第十二話 始まりの稽古と“最初の嘘”
朝の前。空がまだ青く硬い。
“始まりの稽古”は、始業の鐘の手前に拍を置く訓練だ。
ユノが短く言う。「今日の課題、“最初の一言”を最適化するな。最初の嘘を見抜け」
「嘘?」
「朝一番の嘘。余裕があるふり。都市は朝、見栄をつける」
王都の大路を歩くと、屋台は看板だけ先に出し、パンはまだ焼けていない。役人は帳面だけ開き、目は眠い。
なるほど、みんな一拍先に出るふりをしている。
『観測窓、微小な前のめり。——“始業前広告”の過剰。今日はゆるく戻す必要』
「ミナ、掲示板裏に一行。“始まりの合図・試案”を」
『転送可。見出しは?』
「——あわてないで。今日は、始める前に息を吸う」
王女アリアが合流し、扇の縁で大路の空気を測る。「告知は良し。もう一つ。内通者を朝に動かす」
昨日から嗅いでいた“器具なしの合わせ歩き”。
始業の鐘の直前、北門に現れた。
踵を鳴らさない一団。軍人ではない。文官の歩調だ。
「誰の号令?」
俺は列の端に沿って歩き、先頭の男の袖口をちらと見る。
糸の擦れ。朱の点。
——王都法務の印刷室で使う朱肉だ。
「法務の若手官吏……か」
『名前、特定。昨日の監査にいた若手。——“効率教”のサロン所属、“均一”礼賛派。制度を乗っ取る気配』
アリアの目が細くなる。「法務の中で均一派が頭を上げた。今日、朝一で“ゆらぎ条項”を“効率化補足”で骨抜きにするつもり」
いい。始まりの稽古の相手に不足はない。
〈再挑戦〉は今日も一回。だが今、切らない。最初の嘘を可視化すれば、切らずに済む。
「十拍沈黙」
ユノの指が空に結び目を作る。
俺は若手官吏の前に出て、笑う。
「始まる前に、一息。あなたの袖、朱肉が乾ききっていない。今、判を増刷してましたね。“補足通達”を、始業前に流すために」
若手は瞬きもせず言う。「制度は均一で美しい。あなたの“ゆらぎ”は怠惰の温床だ」
「怠惰は笑いの温床でもある。都市は笑いで免疫を作る」
「詭弁だ」
アリアが扇を開き、法務の“補足通達”を逆に掲示する。
裏から透ける文字。——“均一許容量0%”。
骨抜きどころか骨削りだ。
「通達、公開範囲の誤り。始業前に出すものではない。王都規範では“始業後十拍”の熟読期間が必要」
若手は肩をすくめ、「熟読は非効率」と吐いた。
俺は、ここでようやく切る準備をする。
切るのは台詞ではない。貼り位置だ。
〈再挑戦〉——起動。
戻し地点は、アリアが紙を掲げる半拍手前。
俺は掲示の高さを子どもの目線に下げる。
読ませたい相手は市井だ。
掲示の上には一行——
まず笑って。それから読んで。十拍。
群衆が足を止め、子どもが声に出して読み、屋台の婆さんが「十まで数えるのは得意」と笑う。
“熟読”が儀式に変わった。
若手の通達は、十拍の間に弱くなる。
『成功。戻し地点=“貼り位置”。可視化の最短。——若手の背後、サロンの連絡網、切断開始』
均一派の列は崩れ、若手は踵を返した。
アリアが短く告げる。「法務の監査に回す。君は街へ——“始まりの一言”を、外さないで外すのが課題」
「外さないで外す?」
「最適化の恥ずかしさを一滴、混ぜる」
なるほど。
始まりは、完璧では怖い。少し照れたほうが走りやすい。
◇
日の出、始業の鐘。
王都は息を吸う。
俺は大路の真ん中で、声を張る。
「——最初の一言は、“おはよう”でいい。それで十分、強い」
完璧ではない。けど、効く。
屋台が笑い、ガイルが腰で拍を押し、ユノが結び目を増やす。
ミナが指輪で囁く。
『始まり、合格。最初の嘘の矛を寝かせました』
「始まりの稽古、了。」
【本日の“最適化メモ”】
・朝一の“前のめり”=最初の嘘(余裕のふり)。まず見抜く。
・骨抜き通達は“貼り位置×十拍の儀式化”で弱体化。子ども目線に下げる。
・均一礼賛は“効率”で殴ってくる。熟読を儀式にすると勝手に遅くなる。
・始まりの一言は完璧にしない。おはようで十分強い。
・〈再挑戦〉は“台詞”より掲示の高さに切ると街が揃う。
第十三話 最終監査:同時多発“ゼロ+逆+偽終わり”と、使わない勇気
昼前、神殿から白い紙が落ちてきた。
上神アーカイバのメモだ。可愛い飾り罫が腹立たしい。
最終監査:
・零秒更新(正午)
・逆拍(門)
・偽終わり(広場)
同時実施。——制度の“自走”を確認
『二回目さん。今日は“あなたがやらない”が合格ラインです』
「分かってる。俺が全部やると制度は弱い」
アリアは拍を置いた。「各所、人を置く。あなたは観測と一言のみ」
ユノは「現地指揮」を取る。ガイルは門の踊り子に加勢。法務は均一派を抑え、学匠は瓦版で“先に笑う”を準備。
正午。
——零秒、来た。
——門の列、後ろから揺れる。
——広場に“終わり”の噂が先回りする。
指輪が熱い。〈再挑戦〉は残っている。
だが今日は使わないで通す。
俺は三箇所に一行だけ投げる。
「市場へ——『おまけは気分で』」
「門へ——『最後尾から十拍』」
「広場へ——『最初の終わりは冗談』」
人が動く。
