Chiến Tranh Tân Tịch 新潟戦争
祖国統一戦争の後、両国にはなお戦いを求める者がいた。十年近く続き、戦乱の中で生の大部分を費やした者たちの誰もが平和へと回帰できるわけではかった。
大規模な戦乱の後では、社会の統制から外れた地域がどうしても出現する。たとえば石川から新潟にかけての領域は、久しくどの国も盤石な支配を及ぼせなかった。
かつては西日本正総理の領土だったこの地域は、李聖平の反乱による対処により東日本に編入されるが、その後のごたごたによって、帰属が未定となってしまった。一応現地の知事がいるにはいたが、東日本に対して必ずしも恭順ではなく、統一戦争においてもしばしば支援を渋った。
また大陸との密貿易の拠点であり、渡航してくる商人と政府高官との間に癒着があった。その中に参入することで利益を得ようとする者が絶えなかった。
そういった場所へと、次の立身出世の場を求める野心家が詰めかけたのである。無論それは、この地域を掌握したい東日本に対して侵犯行為を働くこととなり、甚だしい外交問題となるが、無論それを巡ってあのような惨事に繋がるのは両国にとって避けたいことだった。
大和では黎文開の死後内乱が起き、阮勇が一応の勝利者となるわけであるが、彼にはまだ全国をくまなく統治するだけに力がなく、北陸へ駆け出す者たちを制止するだけの余裕はなかった。ゆえに、これを単なる移住者による自発的な土地の開拓として処理することに尽力した。
何より、戦争そのものが終わっても憎しみは続いた。
国境地帯で敵と睨み合ううちに、腹いせとして小規模な戦闘を続けないわけにはいかなかった。そしてその衝突が戦争の形にまで発展したのが新潟戦争だった。
新潟と国境を接していたのは東夷のヒメネスが総督に任命された山形自治領(Estado autónomo de Yamagata)である。この国は東日本の自治体でありながら比較的広範な自治権を有しており――日本全土が四分割された時から、旧来の自治体の権限はさらに縮小されていた――西日本の独立以降はその動向を常に監視していた。
山形の背後にあるのは無論秋田自治領(Estado autónomo de Aquita)である。
同じ東夷の国とはいえ、秋田は必ずしも山形の味方ではなかった。同じ東夷の自治領とはいえこの二国は性格がまるで異なっていた。
山形は領土が狭いこともあり混在を避けることができず、現地民との融和を目指していた。ヒメネス自身は日本人の女性との間に子を設け、側近にも日本人との結婚を奨励した。ゆえに、世代が下ると山形の東夷はアジア系の外見を持つ者が多くなっていった。
秋田は東夷とアジア人との交流を避けていた。一部の都市にのみ東夷が集中的に居住し、少数の東夷が大部分の日本人を支配する構図が成り立っていた(青森県が秋田自治領に編入されたのは東岸にあった居留地を一つにまとめ、できるだけ雑居的状況を是正したいという事情があった)。
68年、山形は新潟県境に前線として都市アスンシオン(Asunción)を建設。同年、佐渡島のいくつかの拠点の使用権を東日本から譲り受けた。東夷は佐渡島のことをヌエバ・テネリフェ(La isla de Nueva Tenerife)と呼んでおり、スペイン語による地名がいくつか現地に残っている。望まぬ強制移住をさせられた身の上のために、彼らの望郷の念は強かった。
70年、大和軍に阮義信(Nguyễn Nghĩa Tin)が数千人の郎党を引き連れ、新潟へと乗り込む。彼の軍勢には日本人も越南人もおり、決して統制のとれてはいない雑多な集団だった。
阮義信という人物については謎が多い。生粋の越南人ではないという説もある。
彼らはまず乗り越えねばならなかった俱利伽羅峠を、先祖の故郷にちなみ、海雲峠(Đèo Hải Vân)と呼んだ。
