表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/12

第五話 一合のための一回

 夜は薄く剥がれ、王城の庭に朝が差し込む。砂地はまだ冷たく、空気は刃物みたいに軽い。

 ユノが木剣を一本、無言で差し出す。受け取った瞬間、重心が決まる。今日の稽古は一合だけ。その一合に、全部を詰める。


「かかれ」


 間合いは二歩と半。風の流れが頬を撫でる。

 足の親指が砂を掴む。踵は鳴らさない。

 ユノの視線は“まだ来ない”場所を指し続け、俺の呼吸のズレだけを待っている。

 初動のパターンは三つ。正面の直突き、外へずらして胴、誘っての小手。

 どれも一回目でやると、確実に刈られる。


 息を一拍伸ばす。

 喉の奥で合図。

 ——行く。


 踏み込み。砂が柔らかい。

 木剣が前を差した瞬間、ユノの刃(線)がそこにない。誘いだ。読まれている。

 反射で二手目に移る。外——

 違う。早い。早すぎる。

 刃線が視界を掠める。肩に重い痛みの予感。

 ここで、切る。


〈再挑戦〉——起動。


 砂の擦れる音が逆再生で消え、風の方向が一瞬逆に流れた。

 戻し地点は、踏み込みの直前。呼吸を伸ばす一拍の、さらに半拍手前。

 ユノは何も違和感を見せない。彼女の“読み”は現在だけを見る。

 今度は、砂の堅い場所を使う。

 左足の半歩手前、朝露で締まった帯。そこで踏み切る。

 正面は囮。刃は半寸だけ短く止め、ユノの視線を“まだ来ない”から“もう来た?”に揺らす。

 空気が鳴る。一瞬の空白。

 ここ——。


 下から起こす。柄を相手の柄に当て、刃の線じゃなく力の線をずらす。

 ユノの手首がわずかに返った。

 木剣が、音を立てずにユノの肩口へ滑り込み——寸前で止める。

 刃と肌の間に、紙一枚。


「……良」


 ユノの喉から、極めて短い評価が落ちた。

 息を吐く。肺の内側が熱い。

 〈再挑戦〉一回。一合に全部。

 指輪は温い。使い所は正しかった。


「二回目を切ったか」


「切りました。砂の堅い帯が、半歩手前に」


「見ていたのではなく、覚えていた。それが二回目」


 木剣を下ろす。

 ユノは一歩近づいて、俺の右手を取った。掌の起伏、指の力の入り方、皮の厚み。

 検分の目。剣士の礼。


「今日の勝ちは、半拍。それを忘れるな」


「忘れません」


 顔を上げると、城壁の上から朝日が跳ね返って、白い衣が淡く金に変わる。

 ユノは木剣を背で受け、「朝餉」とだけ言って歩き出した。


     ◇


 食堂の隅で塩気の強いスープ。パンをちぎる。

 指輪が震え、女神ミナの声が落ちてくる。


『おめでとうございます。一合最適化、成功。記録にハートを付けておきます』


「ログに絵文字付けるの、やめて」


『管理者の楽しみはささやかです。——さて、朝の神託掲示板は平常。ただ、一箇所、字幅が半角分だけ詰まっています。人間が気づく程度の小細工を“あえて”していますね』


「挑発か、目印か」


『後者。アリアが観測窓で確認した“同期ずらし”と同じ手癖。今日は昼の更新で、三秒の遅延が来ます。短い。いやらしい』


「短い遅延は、“誰でも起きうる揺れ”に擬態できる」


『はい。あなたの乱数ゆれレポート、今日も必要です』


 パンをもう一切れ。

 ユノの視線がスープの向こうから刺さる。「塩、取り過ぎるな」と言いたげだ。

 俺は苦笑で返し、パンを半分残した。


     ◇


 午前は王城の文書室。臨時アナリストの机には、観測窓の縮小出力が来ている。

 数字の雨の中、微小な波形。

 三秒遅延は予告通り発生した——が、遅延の尾にノイズが絡む。

 人間の指が触れたノイズは、手癖で分かる。

 この癖、昨夜の火薬と同系列。北方。


「アリア。遅延の尾にノイズ。北方癖」


「見ている。午後、王都北門の出入りを一時強化する。あなたは城下へ。勧進所を見て」


「勧進所?」


「寄付と情報が集まる場所。北方からの旅人が必ず立ち寄る。——ユノを付ける」


