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リョーハという医者〜16世紀の治療法〜

作者: 名無し

初投稿です。

※中世を舞台にした医療と信仰の物語です。

※物語はフィクションですが、当時の時代背景を配慮した作品になっています。

※読み切りです。



 《神よ、僕のこの手はあなたの行う“慈悲”よりも尊く、そして清廉で潔く穢れのないものです。》


 ──16世紀頃、未だ信仰の根強い国と地域では、病は神の試練とされ瀉血と祈祷を行うものとされていた。これが、この時代の「医療の最先端」とされている。人間は神の領域へは到達することが赦されなかった。そんな時代の話しである。

 とある国の静かな街の屋敷にて。その部屋には睦まじい夫婦の肖像画が飾ってあった。古風で豪華な彫刻の書斎机、くたびれた絨毯、そこそこな天蓋のあるベッド、傍らには宗教画と壁には十字架が飾られている。それらには塵ひとつなかった。ベッドには主人が横たわりその傍らには主人の妻である婦人、乳母や下男下女がいる。婦人は金切り声を出していた。

「もうだめ。勘弁なすって。教会へ行って神父様を呼びましょう」

「しかし奥様、教会は何里も離れております。今からじゃとてもとても」

それを聞いた婦人は膝から崩れて泣き噎ぶ。主人は熱病に侵されていたのだ。既に正体なく誰の呼びかけにも答えなくなっている。呼吸も浅く、時々譫言のような言葉を発していた。主人はこの静かな街の地主だった。どの国の街よりも住み良い街にするという夢を掲げ努力をし続け開拓をしていった街の誰にでも愛される一家であった。婦人は夫の掛布に縋り付いて泣き噎ぶ事しか出来ない自分を恥じたが、涙が止まらなかった。

「お願い!神父様を!神父様を呼んでちょうだい!私は祈ります!どんな犠牲も捧げますから!お願いします!お願いしますから!彼を救ってください!」

下女も下男も顔を見合わせ何も出来ずに拳を握って俯くだけであった。乳飲み子を抱く乳母は婦人に寄り添ってさめざめと泣き、その肩を擦り続けた。主人の命はまさに風前の灯火であった。そんな時、その家の庭師がバタバタと足音を立ててやってくる。

「奥様!おいでなすった!」

「いったい誰が?」

「お医者ですよ!お医者!」

「えっ?」

渡りに舟とはこの事である。庭師の背後からぬっと現れたその“医者”は“医者”にしては地味な装いであった。大抵の場合医者とは蝋を塗った黒い革性のガウンを纏いマスクをしているか、或いは宮廷道化師の如くふてぶてしいまでに目立った格好をしているのである。しかし、この“医者”はそれとどれも似つかないのだ。側頭部を刈り揃えた亜麻色の髪は前髪が額に少しかかる程度の長さで、もみあげから流れるような髭が伸びているが、不思議な事にノミもシラミも見受けられない。髭に覆われて唇の色は分からないが青白い肌色と真鍮の輝きにも似た緑色の目をしていた。隠者のような外套の裾は火で焦げたような虫食いのような跡があり、襟を立たせた古びた神父のような出で立ちである。しかし神父につきもののカラーは無く、ロザリオがあるような衿元の位置には所々なにか染みのようなものが目立つが少し覗くインナーのリネンシャツは清潔に見えた。足下は泥や煤で酷く汚れているのに靴は上等な革を使っているようなそんな印象を受ける。草臥れた大きな鞄の持ち手には聖書の装丁を貼り付けていた。婦人を含めその場にいた全員が眉を顰め不安げに目を合わせる。庭師が連れてきたのは“詐欺師”か“浮浪者”なのでは、と。しかし、一見するとそんな不審者のような胡散臭い出で立ちの“医者”からは、不思議なにおいがした。ハーブのようなスパイスのような安っぽい強い酒のような、甘くツンとしたにおいである。