かつて、この地域を治めていたのはバングラデシュ出身のビスワルプ(Biswarup)という人物である。彼は30年、賃金の未払い、敦賀に残した親類が虐待されていることを理由に一時群馬近郊にまで進撃したこともある(東日本に矛先を向けたのは西日本政府に訴えても取り合ってもらえない、という事情があってのことだった。また李聖平の反乱の際、東西政府が迅速な対応が取れなかったのはこの事件による動揺があった)。しかしビスワルプの死後は彼のように敏腕に治められる者がおらず、次第に東夷や他県からの流民が次第にはびこるようになる。
義信が乗り込んだ際には、兄弟ウマル(Umar)とアブーバクル(Abubakr)の間で争っている状態だった。義信はアブーバクルを支援し、彼を大和に高官として取り立ててもらうことを約束した。
このようなことは東日本と、その藩屏たる山形自治領にとってはゆゆしき事態だった。再び戦争の火種となりかねないからだ。
新潟における大和軍の侵入の報告を受けたイグナシオの息子ホセは、東日本に出兵許可を請い、承認される。そしてウマルを正式な新潟県知事として認定する共同声明を出した。
これは辺境の紛争の体裁を取った、事実上の祖国統一戦争の続編だった。
山形軍の斥候アドルフォ・ガリンド・マルケス(Adolfo Galindo Márquez)が中立地帯の付近にて大和軍の宿営地を発見。最初は簡素な小屋や田畑を設け、小銃を携えて敵を警戒する程度であったが、一度境界線をめぐって東夷と大和人に間で銃撃戦があり、中立地帯を設定したもののなお対立は収まらず、次第に二国の対立となっていった。
大和側では、山形と秋田は東夷に支配されており、彼らから現地住民を解放するのは使命であるという発想があった。
大和は、東夷による占領に抗議するという名目で、そして新潟が大和の前身である西日本の領土であったという事実を持ち出し、日本人の持っている土地が大和に帰属することを主張した。
75年、アブーバクルが病没した。これによって大和側は大義名分を失うが、なおも新潟の利権を維持したいがために支配をつづけた。ウマルの方ももはや争いがこじれていくのを座視できず、支配権を東日本に返上することをたくらんだ。あくまで地方勢力でしかない山形としては、新潟全土の併合など望んでおらず、あくまで新潟を知事による独立国家として維持したいという考えがあった。
だがウマルは東日本と大和の両立こそが国家の要であり、そこに地方勢力の成立する余地などあってはならないと反発した。そしてそのまま大和の方へ亡命してしまうと、そのまま敦賀にまで落ち延びた。
これはすなわち、地方にどれほどの独立性を認めるかという議論であり、その後、秋田と山形が自治権を剥奪され、東日本の自治体に戻っていく過程においても、重大な問題として残り続けることになる。
76年から次第に情勢は大和に有利となる。かつての中立地帯を占領してしまった大和は、新潟の大半を支配しようとしていた。しかし、新潟を正式に組み込むべきかどうかまでは中央政府でも紛糾していた。大和としてもまだまだ建国から間もなく、全国を十全に支配できるわけではなかった。新潟は東日本に属している以上、それを奪ってしまえば開戦の口実を与えることとなり、全面的な戦争に再び発展させてはならないという意見が根強く存在した。
77年末から78年初にかけては極寒であり、一時戦闘が中止される。
78年六月四日、山形軍は魚沼において戦い、敗北する。これ以後、新潟住民が大和側になびき、次第に情勢は大和に優勢となる。
山形は大和からの本格的な侵略に備え、現地住民を北部へ退去させた。
義信は戦争の終焉を見ずに病没する。この頃になると阮勇にも新潟情勢に介入するだけの余裕ができており、いかに有利な状況で山形との講和に持ち込むかで苦慮していた様子がうかがえる。
秋田は、山形への援軍を渋った。新潟に近い山形の街ロス・サントス(Los Santos)で、山形の東夷が秋田の東夷を相手に強盗を働く事件があったが、その際山形側が秋田側に犯人引き渡しを拒否する騒動があり、これにより秋田は山形への援軍をしぶった。山形への援軍を差し止めするように願い出たのは秋田の総督に仕えていた中村トマス。父が東夷の高官であり、この男は比較的に日本人の中でも目をかけられていた。
