第五話 一合のための一回
夜は薄く剥がれ、王城の庭に朝が差し込む。砂地はまだ冷たく、空気は刃物みたいに軽い。
ユノが木剣を一本、無言で差し出す。受け取った瞬間、重心が決まる。今日の稽古は一合だけ。その一合に、全部を詰める。
「かかれ」
間合いは二歩と半。風の流れが頬を撫でる。
足の親指が砂を掴む。踵は鳴らさない。
ユノの視線は“まだ来ない”場所を指し続け、俺の呼吸のズレだけを待っている。
初動のパターンは三つ。正面の直突き、外へずらして胴、誘っての小手。
どれも一回目でやると、確実に刈られる。
息を一拍伸ばす。
喉の奥で合図。
——行く。
踏み込み。砂が柔らかい。
木剣が前を差した瞬間、ユノの刃(線)がそこにない。誘いだ。読まれている。
反射で二手目に移る。外——
違う。早い。早すぎる。
刃線が視界を掠める。肩に重い痛みの予感。
ここで、切る。
〈再挑戦〉——起動。
砂の擦れる音が逆再生で消え、風の方向が一瞬逆に流れた。
戻し地点は、踏み込みの直前。呼吸を伸ばす一拍の、さらに半拍手前。
ユノは何も違和感を見せない。彼女の“読み”は現在だけを見る。
今度は、砂の堅い場所を使う。
左足の半歩手前、朝露で締まった帯。そこで踏み切る。
正面は囮。刃は半寸だけ短く止め、ユノの視線を“まだ来ない”から“もう来た?”に揺らす。
空気が鳴る。一瞬の空白。
ここ——。
下から起こす。柄を相手の柄に当て、刃の線じゃなく力の線をずらす。
ユノの手首がわずかに返った。
木剣が、音を立てずにユノの肩口へ滑り込み——寸前で止める。
刃と肌の間に、紙一枚。
「……良」
ユノの喉から、極めて短い評価が落ちた。
息を吐く。肺の内側が熱い。
〈再挑戦〉一回。一合に全部。
指輪は温い。使い所は正しかった。
「二回目を切ったか」
「切りました。砂の堅い帯が、半歩手前に」
「見ていたのではなく、覚えていた。それが二回目」
木剣を下ろす。
ユノは一歩近づいて、俺の右手を取った。掌の起伏、指の力の入り方、皮の厚み。
検分の目。剣士の礼。
「今日の勝ちは、半拍。それを忘れるな」
「忘れません」
顔を上げると、城壁の上から朝日が跳ね返って、白い衣が淡く金に変わる。
ユノは木剣を背で受け、「朝餉」とだけ言って歩き出した。
◇
食堂の隅で塩気の強いスープ。パンをちぎる。
指輪が震え、女神ミナの声が落ちてくる。
『おめでとうございます。一合最適化、成功。記録にハートを付けておきます』
「ログに絵文字付けるの、やめて」
『管理者の楽しみはささやかです。——さて、朝の神託掲示板は平常。ただ、一箇所、字幅が半角分だけ詰まっています。人間が気づく程度の小細工を“あえて”していますね』
「挑発か、目印か」
『後者。アリアが観測窓で確認した“同期ずらし”と同じ手癖。今日は昼の更新で、三秒の遅延が来ます。短い。いやらしい』
「短い遅延は、“誰でも起きうる揺れ”に擬態できる」
『はい。あなたの乱数ゆれレポート、今日も必要です』
パンをもう一切れ。
ユノの視線がスープの向こうから刺さる。「塩、取り過ぎるな」と言いたげだ。
俺は苦笑で返し、パンを半分残した。
◇
午前は王城の文書室。臨時アナリストの机には、観測窓の縮小出力が来ている。
数字の雨の中、微小な波形。
三秒遅延は予告通り発生した——が、遅延の尾にノイズが絡む。
人間の指が触れたノイズは、手癖で分かる。
この癖、昨夜の火薬と同系列。北方。
「アリア。遅延の尾にノイズ。北方癖」
「見ている。午後、王都北門の出入りを一時強化する。あなたは城下へ。勧進所を見て」
「勧進所?」
「寄付と情報が集まる場所。北方からの旅人が必ず立ち寄る。——ユノを付ける」