「こんにちは、僕はリョーハと申します」

落ち着いた低い声だが、ただの自己紹介であるのに何か不穏さだけが後残りする気味の悪さを孕んでいる。リョーハは婦人から庭師、下男下女ひとりひとり見て微笑む。

「それで、病人は誰です?」

婦人の詰まる言葉を代弁したのは乳母だ。

「あなたそれでもお医者ですか!?目の前に寝ているでしょう!」

乳母の問いにリョーハは頷く。

「そうでしたか。それは失礼…僕、誰が病人なのか言われないと分からないので」

言いつつリョーハは主人へ近づこうとしたが婦人が立ち塞がる。

「お、お待ち下さい!」

「は?」

「貴方のような胡散臭い方に、大切な亭主を任せるわけには参りません!お引き取りください!」

リョーハは婦人ではなく主人を見る。それから婦人を見た。

「……では、どうします?」

「え?」

「いや、え?ではなくてですね。どうしますか?あなた方は、その大切な亭主とやらに何が出来ます?」

婦人はキッと睨む。

「貴方のような怪しい方には関係ありません!馬車を急がせて教会から神父を呼びます!」

リョーハは納得したように頷く。

「そうですか。ではそうなさい。でも、神父様が着く前にあなたの大切な亭主とやらはきっと天に召されますよ」

婦人はその言動に我慢が出来なかった。婦人は気弱で引っ込み思案だが、神に誓ったのだ。健やかなる時も病める時もこの男を愛し守ると。婦人は涙を堪えつつ気丈にリョーハの頬を叩く。

「お引き取りくださいませ!」

リョーハは叩かれた頬を擦りつつ婦人を見る。その眼孔は精密な計測器を彷彿とさせた。

「…よろしいのですか?」

「ええ!」

「あ、いえ…そうゆう意味ではなく、貴女の亭主が神のもとに召されるのは…本当にそれでよろしいのですか?」

婦人はゾクリとして肩をビクつかせる。リョーハはその様子を観察しつつも胡散臭い笑みを浮かべた。

「よろしいならばそれで結構。では、ごきげんよう」

そう言って立ち去ろうとする。婦人は堪えきれずに涙を目に浮かべて呻くように嗚咽して零した。

「いや、です」

リョーハは振り返りつつ「は?」と聞き直す。

「…嫌です…彼ともっと、いっしょにいたいです…これからなんです…子どもも産まれて…漸く、彼は父親になれたんです。あんまりだわ、こんなの、ひどい…神様、私たちを救って…」

