物の正面の道に人だかりができていた。
「何があったんでしょうか?」
ルミは目を大きく開き、顔を青くしていた。手が震えている。先生はルミの顔を覗いた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですけど」
先生は目線をルミに合わせて言った。
「だ、大丈夫です」
ルミは小さく答えた。
「そうですか」
先生は背筋を伸ばした。そして、近くの人に尋ねた。
「何があったんですか?」
すると、その人は振り向き言った。
「前に街を襲った狼の生き残りが見つかったんだってよ」
ルミはその言葉にすぐに反応した。先生の手を振りほどき人だかりのなかに飛び込んでいく。
「ルミさん!」
先生も急いで追い掛けた。
ルミは人だかりを抜けて、木の柵の前に出た。木の柵の向こう側には兵隊がいた。その足元には、全身に数十本もの矢が刺さった狼がいた。
「おおかみさん!!」
ルミは柵をくぐり抜け狼のもとに走っていく。
「君、近づいてはいけない!」
兵隊の一人がルミの腕をつかんで止める。
「はなして! いや! おおかみさん!」
ルミは防寒着を脱ぎ捨て兵隊の手から逃れた。
「おい! 止まらんと射つぞ!」
ヒュ!
トス!
もう一人の兵隊が言うのと同時に小気味のいい風切り音と突き刺さる音が聞こえた。
風を切って飛んだ矢は、小さな体をいとも簡単に貫いた。
ルミはその場に倒れた。
「ば、馬鹿者! なんてことを……」
「あ、あぁ……そんなつもりは……」
射った兵隊は若かった。緊張のあまり指に力を入れてしまったのだ。
もう一人の白髪の兵隊はルミに駆け寄った。だが、ルミは自力で立ち上がった。
「おおかみ……さん……」
血を吐きながら、ふらふらと狼のもとに歩み寄る。狼はうっすらと目を開けた。
「馬鹿者……来るなと……言ったはず……だ……」
狼はそれを言うと、目を閉じた。
ルミは狼の上にかぶさるように倒れた。
「ルミさん!!」
柵を飛び越え、先生はルミのもとに駆け付けた。
ルミは、顔一杯に笑みを浮かべていた。
先生は静かに、目を閉じて十字を切った。
おおかみさん、これからはずっと一緒だね。いっぱいいっぱい、お話しようね。こんどはおおかみさんのお話が聞きたいな。おおかみさんのお友達のこととか、住んでたところとか、いっぱい、いっぱい……
END