迷惑な人を見ると不快になるのはなぜか
私は興味があることを考えて、自分なりの答えを見つけるのが好きだ。楽しい。
今回は、「迷惑な人間」に対する不快感について考えてみる。
近年、訪日外国人や外国人留学生による迷惑行為がたびたび話題になっている。
極めて不快だ。
私は外国人だから不快なわけではない。
ただ、迷惑な行為をする人間が嫌いなだけだ。
――さて、今回はこの「不快さ」がどこから来ているのか、なぜそう思うのかを考える。
これから先で出てくる「迷惑行為」については、その内容までは指定しない。
これ読んでいる人が経験した「迷惑な行為」を頭に浮かべて読み進めると読みやすいと思う。
◇
さて、迷惑行為への不快感を語る前に、まずは【日本にある安心や安全は誰が作っているのか】について、個人的な見解の話をさせてほしい。
この話は、不快感を語るならとても重要なことだ。
日本は海外に比べると安心で安全だ。それは日本にいるみんながなんとなく知っているし、アメリカのように銃があるわけでもないから、衝動的な殺人が四六時中起きている、なんてこともない。
では、そんな安全や安心だれが作っているのか?
法律?警察?国家?
違う。
私たち1人1人の我慢や配慮が、
安心で安全な社会を作っている。
これはどういう事かというと、街中で「イラッ」としたり、眉をひそめるような行為を見たとき、私たちはいちいち注意をしない。
迷惑行為を私たちは我慢する。
これはいわば、社会の安全にヒビを入れる人間に対し、自身の精神的コスト(=我慢をしてストレスを溜める)を支払って、トラブルにならないように「自分の身の安全」を優先している行動といえる。
つまり、そういった私たちの小さな我慢や配慮が集まったものが、「日本社会の安心や安全」を作り出していると私は思っている。
◇
その話を踏まえてみると、私たちが迷惑行為をする人間を見たときに、それを不快に思うのは、「自身が精神的コストを支払う可能性が出てくる」からだと私は思う。
「え、でも、ちょっと待ってよ。目の前にいるわけでもない、テレビやニュースに映る迷惑な人間たちを見ても私たちは不快な気持ちになるよ?」
それについても、今から説明する。
迷惑な人間は目の前にいなくても、その話や映像を見聞きした私たちを不快な気持ちにさせる。
これは、自分たちが精神的なコストを支払い、懸命に築いている「安全な社会」に、コストを支払わずただ乗りしてくる様子は、コストを支払って「安全」を築く努力をしている私たちに、さらなるコストの支払いを予期させる。
その予期が「不快な気持ち」になるのだと私は思う。
つまり、私たちが迷惑な人間を見ると不快になるのは、「自身が支払う精神的コスト(=我慢,配慮)の痛みを感じているから」だと私は思う。
そもそも、訪日外国人や留学生のような、日本の暗黙の了解をほとんど知らない人々が、「誰かの精神コストで成り立つ安全な社会」を築く、あるいは守る一員になるのは、構造上無理がある。
そう考えてみると、悪意の有無に関わらず、予め用意された優しさや安全にただ乗りする行為が横行するのも、「安全な日本」という、そこに住む者たちの我慢でしか成り立たない、外部に脆弱な社会の仕組みを考える必然なのかもしれない。




