第九話 零秒更新と三者デート会議
朝の観測窓は、雨の前ぶれみたいにしんとしていた。数字の雨は降っているのに、音が薄い。
女神ミナの声が、指輪の内側で一段低い。
『二回目さん。今日は“零秒更新”が来ます。ズラさない、ズレない——同時』
「更新に遅延も前出しもない?」
『はい。普通はありえない。人の手癖は時間に表情を付けるから。……無表情は、人の手じゃないか、非常に訓練された人の手』
板の端で、小さな記号が光る。アジャスターの“/∠”に、さらに縦棒が一本、添えられていた。
縦棒。無音の合図。
アリアが横から見て、扇をひとふり。
「“署名の署名”。沈黙して見ろという意味かもしれない。——午前の更新は監視強化。午後は“合意書の初運用”よ」
「初運用……って、まさか」
「三者デート会議。公開範囲は内側。条文の“試運転”をする」
女神が小さく笑う。
『管理者としても、当事者としても、楽しみです』
「楽しみの種類が混ざってる」
『混ぜるのは文明です』
◇
零秒更新は、予告通り無音で起こった。
日の出の瞬間、数字の列が一斉に一歩前へ出る。遅延なし、前倒しなし、誤差なし。
観測窓の補助線は、逆に波を立てた。
均一は、気持ち悪い。生き物である都市は、むしろわずかな揺れを必要としている。
「誰かが“ゆらぎ”を殺している。——アリア、城下の市場、午前の拍が変になる」
「分かる。ユノを市場へ。あなたは監査室、私は王都法務に“零秒対応の臨時条項”を起こす」
「承認。ガイルを門に。列の拍を“わざと”崩して、ゆらぎを戻す」
『連絡済。——アジャスターは沈黙。けれど“縦棒”は彼/彼女の仕様。見ろ、だけ』
見ろ。
見るなら、“差し引き”で見る。
俺は乱数ゆれレポート/監査版の余白に、一行だけ書き足す。
ゆらぎ=免疫。零秒は免疫不全。
◇
市場。
ユノが白い衣で路地の角に立つだけで、空気は“ちょっと生き物”を取り戻していく。
八百屋の値札が揃いすぎており、パン屋の窯出しが秒単位で揃い、物売りの呼び声が同じ句読点で揃う。
均一は立派だが、客足が鈍る。人は“選びたい”生き物だから。
「十拍沈黙」
ユノが手で示す。
俺は呼び声の台本を、半文字ずらす。
「——『焼きたて三枚、もう一枚はおまけ!』」
本来、焼き上がりに余裕がないのに、おまけが混ざる。
パン屋は笑って、半ば呆れて、でも一袋に小さなパンを押し込む。
均一の列に、一粒の不揃い。
八百屋の値札に“本日、曲がったきゅうり割”が出る。
ゆらぎの誘導。
市場の拍が戻り始める。
『良。零秒の無表情に、人間の照れを足すのは、最短です』
「照れは資産」
『はい。——それと、正午の“零秒”。もう一発、来ます』
正午きっかり、鐘が鳴った瞬間に神託掲示板がまた無音で動き、補助線に短い棘が走った。
強い。
動機の種類が、政治じゃない。たぶん、“実験”。
俺は指輪を撫で、〈再挑戦〉を一度だけ考え——使わないに置く。
今日の一回は、夜のために。
◇
午後。三者デート会議。
場所は王城の屋上庭園。風が抜ける。誰にも見られない。公開範囲=内側の運用試験。
机には合意書の写し、薄い茶、焼き菓子。
アリアは青の軽装、ユノは練習帰りの白、女神は指輪の中でわりとはしゃいでいる。
『本日の議題は三つ。
1:公開範囲の確認。
2:優先順位第四条の具体運用。
3:デート計画の最適化(移動導線・混雑回避・甘味の選定)』
「三つ目の圧が強い」
『重要です』
アリアが微笑む。「まず一。公開は条文のみ、当事者名は非公開——全会一致」
ユノが頷く。「承」
俺も「承認」。
次、第四条“人命>国家>個人の情”の具体運用。
「例えば、零秒更新で市場が冷える。私たちのデートの途中でも、あなたは市場に拍を置きに行く」
「行く。合意の上で」
「いいわ。……そのとき、連絡の文面を固定したい。『十拍沈黙ののち、現場へ向かう。戻りは夕刻。甘味は持ち帰る』」
女神が拍手。
『文明!』
「文明に拍手しないで」
『します』
最後、三。デート計画。
アリアが地図を広げ、「移動導線は風上から八の字に」と言い、ユノが「甘味は並ばない店」と言い、女神が『三人で沈黙十拍ができる店』と条件を積み上げる。
当たり前だが、全員、強い。
俺は合意書の余白に小さく記す。
デートの定義=三者とも快+拍が揃う+途中で“公務”が割り込める柔らかさ。
「それで——行き先は?」
アリアの視線。
ユノの視線。
女神の視線。
「市壁の上」
二人が少しだけ驚いた。
市壁の上の細い遊歩道は、風が通り、屋台の拍が見える。混雑は少ない。公開範囲は自然に遮断され、何より——パトロールの導線に近い。
「人命と国家の間に立てる。甘味は、上から受け取る」