 王女の決裁は速い。

 承認を短く返して席を立つ。

 指輪に小さく息を吹く。〈再挑戦〉は朝で切った。今日はもう使えない。

 だから、“失敗で学べる範囲”だけを攻める。

 それでも行く。


     ◇


 城下北、勧進所。祭りの名残りみたいな旗が風に揺れ、募金箱の横には賽銭の鈴がぶら下がっている。

 帳場のおばさんが、快活に客をさばく。

 広場では吟遊詩人が一節歌い、旅人が疲れた脚を伸ばす。

 空気の層が多い。音が重なる。

 こういう場は、読み合いがよく効く。


 ユノが目で合図。

 右——詩人のそば。

 左——荷車の陰。

 俺は右を取る。

 詩人は北方の節回し。弦のチューニングが半音だけ高い。

 歌詞に、王都の名があるのに、季節が違う。

 作り物。

 歌い終わりに拍手。

 俺は手を挙げる。


「良い歌。ひとつ、寄付を。代わりに、一節、王都の今朝を歌ってくれないか」


 詩人の眉が一瞬だけ動く。

 今朝の王都を正確に歌えるなら、本物。

 詩人は弦を弾き、「夜明けの鐘、二刻目に一呼吸遅れ」と歌った。

 それ、昨夜の観測窓の遅延だ。

 近い。

 背後でユノが荷車の陰へ滑る。

 俺は詩人の帽子へ硬貨を落として、耳元で囁く。


「歌の“出処”を教えてくれたら、もう一袋」


 詩人は少しだけ笑い、「北の宿」と言った。

 宿の名。霜解きの床。

 硬貨の袋を渡す。

 ユノの目が「行く」と言っている。

 行く。


     ◇


 霜解きの床は、北門から二筋入ったところにある古い宿だった。玄関に干してある布が北方模様。

 帳場の老人が無愛想に計算盤を弾く。

 客室の廊下、音が“途切れる”部屋が一つ。

 そこに、いる。


 扉は閉じている。

 ユノが耳を近づける。

 彼女は目を閉じて、軽く頷いた。


「一人。机。紙を裂く音。……糊の瓶」


 また紙。

 俺は扉を叩く前に、叩かないを選ぶ。

 踵を鳴らさず、鍵穴に視線。

 鍵は簡素。内側から差し込んだ木片で噛ませているだけ。

 女将に小さく合図を送り、部屋代を二枚分置く。

 ユノが廊下の反対側に移動。

 俺は扉の前で一拍の空白を作り——静かな声で言う。


「開けてください。王城の臨時アナリストです。開けないなら、ここで“歌”います」


 中で息が止まる音。

 俺は続ける。


「この宿の名。霜解きの床。北の節。王都の鐘の遅延。火薬は北方製。あなたの手癖は、半角分だけ字幅を詰める。扉を開けたほうが、傷が浅い」


 木片が抜かれる音。

 扉が少しだけ開く。

 覗いた目が、渇いた川の色をしていた。

 若い——が、指先は年季が入っている。

 机の上には、神託掲示板と同じ体裁の偽紙。

 そこへ、半角分だけ詰めて書き写した“遅延ログ”。


「何者」


「リオ。最弱スキル〈再挑戦〉持ち。……あなたは?」


「アジャスター」


 やはり。

 神託の周囲——乱数の“同期”をずらし、都市の“拍”を惑わせる者。

 珍しい。

 危険。


「注文主は?」


「言わない。言うくらいならここにいない」


 ユノが一歩進む。

 白い衣の影が、部屋の温度を一度下げる。

 アジャスターは剣の気配に敏感だ。肩が強張る。

 俺は手のひらを見せる。


「交渉しよう。あなたの手癖を、王城の観測窓に“記号”として残す。その代わりに、遅延を止める。今日の三秒を最後に」


 アジャスターは瞬きをした。

 動機を測る。

 彼らは、仕事で動く。

 仕事は記録を好む。

 俺は続ける。


「あなたが北方の手先であっても、人の“技”は記録に値する。観測窓の端に、小さな記号。あなたの署名。それで、今日の遅延を終わらせる。……どうだ」


 沈黙が落ちる。

 ユノは何も言わない。言葉の場だと分かっている。

 女神が指輪の中で、息を潜める。

 やがて、アジャスターが短く笑った。


「最適化は、職人を口説くのが上手い。……いい。今日の三秒で止める。ただし、記号の場所は私が決める」


「承認。半角の詰めは残せ」