乳母が婦人の肩を抱いてリョーハを睨んだ。

「大丈夫ですよ奥様、わたくしめが傍にいますから!しっ!しっ!あっちへ行ってヤブ医者!見世物じゃないのよ!」

リョーハは乳母の言葉など無視して屈み込むと、さめざめと俯いて泣く婦人の顎を無理やり掴んで顔を上げさせた。

「なにをなさいますの!離して汚らわしい!」

「…僕に言いなさい」

「なにを!」

「僕に…彼を救うよう言いなさい。神ではなく、僕に言いなさい」

婦人はぐっと涙を堪えた。ドレスを絞るように握りリョーハを見据える。


「…彼を、救ってください」


それを聞いたリョーハは微笑んで頷いた。


 見た目からは想像も出来ないほどリョーハの鞄は清潔で整頓されており、見たことも無い金属やガラスの器具で敷き詰められていた。

「…奥様だけこの部屋で僕の手伝いをしてください。他のものは部屋から出てください。静かに出てください。なるべくホコリを立たせぬように」

リョーハの言葉に皆首を傾げつつも静かに退室した。リョーハは胸ポケットから清潔な色の布を取り出して口に当てて後頭部で縛った。婦人はその姿を呆然と見つめた。

「あなたも突っ立ってないで布巾で口を覆いなさい」

婦人は弾かれるように指示に従った。これがいったい何なのか分からない。見るとリョーハは聖典も、聖油も、香炉も何ひとつ持っていないのである。

「奥様、少し僕の話しにお付き合いを」

「は?しゅ、主人は?」

「出来るだけ時間を掛けたくないのです。僕の質問に出来れば正確に答えてください。分かりましたか?」

婦人は言葉の意味を理解したが納得はしなかった。それでもリョーハの知的でミステリアスな眼差し相手には最早頷くしかなかった。

「結構、では御主人の体調が優れなくなったのはいつですか?」

「ちょうど…先週、ミサの帰りから…体が重いと」

「発熱は?」

「五日前からです」

「御主人の意識…つまり、正体を無くされたのはいつからですか?」

「えっと、昼過ぎよ」

「それまでお話は?」

「殆ど会話になりませんでした。ひどく朦朧としていたわ」

「食事や水分は普段通りでしたか?」

婦人は理由の分からない質問に苛立ちを募らせる。

「見ればわかるでしょ?と、とれるわけないじゃないの!早く主人を助けて!」

「落ち着いてください。これは非常に」

「お、落ち着けるわけがないでしょう!」

婦人の呼吸は犬のように早く浅かった。リョーハは埒が明かないと婦人の肩を掴み目線を合わせる。

「奥様、深く呼吸をしなさい」

「何の関係が!離してちょうだいな!」

「深く呼吸をしなさい。ゆっくり、このままでは貴女まで倒れてしまいますよ。それで良いのですか?」

婦人は首を振った。リョーハに合わせ、出来るだけゆっくり深く呼吸をした。

「…あと3回続けて、そう。じょうずです」

呼吸の度に落ち着きを取り戻していく。

「…僕の声が聞こえますか?」

こくこくと婦人が頷くのを確認してリョーハは出来るだけゆっくり話した。

「では確認します。御主人が最後に水や食事をとったのは?」

「さ、昨日の朝です…水一杯と、擦った果物をひと口程度、でも酷く具合が悪そうでした」

「起き上がれましたか?自力で歩行は?」

「いいえ」

「そして、正体が無くなったのは本日の昼過ぎですね?」

「そうです」

「質問は以上です。ありがとうございます」

リョーハは亭主の様子をじっと観察し、首筋に触れる。

 ─呼吸は浅く速め、高熱、草木のような皮膚感…。

次に瞼を開けて、口をこじ開けて覗き見る。

 ─瞳に混濁は無い、口内に発疹もなく、咽頭にそれほど腫れは見られない…流行り感冒にしてはいずれも特徴の整合性に欠ける…。

「全身性…?」

そう呟き掛布を捲りあげてからすぐ眉をぴくりと動かす。ぐっと腕を圧迫すると痛みは感じるようで「う!」と声を上げる。

 ─顕著な圧痛、そして…警鐘のような血脈の弾み。極めつけはこの臭い…。

リョーハは主人の右脚の傷を見ていた。包帯で巻かれているが血膿が染み出している。

「奥様、少しいいですか?」

「わ、わたくし?私より主人を!」

「はい、しかし重要な事です。この足の傷はいつから?」

「え、ええ…ちょうど月曜日のことでして。なんでも老夫婦の畑仕事を手伝った時、誤って農具で傷を作りましたの。それほど血も出ませんで、主人は放っておけばすぐ治ると…この傷がどうかして?」

「………そうですか」

 ─農具の錆が原因か…。とすると。

リョーハは包帯をハサミで切断する。婦人はその臭いにうっと口を覆うがリョーハは鼻を近付けて臭いを嗅ぐ。

「…うん」

 ─腐敗したチーズの臭い。なるほど。

婦人は顔を顰める。

「な、なにをしておいでで?」

「…原因を確認しています」

「げ、げんいんですか?」

「はい。貴方の夫がなぜこのような事態に陥ったのか調べているのです」

「そ、そんなことをしている場合ですか!?貴方は医者でしょう?早く祈祷を!」

リョーハは「…ハァ」とため息をつく。

「貴女に講義してる時間はありませんし、祈祷をする気もありませんね。もっとも、講義が必要なら別途お申し付けを。その時はお茶をお願いします…では、一歩離れて」

リョーハは小瓶を取り出し傷口に振りかける。持ち寄った清潔な色の紙や布で傷口を拭き取る。それから銀色に光る小さなナイフを手にした。医者が持ち歩くような瀉血に用いるナイフではない。婦人は瀉血するものとばかり思い込んでいた。主人の傷口は最初に傷を負った頃の十倍は腫れ上がっていた。ナイフを入れると血膿が溢れてくる。婦人は気絶しそうになったし吐き気を催した。リョーハは見向きもせず静かに言った。

「…目を覆っても構いませんよ」

血膿を出し切るとナイフで皮膚を削ぎ落としていく。婦人は耐えきれずに口を覆ってバタバタと退室した。

「…ホコリを立てないでくださいよ、まったく」

リョーハは削りとったどろどろの皮膚片を紙に取る。これらはもう皮膚としては役目を果たさないのである。血膿を出し切り皮膚を削いでいった。傷口を保護するための軟膏を厚めに塗布する。リョーハは次の行程に移らねばならなかったが、肝心の人がいない。リョーハは「…ハァ」と溜め息をつく。

「すいませーん」

戸口の方へ声を張り上げる。ややあって乳母が酷い剣幕でやってくる。

「ヤブ医者め!奥様に何をしたの!」

「あ…えっと。どうもはじめまして。早速ですが桶をふたつと煮え湯をお願いします。それと出来るだけ清潔な布もたくさん頂けますか?いやはや思ったより結構重篤でして」

「ひとの話しをお聞きなさい」

「僕の話しを聞くべきですよ」

乳母は無礼な態度にリョーハへ歩み寄る。

「ヤブ医者!出ておゆき!」

「…ええ、必ず出てゆきますとも、そのうち。あの、出来れば早目に桶と煮え湯をお願いできますか?僕がいるうちは主人に死なれては大変困りますので」

乳母はぐっと言葉を失って主人を見た。彼女は乳母として雇われる前は身を売るような商売をしてきた。器量も気立てもいい女性で、昔この主人の父親に買われて救われた身だ。現主人を息子のように思ってきたからこそ、喪失はなにより恐ろしかった。婦人も乳母もそして使用人たちも主人を失えば生活を失う。自分たちの人生はこの得体のしれない不審な男の手に委ねられているのだ。乳母は歯噛みする。払おうとした手をギュッと握り静かに手前で両手を結び頭を垂れた。