王女の決裁は速い。
承認を短く返して席を立つ。
指輪に小さく息を吹く。〈再挑戦〉は朝で切った。今日はもう使えない。
だから、“失敗で学べる範囲”だけを攻める。
それでも行く。
◇
城下北、勧進所。祭りの名残りみたいな旗が風に揺れ、募金箱の横には賽銭の鈴がぶら下がっている。
帳場のおばさんが、快活に客をさばく。
広場では吟遊詩人が一節歌い、旅人が疲れた脚を伸ばす。
空気の層が多い。音が重なる。
こういう場は、読み合いがよく効く。
ユノが目で合図。
右——詩人のそば。
左——荷車の陰。
俺は右を取る。
詩人は北方の節回し。弦のチューニングが半音だけ高い。
歌詞に、王都の名があるのに、季節が違う。
作り物。
歌い終わりに拍手。
俺は手を挙げる。
「良い歌。ひとつ、寄付を。代わりに、一節、王都の今朝を歌ってくれないか」
詩人の眉が一瞬だけ動く。
今朝の王都を正確に歌えるなら、本物。
詩人は弦を弾き、「夜明けの鐘、二刻目に一呼吸遅れ」と歌った。
それ、昨夜の観測窓の遅延だ。
近い。
背後でユノが荷車の陰へ滑る。
俺は詩人の帽子へ硬貨を落として、耳元で囁く。
「歌の“出処”を教えてくれたら、もう一袋」
詩人は少しだけ笑い、「北の宿」と言った。
宿の名。霜解きの床。
硬貨の袋を渡す。
ユノの目が「行く」と言っている。
行く。
◇
霜解きの床は、北門から二筋入ったところにある古い宿だった。玄関に干してある布が北方模様。
帳場の老人が無愛想に計算盤を弾く。
客室の廊下、音が“途切れる”部屋が一つ。
そこに、いる。
扉は閉じている。
ユノが耳を近づける。
彼女は目を閉じて、軽く頷いた。
「一人。机。紙を裂く音。……糊の瓶」
また紙。
俺は扉を叩く前に、叩かないを選ぶ。
踵を鳴らさず、鍵穴に視線。
鍵は簡素。内側から差し込んだ木片で噛ませているだけ。
女将に小さく合図を送り、部屋代を二枚分置く。
ユノが廊下の反対側に移動。
俺は扉の前で一拍の空白を作り——静かな声で言う。
「開けてください。王城の臨時アナリストです。開けないなら、ここで“歌”います」
中で息が止まる音。
俺は続ける。
「この宿の名。霜解きの床。北の節。王都の鐘の遅延。火薬は北方製。あなたの手癖は、半角分だけ字幅を詰める。扉を開けたほうが、傷が浅い」
木片が抜かれる音。
扉が少しだけ開く。
覗いた目が、渇いた川の色をしていた。
若い——が、指先は年季が入っている。
机の上には、神託掲示板と同じ体裁の偽紙。
そこへ、半角分だけ詰めて書き写した“遅延ログ”。
「何者」
「リオ。最弱スキル〈再挑戦〉持ち。……あなたは?」
「アジャスター」
やはり。
神託の周囲——乱数の“同期”をずらし、都市の“拍”を惑わせる者。
珍しい。
危険。
「注文主は?」
「言わない。言うくらいならここにいない」
ユノが一歩進む。
白い衣の影が、部屋の温度を一度下げる。
アジャスターは剣の気配に敏感だ。肩が強張る。
俺は手のひらを見せる。
「交渉しよう。あなたの手癖を、王城の観測窓に“記号”として残す。その代わりに、遅延を止める。今日の三秒を最後に」
アジャスターは瞬きをした。
動機を測る。
彼らは、仕事で動く。
仕事は記録を好む。
俺は続ける。
「あなたが北方の手先であっても、人の“技”は記録に値する。観測窓の端に、小さな記号。あなたの署名。それで、今日の遅延を終わらせる。……どうだ」
沈黙が落ちる。
ユノは何も言わない。言葉の場だと分かっている。
女神が指輪の中で、息を潜める。
やがて、アジャスターが短く笑った。
「最適化は、職人を口説くのが上手い。……いい。今日の三秒で止める。ただし、記号の場所は私が決める」