「残す。あなたの“レポート”に、証拠として残る」


 取引成立。

 危うい橋だ。

 けれど、“揺れ”をまるごと消すより、揺れを可視化しておくほうが、長期的には強い。

 俺は観測窓の許可証を見せ、小さな紙片に合図を書き、机の端に置いた。


「午後の更新、見てる」


「見てろ」


 扉が閉まる。

 ユノが肩の力を抜いた。


「危い」


「危かった。でも、効く」


「効けばいい」


 彼女の評価は、いつも短い。


     ◇


 午後。観測窓。

 アリアと並んで数字を見る。

 三秒遅延が発生し——止まった。

 尾に、半角分だけ詰められた“/”。

 細い、しかし確かな署名。


「記号。……やったのね」


「交渉しました。今日で遅延は止める。その代わり、記号を残してもらう」


「危険球。けれど、賢い。記録があれば、こちらは“次”に備えられる」


 アリアは深呼吸し、窓から目を離した。

 彼女の横顔に、わずかな笑み。


「では、次。——恋愛条項の草案、出しなさい」


「今、ここで?」


「ここで。政務の机は恋の机と兼用できる」


 避けられない。

 俺はカバンから紙を出し、さらさらと書く。合意書ドラフト。


ハーレム多者合意書(案)

第一条(目的)当事者間の継続的な信頼・尊重・安全を確保し、恋愛関係を円満に運用する。

第二条(当事者)王女アリア、剣聖ユノ、女神ミナ、リオ(以下「当事者」)。

第三条(意思確認)月初に各当事者の意思確認を行い、撤回の自由を保障する。

第四条(優先順位)緊急時の優先順位は「人命>国家>個人の情」。

第五条(公開範囲)関係の公開・非公開は全会一致で決定。

第六条(衝突解決)衝突時は**“十拍沈黙”**の後、話し合い。

第七条(更新)本書は必要に応じて更新可能。


 書き上げて差し出す。

 アリアは文言を一つひとつ嚙み、頷いた。


「十拍沈黙は良いわね。政治会議にも導入したい」


「緊張が解けすぎると駄目ですけど」


「解けすぎは、あなたが最適化するのでしょう?」


 ユノが横から覗き込み、「第四条、良」とだけ言った。

 指輪の中で女神が拍手する。


『条文に私の名が入っていて笑いますが、合意の明文化はよい文明です』


「笑っていい。恥ずかしいけど、効くから」


 アリアが署名欄を指で叩いた。


「私は署名する。ユノ?」


「署名。——ただし、稽古は続く」


「続けます」


「では、女神」


『管理者としての署名、完了。……恋愛における管理者権限は、無効化します。私は一当事者としてのみ参加』


 アリアが小さく笑った。

 政治と恋は、いつも紙一重。

 紙一枚で、境界が見える。


     ◇


 夕暮れ、王城の外。

 石畳に、朝の稽古の足跡はもうない。

 日付が変わる前、指輪を外す。

 〈再挑戦〉は、明日に一回。

 今日は、使い切った。

 朝の一合のために。

 その一合が、次の十合を軽くする。


『二回目さん。今日は良かった。あなたの“恥ずかしい最善”は、周囲の安心を増やします』


「ありがとう。……明日は?」


『明日は北門の検閲が厳しくなります。逆噴射のゆり戻しが来る。あなたの“最短証明”に、たぶん石が投げられる』


「受け取って、投げ返さない。帳尻で返す」


『それが好き』


 夜風が軽い。

 ユノが横に並ぶ。

 彼女は何も言わない。言わないのは、言うべきことが終わっているから。

 俺は小さく笑って、足を前に出した。


「最善は、だいたい恥ずかしい。——でも、気持ちいい」


【本日の“最適化メモ”】

・〈再挑戦〉は一合のための一回に。戻し地点は“半拍手前”。

・地面は読む:朝露で締まった堅い帯を踏み台にする。

職人アジャスターは記録を愛す。敵でも“署名”を残させる交渉は長期的に効く。

・会議と恋は十拍沈黙が万能の潤滑。

・“最短証明”は石を呼ぶ。帳尻で受け、返さない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