市場は照れで不揃いが増え、門は後ろ優先で揃い、広場は“冗談”が先に走って偽終わりが事故化する。
アリアが制度を回し、ユノが拍を切り、ガイルが腰で押す。
俺の仕事は、見守ること。
『上位監査、通過中。あなた、まだ〈再挑戦〉を残しています』
「最後まで残す。最後の一言に」
観測窓の補助線が、やがて落ち着いた。
アーカイバのメモが白くほどける。
暫定ではなく、本承認。
ゆらぎ条項、制度化を認める。
追記:恋愛条項、文明的で興味深い。
『合格です。……ただし、最後に“人の事件”が残っています』
人の事件。
均一派の若手——逃走中。
目的はもう“制度乗っ取り”ではない。面子だ。
面子は、夜に刃になる。
「今夜、王城の屋上庭園で“偽の告白”を仕掛ける。あなたを揺らすために」
「偽の告白?」
『“公開範囲=内側”を破り、“噂”であなたを刺すつもり』
来た。
最後の敵は、制度でも神でもない。噂。
ここで、〈再挑戦〉を温存した意味が生きる。
【本日の“最適化メモ”】
・最終監査は“やらない勇気”の試験。制度が自走すれば合格。
・三拠点同時は“一行×三”で方向付け(おまけ/最後尾十拍/最初の終わりは冗談)。
・本承認=上からの揺らしが減る。次に来るのは“人の事件”。
・面子は夜に刃になる。噂は告白の形を真似る。
・〈再挑戦〉は“最後の一言”に温存。恥ずかしいほど、効く。
第十四話(最終) 最後の一言と“誰も泣かない未来”
夜。屋上庭園。
風はほどよく、灯は少ない。
合意書の写しが机の上。署名欄には、アリア、ユノ、ミナ、そして俺。
“均一派”の若手官吏が、暗がりから現れた。
彼は深呼吸し、わざと通る声で言う。
「リオ。公衆の前で言え。誰を一番に愛している?」
噂は選ばせる。
選ばせることで、誰かを捨てさせる。
“公開範囲=内側”を破らせるための、偽の告白。
広場から、愉快犯の耳が伸びる。
風向きが悪い。
ここで、最後の一回。
〈再挑戦〉——起動。
戻し地点は、若手が口を開く半拍手前。
俺はアリアとユノの間に半足進み、指で合意書の第四条を軽く叩く。
「答える前に、一行言い置き。——これは“撤回されうる”合意。誰も泣かせないための合意だ」
若手が眉をひそめる。
俺は続ける。
“選べ”に対する、選ばないの最短。
「一番は今日によって変わる。
国が崩れそうならアリアを、剣が折れそうならユノを、世界が黙りそうならミナを。
そして、俺自身を“最善の恥ずかしさ”に引き戻すのは、三人まとめてだ。
——合意がある。だから、俺は“選ばない”を選べる」
沈黙。
ユノが一拍だけ笑う。「良」
アリアが扇で風を柔らかくする。「公開は条文のみ。今、あなたがしたのは“条文の説明”。恋の中身ではない」
ミナが指輪で拍手をした。『法の詩ですね』
若手は悔しそうに唇を噛む。「逃げた」
俺は首を振る。
「逃げていない。撤退の儀式は、条文にある。逃げるときは正面から逃げる。
——君はどうだ。“均一”から撤退できるか?」
若手の目が泳いだ。
面子の刃は、自分に向くと鈍る。
アリアが静かに言う。「監査室でやり直しを許す。君のサロンは“意見書”に作り替えなさい。署名をするなら、歓迎する」
若手の肩が落ちた。
彼は深く頭を下げ、去った。
物語的には派手さはない。けれど、誰も泣かない。
それでいい。
恥ずかしいが、効く。
◇
風が整った。
アリアが一歩近づく。視線は測定器だが、今はそれだけではない。
「では——内側で。告白の返事を」
ここは、ノー再挑戦。
俺は小さく息を吸い、ゆっくり吐く。
声は最適化しない。恥ずかしさを残す。
「好きです。条文と実地で、これからも」
アリアの目が笑い、ユノが短く「良」と言い、女神が『保存』と言った。
署名欄に、日付が増える。
“撤回の自由”はそのままに。
それでも、今夜は——続けるほうに傾ける。
◇
王都は静かに呼吸し、祠の太鼓は最初の一打を半拍遅らせ、門の列は後ろから十拍で揃い、舞踏会は四曲続いたら必ず一拍崩す。
観測窓の端では、**/∠|**の署名が小さく笑っている。
アジャスターから最後の一筆が届いた。
“ゆらぎ、良。
職人は、揺れがある街に住みたい。”
学匠は瓦版に短い詩を載せた。
最善とは 恥ずかしさまで 抱きしめる
ガイルは門で踊り、子どもは十を数え、婆さんは今日も「曲がりきゅうり割」を書く。
世界は複雑で、だいたい変だ。
変だから、整え続けるのが面白い。
「——最善は、だいたい恥ずかしい。
でも、気持ちいい」
◇
そして、女神はログを閉じる。
『本件:ゆらぎ条項・制度化/恋愛条項・署名更新。
備考:二回目さんの“言い置き”は文明。
……おやすみなさい。明日の余白に、幸あれ』
【本日の“最適化メモ(最終)】
・“選べ”に対する最短は合意による選ばない。条文=手すり。
・噂の“偽告白”は、公開範囲の説明で受け流す。中身は内側。
・〈再挑戦〉の最後は“半足前+一行”に切る。答えの前に“合意の意図”を言い置く。
・誰も泣かない=派手さより帳尻。制度と恋は一緒に育てる。
・物語は終わる。街は続く。次の最善も、きっと恥ずかしい。