「承認。半角の詰めは残せ」
「残す。あなたの“レポート”に、証拠として残る」
取引成立。
危うい橋だ。
けれど、“揺れ”をまるごと消すより、揺れを可視化しておくほうが、長期的には強い。
俺は観測窓の許可証を見せ、小さな紙片に合図を書き、机の端に置いた。
「午後の更新、見てる」
「見てろ」
扉が閉まる。
ユノが肩の力を抜いた。
「危い」
「危かった。でも、効く」
「効けばいい」
彼女の評価は、いつも短い。
◇
午後。観測窓。
アリアと並んで数字を見る。
三秒遅延が発生し——止まった。
尾に、半角分だけ詰められた“/”。
細い、しかし確かな署名。
「記号。……やったのね」
「交渉しました。今日で遅延は止める。その代わり、記号を残してもらう」
「危険球。けれど、賢い。記録があれば、こちらは“次”に備えられる」
アリアは深呼吸し、窓から目を離した。
彼女の横顔に、わずかな笑み。
「では、次。——恋愛条項の草案、出しなさい」
「今、ここで?」
「ここで。政務の机は恋の机と兼用できる」
避けられない。
俺はカバンから紙を出し、さらさらと書く。合意書ドラフト。
ハーレム多者合意書(案)
第一条(目的)当事者間の継続的な信頼・尊重・安全を確保し、恋愛関係を円満に運用する。
第二条(当事者)王女アリア、剣聖ユノ、女神ミナ、リオ(以下「当事者」)。
第三条(意思確認)月初に各当事者の意思確認を行い、撤回の自由を保障する。
第四条(優先順位)緊急時の優先順位は「人命>国家>個人の情」。
第五条(公開範囲)関係の公開・非公開は全会一致で決定。
第六条(衝突解決)衝突時は**“十拍沈黙”**の後、話し合い。
第七条(更新)本書は必要に応じて更新可能。
書き上げて差し出す。
アリアは文言を一つひとつ嚙み、頷いた。
「十拍沈黙は良いわね。政治会議にも導入したい」
「緊張が解けすぎると駄目ですけど」
「解けすぎは、あなたが最適化するのでしょう?」
ユノが横から覗き込み、「第四条、良」とだけ言った。
指輪の中で女神が拍手する。
『条文に私の名が入っていて笑いますが、合意の明文化はよい文明です』
「笑っていい。恥ずかしいけど、効くから」
アリアが署名欄を指で叩いた。
「私は署名する。ユノ?」
「署名。——ただし、稽古は続く」
「続けます」
「では、女神」
『管理者としての署名、完了。……恋愛における管理者権限は、無効化します。私は一当事者としてのみ参加』
アリアが小さく笑った。
政治と恋は、いつも紙一重。
紙一枚で、境界が見える。
◇
夕暮れ、王城の外。
石畳に、朝の稽古の足跡はもうない。
日付が変わる前、指輪を外す。
〈再挑戦〉は、明日に一回。
今日は、使い切った。
朝の一合のために。
その一合が、次の十合を軽くする。
『二回目さん。今日は良かった。あなたの“恥ずかしい最善”は、周囲の安心を増やします』
「ありがとう。……明日は?」
『明日は北門の検閲が厳しくなります。逆噴射のゆり戻しが来る。あなたの“最短証明”に、たぶん石が投げられる』
「受け取って、投げ返さない。帳尻で返す」
『それが好き』
夜風が軽い。
ユノが横に並ぶ。
彼女は何も言わない。言わないのは、言うべきことが終わっているから。
俺は小さく笑って、足を前に出した。
「最善は、だいたい恥ずかしい。——でも、気持ちいい」
【本日の“最適化メモ”】
・〈再挑戦〉は一合のための一回に。戻し地点は“半拍手前”。
・地面は読む:朝露で締まった堅い帯を踏み台にする。
・職人は記録を愛す。敵でも“署名”を残させる交渉は長期的に効く。
・会議と恋は十拍沈黙が万能の潤滑。
・“最短証明”は石を呼ぶ。帳尻で受け、返さない。