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誰も何も助けない街

作者: 田中葵
掲載日:2026/04/11

 ちゃんとしている人から、孤立していく。

 誰も寄りかからない社会は、誰も支えない社会だった。


 この街が「先進モデル地区」に選ばれたとき、全国ニュースで何度も取り上げられた。


 住民トラブル件数の減少。自治会負担の軽量化。非接触型行政サービスの導入。高齢者見守りのDX化。民間連携による効率的な福祉再編。地域コミュニティに依存しない、新しい自立都市像。


 司会者は笑顔で言った。


「煩わしい近所付き合いから解放された、次世代の暮らしですね」


 画面の中で、市長と大手生活支援企業の役員が握手していた。


 そのころ私は、この街へ越してきた。


 駅前には客引きも怒号もない。歩道に座り込む者もいない。深夜の騒音通報はAIが即時振り分けし、ゴミ出し違反には翌朝には注意通知が届く。役所の窓口はほぼ撤廃され、手続きはアプリで完結する。困りごとはチャットボットが二十四時間受け付け、必要に応じて外部委託会社へ連携される仕組みだった。


 清潔で、静かで、合理的だった。


 自営業の私には理想的に思えた。

 人に合わせず働ける。人に気を遣わず眠れる。誰かの機嫌や習慣に巻き込まれずに済む。


 近所の誰とも話さなくていい街。


 それは、自由とほとんど同義に思えた。


 入居時、管理会社から一冊の冊子を渡された。


> 快適な生活環境維持のため、住民同士の直接的な接触による問題解決はお控えください。

異変・騒音・体調不良者・不審者を確認した場合は、専用アプリより通報してください。




 よくできている、と感心した。

 善意の押しつけや余計な干渉が起こらない。


 人間関係の面倒を、制度が肩代わりしてくれるのだ。


 六月の蒸し暑い午後、私は玄関前で倒れた。


 三日徹夜に近い状態で仕事を終え、置き配の水を取ろうとした瞬間、視界が暗く狭まった。膝が折れ、共用廊下に身体が崩れた。遠くで自分の息だけが荒かった。


 ドアが開く音。


 誰かが出てきて、立ち止まった。


 数秒後、スマートフォンの通知音。

 またドアが閉まる音。


 別の住人も通った。

 こちらを見て、足早に避けていった。


 さらに数分後、館内スピーカーが流れた。


> 体調不良者対応の通報を受理しました。担当スタッフが到着するまで、安全距離を保ってお待ちください。




 安全距離。


 私は笑いそうになったが、喉が動かなかった。


 十分後、業務委託の救急補助員が来た。名札には地域ケアパートナーとあった。若い男は手袋をつけ、タブレット端末を見ながら私に質問した。


「本人確認できますか。保険連携されていますか。緊急連絡先の登録はありますか」


 ありません、と答える前に吐いた。


 後日、管理アプリに通知が届いた。


> 共用部での緊急搬送が発生しました。再発防止のため、健康管理にご留意ください。

なお、対応費用の一部は利用者負担となります。




 私はその画面を閉じ、初めて知った。


 この街では、助け合いは残っていた。

 ただし、月額課金制だった。


 私は笑った。声は出なかった。


 その日から、この街のことを調べ始めた。


 行政サイトには誇らしげな数字が並んでいた。犯罪発生率の低さ。住民トラブル件数の少なさ。自治会参加に依存しない先進的コミュニティモデル。自己完結型ライフスタイル満足度。


 別の資料には、小さな文字でこうあった。


 孤独死の発見平均日数、全国上位。

 行方不明届未提出率、高水準。

 自殺率、県内最多。

 精神科初診待機期間、三か月超。


 私は画面を閉じた。


 この街では、困っている人が少ないのではなかった。

 困っている人が、見えなくなるのだった。


 ある夕方、スーパーの前で老人がしゃがみ込んでいた。買い物袋から長ねぎが転がり、車止めにぶつかって止まっている。通行人は流れるようによけていく。誰も乱れない。誰も立ち止まらない。


 私は老人に近づき、袋を拾った。


「立てますか」


 その瞬間、周囲の視線が集まった。


 迷惑行為を見る目だった。

 規則を乱す者を見る目だった。

 関わるべきでないものに関わった人間を見る目だった。


 老人は震える手で私の腕をつかみ、小さく言った。


「すみません」


 謝るのは、この街では助けられる側なのだ。


 数か月後、駅前に大きな広告が立った。


> 誰にも煩わされない、成熟した都市生活へ。

自立した大人が選ぶ街。




 その下を、多くの人が無表情で通り過ぎていく。


 みな、ちゃんとしていた。

 みな、静かだった。

 みな、誰にも迷惑をかけなかった。


 そして、誰も何も助けなかった。

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