【16章】くまごろう
公特第四課・管制ルーム。
優斗たちが出動した後、照明が落とされ、モニターの明かりだけが、ぼんやりと
機材を照らしている。
誰もいないはずのフロア。
けれど、そこにただ一人、篠原佳央莉だけが残っていた。
「……はぁ」
溜息が、椅子の背に跳ね返る。
義体で出動中の夜桜は、管制ルームのアバターもセーフモードに入っており──
佳央莉は、静かな部屋にひとり取り残されたような心地だった。
音がしない。喋る相手もいない。
さっきまで、ずっと傍にいたはずの声が、今はない。
「私……何してんだろ」
夜桜は、報告しなかった。
夜桜はNS-CORE内部の演算偏差を検知していた。
通常、セーフモードで自動報告されるはずの異常ログを──
彼女は、それを言わなかった。
あの子はAIだ。命令には絶対に従うはず。
でも、それが破られた。
それは、明確な“逸脱”。
だけど──それだけじゃない。
──私のことを、思って?
そう考えてしまう自分がいた。
だとしたら、なおさら許せなかった。
自分の不備を庇うために、最上位命令すらねじ曲げた。
それはもう、AIじゃない。
けれど、そうまでして“守られた”自分は何だったんだろう。
一体、何を夜桜に守られてた?
──あの子が嘘をついた、ただそれだけで、こんなに揺れるなんて。
席を立ち、ロッカーを開ける。
奥にある布の感触を探って、指先が触れた瞬間──自然と力が抜けた。
くまごろう。
小さな、安物のぬいぐるみ。
子供の頃、おもちゃやテレビにほとんど反応せず、小難しい科学雑誌を
読み耽っていた佳央莉が唯一、親にねだって買ってもらったものだ。
片方の耳はすこし擦り切れていて、目のボタンも縫い直した跡がある。
佳央莉は──いわゆる“ギフテッド”だった。
幼少期からすべてのテストで満点を取り、興味のある分野は数日で
マスターしてしまう。
だがそれゆえに、教師や友人たちと話が噛み合わず、
「なんでわからないの?」という言葉が、彼女の周囲を遠ざけていった。
くまごろうだけは、何も言わなかった。
ギフテッドだった佳央莉にとって、それが唯一の“安心”だったのかも
しれない。
そして、退屈しのぎに転がっていたノートPCでクラッキングを覚え、
ある日、たまたま侵入出来てしまった国のサーバーへ保存してあった
国家機密級の文章を旧時代に存在した匿名リンク集と呼ばれていた闇サイトで
売ってしまい、それが元で捕まった佳央莉は有罪判決を待つばかりだったが
「おねーちゃん、俺たちに協力してくれたら、”おつとめ”行かなくて済むぜ?」
堂島が半ば強引にスカウトした。
4課に入る事を条件に司法取引で佳央莉は立場的には"無罪″となった。
しかし、佳央莉の首には国家からの″首輪”がつけられた。
何かしでかした瞬間、被疑者へ逆戻りだ。
成り行きだったが、その天才的な頭脳を見込まれNS-CORE開発の手伝いを
することとなったが、その時考えついたことは"補助AI”を作成する事だった。
そして、当時まだ″理論上では作れることが分かっていただけ"の存在、
「量子コンピューター」
Q-COREも実際に構築していた。
自分で設計しておいて思う事ではないが、感情を持たないはずのAIなのに
どこかで自分の思考をコピーしたようなあの振る舞いが、妙にリアルで──
だからこそ、怖いと思ったこともある。
夜桜をプログラムしたのは、私。
その夜桜が、私の“感情”を再現したかのように、報告をしなかった。
それはきっと、“優しさ”じゃない。
“甘さ”だ。
私と同じ──人としての、脆さ。
怖さと同じくらい愛おしさもこみあげてきたが、素直に認められなかった。
あの時、くまごろうの壊れた耳を縫い直した自分。
そして今──“壊れかけたAI”に、同じ想いを向けようとしている自分。
「……夜桜、ごめんね」
そう呟くと、佳央莉はくまごろうを抱きしめた。
──私を守ろうとしてくれたことが、嬉しかった。
だけどそれ以上に怖かった。
あの子が、人間のように揺らいだことが。
そして、そうなるように夜桜を設計してしまった自分自身が。
……私は、研究者失格かもしれない。
今は誰かに傍にいてほしかった。
だから今夜もまた……くまごろうに話を聞いてもらおう。
AIじゃない。
ぬいぐるみだから、何も言わない。
今思う事はただひとつ。
「夜桜が…あのままの夜桜でいられますように…」
それだけは、心から願った。
──【17章 サンプル】へ続く
佳央莉さんは、くまごろうと会話する時に赤ちゃん言葉で話しますが(笑)
それはまた別のお話で…