『効率が良すぎて可愛いです』
「褒め方の方向、ずれてない?」
『ずらしました』
◇
夕暮れ、三者デート会議 in 市壁の上。
屋台から竹籠でつり上げる方式の甘味(落ちないように紐を二重に)と、十拍沈黙ができるベンチ。
風で髪が揺れ、街の拍が見える。
零秒更新の舌の痺れは、まだ残っている。
だが、屋台の呼び声に“照れ”が戻り、子どもが太鼓をわざと半拍遅らせ、誰かがパンを一つ余計に袋に入れる。
都市が、生き物に戻る。
「——よし、条文どおり、『十拍沈黙』」
三人で数える。
沈黙は、思ったより甘い。
十拍の後、アリアが小さく笑う。
「あなたの“最善は恥ずかしい”は、食べ物に移るのね」
「移ります」
「良」
ユノは一口で甘味を消し、風を指で測る。
女神が囁く。
『今、北門の上で、零秒が三度目』
風が、サッと冷える。
市壁の向こう、北の野に、灰色の点が一列。行列。
祠の“ゆらぎ”が消え、道の“揺れ”が消え、人々の歩幅が揃いすぎている。
零秒は、人の行列にも来た。
「——合意どおり、行く」
三人は立ち、甘味の残りは竹籠で店に返す。
市壁の上を北へ。踵は鳴らない。
◇
北門上。
行列の先頭に、無表情の男がいた。
歩幅、均一。まばたき、均一。
腕に巻かれた革に、細い金属片の束。
アリアが扇の先で示す。「同期器。人の歩を“合わせる”ための簡易祭具。……軍用の規格に似ている」
「誰の手?」
「まだ読めない」
ユノが一歩進む。
白い衣の袖が、風を切る。
無表情の男はユノを“見ない”。
見ない相手は、ユノの剣では斬りにくい。剣は、見合っている相手にいちばん効く。
「十拍沈黙」
俺が言う。
行列は止まらない。止まらないことが目的だから。
なら、拍を——移す。
「列の右、三歩目の人。あなたの靴紐、解けかけてる」
男が視線だけ、爪の先ほど動いた。
同期が、崩れる。
続けて、別の人へ。「左肩の荷、傾いてる。一息、置いて」
さらに別の人へ。「前の人の背に、手、届く?」
人は、自分を見れば、列から半拍だけ外れる。
半拍外れが、連鎖する。
行列の拍が、生き物に戻り始める。
『同時に、観測窓。零秒の“足”が切断されていく。あなたの声が、同期を“雑音化”している』
「雑音は生命」
『はい』
無表情の男が最後に残り、革の同期器の針金を指で弾いた。
その一拍で、ユノが袖の内で針を折る。
男の目が、初めて“見た”。
ユノは静かに言う。
「人は同じ速さで歩かない。歩かせない」
男は踵を返して逃げる。
追わない。
目的は、拍だ。
アリアが深く息を吐き、扇を閉じた。
「誰かが、あなたの“ゆらぎ”に興味を持ち、殺しに来た。——ならこちらは、“ゆらぎ”を制度にする」
「制度に?」
「“ゆらぎ許容量”の定義を王都法に入れる。神託掲示板の更新、検閲、行列、舞踏会のテンポに至るまで、均一禁止を明文化」
『文明!!』
「ねえミナ、文明に騒ぐのやめない?」
『やめません』
笑いで、風が戻る。
アジャスターの“縦棒”が観測窓にもう一本添えられ、今夜の会話は『読んだ』で締められた。
◇
夜。
屋上庭園に戻り、三者デート会議は再開。
甘味は溶けかけていたが、溶けかけも良い。
アリアが合意書の余白に条文案を書き足す。
第十条(ゆらぎ条項)
都市生活の主要な拍(神託更新・検閲・祭祀・舞踏・行列)の均一禁止を原則とし、許容量を**%で定める。
当事者は必要に応じ、十拍沈黙ののち、ゆらぎを与える行為**を優先できる。
「“与える行為”って、いい言い方だ」
ユノが短く頷き、女神が拍手し、俺は〈再挑戦〉の“今日の一回”を、親指の腹で確かめる。
まだ、残っている。
使い所は、ここだ。
合意書の署名欄。
アリア、ユノ、女神と、俺。
俺は一度、ペン先を紙に置きかけて——躊躇した。
条文の向こうには、人がいる。
俺の“最適化”は、その人にとって時に不安だ。
だから。
〈再挑戦〉——起動。
戻し地点は、ペン先が紙に触れる半拍手前。
俺は、署名の前に一行言い置く。
「——この署名は、“撤回されうる”ことを前提にしている。未来の自由のための署名だ」
書く。
アリアが笑い、ユノが「良」と言い、女神が『とても好き』と言った。
恥ずかしい。
でも、効く。
夜風が、拍を整える。
【本日の“最適化メモ”】
・零秒更新=免疫不全。ゆらぎは生活の免疫。照れと不揃いを“意図的に”混ぜる。
・“均一禁止”は制度化できる。ゆらぎ許容量を%で定めて運用に落とす。
・行列の同期器は“自分を見る声”で崩す。主語を個へ振ると半拍外れが連鎖。
・三者デート会議=条文の試運転。十拍沈黙+持ち帰り甘味が最適。
・〈再挑戦〉は“署名前の言い置き”に切ると、関係の未来耐性が上がる。恥ずかしいが、気持ちいい。