第七話 舞踏会の合意と一回の言い直し
王城の舞踏会は、政治の服を着た音楽だ。弦が挨拶をし、管が利害を歌い、打が拍で決裁する。
床は磨かれて、靴は見栄を鳴らす。俺は踵を鳴らさない。癖になった。
『接続良好。こちら女神ミナ。二回目さん、今日は“公開範囲条項”の実地検証ですね』
「うん。“関係の公開・非公開は全会一致”——これを舞踏会でやるの、だいたい無謀」
『だから効きます』
王女アリアは海灯りのような青のドレスで現れ、周囲の空気の税率を上げる。視線が集まるほど、彼女の言葉は強くなる設計だ。
剣聖ユノは白の礼装。衣の布は軽いのに、歩みは岩の芯でできている。
俺は臨時アナリストの黒を着て、指輪にひと息吹いた。〈再挑戦〉は一回、今日に温存。
「本日の議題は三つ」
アリアが軽く扇を振る。
ひとつ、北門の二段階運用の常設。
ふたつ、観測窓の“署名”公表。
みっつ、合意書(案)の公開範囲の確認。
拍で言う人だ。音楽の上で政治を踊らせる。
「まず、二段階運用は税収と混乱指標で“良”。常設」
ざわめきは小さく、頷きは多い。
次。観測窓の署名——半角“/∠”。
アリアは客席の灯を二段階落とし、半透明板に波形を投影した。
数字の雨の端で、斜めに刻まれた職人のマークが小さく光る。
「敵であっても、記録は歓迎する。王都は記録を憎まない——宣言します」
拍手。これは政治の拍。
そして三つ目。合意書。
空気が一拍だけ、息を止めた。
アリアは俺とユノに視線を投げる。「公開の範囲は?」
「段階的公開」
俺は言う。
当事者の名は伏せ、条文のみを出す。十拍沈黙、撤退の儀式、緊急迂回。
“ハーレム”という語は—出さない。出すと拍が崩れる。定義は内側に置く。
「反対」
広間の左、銀灰の髪。侯爵家の若君が扇をはじいた。
声は涼しく、刃は冷たい。
「王家に近い者の私事は公共性がある。合意の形式が公開されないのは不公平だ」
「形式は公開します」
アリアが返す。
若君は肩をすくめ、「では内容も」と続ける。
ここで俺が出る順番だ。
政治の隙間に、生活の強度を滑り込ませる。
「内容を公開すると、“同意の自由”が死にます。自由は撤回の自由まで含む。撤回が世間の拍で押し潰されるのは、合意ではない」
若君は鼻で笑い、「甘い」と言った。
広間のいくつかの視線が、砂糖と同じ湿度で俺に貼り付く。
一回目の危うさが来る。
言葉は剣より速く人を斬る。
斬らないために、切る必要がある。
〈再挑戦〉を、ここで——切らない。まだ早い。
ユノが前へ出た。白い衣の端だけで、場の音が半拍静かになる。
「戦では、規律は先に配られる。だが、兵の心中までは配らない。配れば戦は壊れる。恋も同じ。条文は配る。心は配らない」
簡潔。硬い。効く。
若君は扇を繰り返しはじき、場に波を立てようとする。
そのとき、弦が一瞬、わざと外した。
小さな、しかし確かな不協和。
楽師の席の奥、黒い手袋。——見覚えのある“同期ずらし”。
アジャスター? 違う、手癖が粗い。
ロガーの類い。世論の“揺れ”を扇ぎたい者。
『二回目さん。弦に“偽ログ”が挟まれます。合意書の条文が改竄されたように見える演出。三十秒後』
「よし、使う」
俺は指輪に触れ、呼吸を半拍だけ深くした。
言葉の失敗ではなく、タイミングの失敗をやり直す。
〈再挑戦〉——起動。
光が引き、音が薄皮のように戻る。戻し地点は、若君の「甘い」の直後。
俺は一歩早くユノに目をやり、位置を半足分前に。
広間の斜め上、楽師の席の端が見える位置。
扇を胸の前で寝かせ、「十拍沈黙」を合図する。
数える声は出さない。出すのは扇の運動だけ。
人間は数えるものが視覚でも止まれる。
一、二、三、四——七の手前で、弦が外れる。
俺は“八”を飲み込み、“七”を繰り返す。
沈黙は七七拍。
外れた弦は、沈黙に飲まれて事故に落ちる。
黒い手袋がわずかに焦り、譜面の間に仕込んだ薄紙が床に滑った。
俺は進む。踵は鳴らさない。
薄紙を拾い上げ、扇の中で折る。
紙には「第六条“十拍沈黙”の削除案」と墨が走っていた。
見せ札。偽ログ。
俺は紙片を高く掲げず、アリアの手にだけ渡す。
「上書き、“差し戻し”。——王女、管理権限」
「権限行使。偽ログは無効です」
アリアの声は冷たい水に近かった。
若君が目を細める。「王城はやはり記録を——」
「改竄していません。改竄を拒否したのです」
アリアは紙片をユノに渡す。ユノは半拍で裂いて、さらに半拍で粉にした。
粉は音もなく舞い、床に消える。
『成功。〈再挑戦〉の“戻し地点”が芸術点です』