この二国では、住民をイスパノアメリカでの人種的分類にあてはめ、純血の東夷をクリオリョ(Criollo)といい、東夷と日本人の混血をメスティソ(Mestizo)と呼んだ。メスティソはその出自上語学に堪能であり、しばしば大和や東日本の間で通訳として活躍した。同時にメスティソは生まれからしてどうしても複雑な立場に置かれており、その時その時で主張を変えざるを得ず、トマスもまたこの境遇に葛藤する一人だった。
新潟にも往来していた山形商人の同じくメスティソ岸田アレハンドロが、このために秋田への入国をさえぎられ、甚だ苦労した様子を日記に記している。
秋田は密航者に厳しい態度を取っていただけでなく、交易その物にあまり関心を示さなかった。それは国父グティエレスからの方針であり、尚武の気風と裏表の関係にあった。
秋田は山形が失敗するのを待っていた。大和に密使を送り、山形の内情について教え続けた。
こうしたごたごたがあったため、山形は大和に対策を練る余裕がなく、しばらく戦闘は中止された。そして数年は睨み合いが続いた。その間時折東夷と越南人が手持ち無沙汰にチェスに興じるなど、平和的な交流がないわけでもなかった。
その間、佐渡島にはいまだ山形の主要兵力が集中しており、これを叩くのが大和による勝利条件だった。
85年、ついに大和軍は佐渡島に上陸する。赤泊の市街地を制圧し、北に迂回して、大和軍は逃亡を続ける東夷を追撃。北部、二ツ亀の見えるサンタ・フェ(Santa Fe)では山形軍に付き従っていた司祭が運んでいた巨大な十字架を奪った。大和軍は佐渡島原住民の支持を得て急速に東夷を追い詰めた。
そして西部のサン・クリストバル要塞に立てこもる山形軍に激しい砲撃を加えた。
有田義吉の甥、有田慎也が観戦武官としてこの戦闘に従軍しており、詳しい内容を手記に記している。東夷の兵士は勇敢だったが、敵からの砲撃の前に無力だった。
86年、激戦の末に、要塞は陥落する。大和人は、そこを越南の英雄、武元甲(Võ Nguyên Giáp)にちなみ元甲要塞(Pháo đài Nguyên Giáp)と改称。そして翌年一月から交渉が始まった。要塞司令官アントニオ・デ・コルドバ(Antonio de Córdoba)は、捕虜となりつつも大和軍に対して堂々と対等の礼により待遇される。
この際越南人と東夷との間で使用された言語は主に日本語――どちらも彼らの母語であった場合も、なかった場合もあった――だったが、外交に関する専門的な用語を用いる際はスペイン語で会話する光景が見られた。
一時は英語によるやりとりも試みられたが、流暢に話せる話者がおらず、英単語は相手の健康状態を尋ねる際など、片言でのやり取りでしか使われなかった。通訳は大和に優れた者がおらず、メスティソが務めた。
この時代にもなるとすでに東夷にも日本語に詳しく通じている者が現れていた。日常会話ではスペイン語と日本語の混成言語を話していたようだが、それは文章としては記されなかった。越南人相手には日本語で話したのは疑いない。
最終的に調印された文書にはスペイン語と越南語が使われた。
この交渉では、新潟の主権が東日本にあること、大和と山形は新潟から兵力を引いて戦争以前の状態を回復することが決められた。。
90年、大和軍はこの地域から完全に撤退し東日本の直轄領となるが、経済的な優位性を保ち続け、大和の企業がいくつかこの地域で活動することが許可されたのだった。山形は新潟での主権を失うが、いまだに勢力は健在であった。
その後、降伏した山形の東夷の中には大和か東日本に下り、そこに暮らすことを望む者がいた。
要塞の防衛をつとめていたダニエル・オカンポ(Daniel Ocampo)はもともとの所領にちなみ新発田を苗字とし、東日本に移住。
彼の子孫には、大和による東日本の合同要請を激しく拒否すべきと論陣を張った議員の新発田範平がいる。
この戦争により一層東西日本の国境線は明確となった。