「ありがとう。半足前に出ただけ」
『だいたい、そういう小ささが効きます』
若君はもう一度扇をはじき、場を読む。
読み合いは、負けを認める速度で分かる。
彼は早い負け方を選び、扇を閉じた。
「理解した。条文のみの公開に賛成。ただし、監査は置くべきだ」
「置きます」
アリアの即答。準備していたのだろう。
「監査委員:学匠ギルド代表」「王都法務」「第三者として剣聖」。
ユノは短く「承」とだけ言う。
若君は会釈し、波は収束した。
◇
踊りの枠が始まる。
政務の拍から、生活の拍へ。
アリアが扇を閉じて、俺に差し出す。「一曲だけ、仕事」
足の置き場は、棋譜だ。
四拍で前、二拍で横、回転は半拍で始めて半拍で終わる。
踵を鳴らさない“静かな踊り”は、広間では目立たない。それでいい。
女神が指輪の中で楽しそうに数えている。
『一、二、三、四。——あなたの肩の力、良』
「管理者、踊るんですか」
『心は踊ります。たぶん』
曲の終わり際、アリアが耳打ちする。
「明朝、“監査”の初会合。あなたの“乱数ゆれレポート”、監査向けに読み替えが必要」
「承認。政治語に翻訳します。専門語の脚注も添える」
「助かる。——それと、恋のほう。公開範囲は“条文のみ”。確認」
「確認。署名欄は内側で回す」
拍が落ち、礼。
広間の向こう、ユノが柱影でこちらを見ている。
白い衣は目立つが、彼女は目立たない。動かない音のようだ。
俺は視線で「一曲」と問う。
ユノは首を横に振った。「稽古」。
そうだろうと思った。
◇
舞踏会の終盤。
観測窓からの速報が指輪に落ちる。
——北郊、祠の乱数が波。
地脈の拍が崩れ、神託掲示板の補助線にノイズ。
人の手癖ではない。これは自然のゆり戻し。
「アリア。祠」
「見ている。地元の神官が手薄。祭祀の司が病欠。——女神」
『承。私から“通知”を出します。ただし祠は“合意”の外。神の領分でも、あなたたちが拍を整えたほうが早い』
俺はユノに目をやる。
彼女は頷き、踵を鳴らさずに扉へ向かった。
アリアが扇の縁で俺の袖を軽く叩く。「行って。公務と生活は同じ靴で歩ける人が強い」
「任された」
◇
北郊の祠は、藁の匂いと冷たい水の音でできていた。
拝殿の床板がわずかに歪み、鈴の紐は湿気を吸って重い。
村人がざわざわと集まり、誰も拍を取れない。
神官代理の若者が震え声で祝詞を読み、言葉の拍が迷子になる。
「十拍沈黙」
俺は静かに言う。
村人は見様見真似で数える。ここは視覚が弱い。
ユノが鈴を結ぶ紐の途中に白布を結び、視覚の拍を足す。
十拍。
呼吸が一つになる。
祝詞の拍を“二、四、八”で配り直し、鈴の鳴らし方を“短・短・長”に最適化。
地脈の波は、人の拍に引かれる。
床板の軋みが半足分落ち着き、鈴の響きに倍音が乗る。
若者の声が“祈り”に変わる。
『安定。観測窓の補助線、回復。あなた、祠のチューナー適性が高い』
「なんでも最適化するの、やめたいけどやめない」
『やめないでください』
村人の最後列。
黒い手袋が、一拍だけ見えて、消えた。
アジャスターの気配。
敵ではない歩き方。
拍を乱す者は、乱れを嫌い、整いを知る。
反転はまだ先だが、回路は繋がった。
◇
夜更け、王城に戻る前。
ユノが道端の石に腰を下ろした。珍しい。
月と白い衣。
「条文、署名した」
「今夜?」
「踊りのあと。——“撤回の自由”に署名するのは、剣の人には難しい」
「難しいから、署名したんだ」
「うん。良い難しさ」
彼女の言い方は、いつもこうだ。短くて、深い。
俺は合意書の写しを鞄から出し、ユノの署名の下に日付を書き足す。
アリアの署名は端正、ユノの署名は直線的、女神の署名は小さな輪でできている。
紙は薄く、重い。
『二回目さん。今日の〈再挑戦〉は、半足前へ出るために使いましたね』
「うん。言い直しじゃなく、“位置の言い直し”。」
『それがいちばん、恥ずかしくて効きます』
「知ってる」
王城の灯が遠くで瞬き、夜風が汗を乾かす。
世界は複雑で、やっぱり変だ。
変だから、整えるのが面白い。
明日も、拍を置く。
最善は、だいたい恥ずかしい。
でも、やっぱり気持ちいい。
【本日の“最適化メモ”】
・公開範囲は“条文のみ”。心は配らない(撤回の自由を守る)。
・偽ログは沈黙の延長で事故化→管理権限で差し戻し。戻し地点は“半足前”。
・祠の乱れは人の拍で調律できる(短・短・長/視覚の拍を追加)。
・監査は敵ではない。第三者を内側に置くと拍が安定。
・〈再挑戦〉は台詞より位置に切ると効く。恥ずかしい小ささが、いちばん強い。