「…お持ちします。先生」

「はい。どうも。早くお願いします。それと、貴女はここで僕の手伝いを、口布で口を覆ってください」

桶を二つ、煮沸した湯が張ってあった。それをもうひとつの小さな桶へ移し手を洗う。見目や言動からは想像出来ないほどリョーハの指は美しく整えられていた。

「貴女、手を見せてください」

乳母は手を見せる。

「んん、シミや汚れのない手ですね。結構です。このお湯で洗いなさい」

リョーハは言うと腕をしげしげと見て頷く。鞄は観音開きのような構造になっていて、様々なものが規則正しく並べられている。何もかも始めて見る形であった。それらのひとつを手にする。中は空洞で先端に裁縫針のようなものがついている。乳母は目を丸くした。

「…そ、それは?」

「注入器ですよ」

“注入器”と呼ばれたそれに、小瓶に入った無色透明な液体を吸い入れた。

「な、何をする気?」

「…薬を与えるのです」

「く、薬?それが?薬ですって?ただの水でしょう?」

「ええ、まあ、見た目は」

「ただの水なら口から飲ませなさい!そんな得体の知れないもんを旦那様に向けないで!」

「ちょっと静かにしてください」

リョーハは主人の腕に針を刺して薬を注入する。乳母は見たことも無いその治療に発狂しそうになった。

「冒涜!冒涜よ!」

「静かにしなさい、みっともないですね」

棍棒を手にしてこの医者を殴りたかった。しかし、主人を見るリョーハの目は何か見えない物を見ているような、そんな深淵のような眼差しをしていたのである。自分を信じて疑わない者の目だった。注入を終えると、リョーハは清潔な布巾を湯で湿らせて固く絞ると乳母へ差し出す。

「体を拭きます。貴女も手伝って」

乳母は渋々受け取る。手分けして主人の体を拭いていった。リョーハは主人の背中をじっくりと見る。

「…シラミやノミの噛み跡はなさそうですね」

「当たり前です!貧民じゃないんですよ!」

乳母はぴしゃりとそう言い放つ。リョーハは聞いているのかいないのか何も返さない。徐ろに主人の背を示した。

「見てください。床に着いて長いとこのように背が赤くなります。寝たきりですと肉体に様々な悪影響がありますから、寝床で体を動かすようにしてください。そしてなるべく清潔に」

「はい、はい、わかりましたわ」

乳母はこの医者の言う事が真実なのかそうでないのか分からなかった。ただこの声のせいなのか、眼差しのせいなのか、妙に聞き入ってしまうほどの不気味な魅了さを孕んでいる。

「とりあえず、今出来ることはこれが精一杯です」

「へ?」

「なんです?」

「い、いえ、医者はみな瀉血し香油を塗って祈祷をするでしょう?祈祷は?祈祷をあげないので?」

リョーハは「何を言っているんだ」と言いたげに眉を寄せる。

「…それ、必要ですか?」

「え?」

「それで病が治るなら、僕は失業です」

「は?」

「あ、いえ、結構です。とにかく今は終わりです」

リョーハはそう言いつつ手際よく器具を片付けた。乳母はホッとする。漸くこの不審者を家から追い出して再び安寧が戻ると思っていた。

「あの」

「はい?」

「お茶を頂けませんか?」

乳母は嫌な顔をしそうになった。不本意だがこの家の主人を診てもらった手前、何もせずに帰すわけにもいかなかったのだ。


 サモワールは程よく沸いている。乳母は乳飲み子の世話に追われて、テーブルには婦人しかいない。婦人はひと口もお茶に口をつけておらず、額を抑えて肘をテーブルに預けていた。対しリョーハは既にお茶を二杯も飲んでいた。主人に断りもせず良い椅子に腰掛けて非常に厚かましいのである。主人が病に倒れてからというもの、育児や主人の代わりの仕事に追われて家は散らかっていた。大きな屋敷に下男下女がひとりずつ、庭師と乳母だけではとてもじゃないが荒れるのは当然と言える。そんなことを知ってか知らずが、リョーハはさして気にも留めなかった。

「ひと仕事した後のお茶は格別ですね。飲まないのですか?」

リョーハはズボッと音を立てて飲む。下品極まりない。婦人は薮睨みして静かにカップに口をつける。

「お茶はこう飲むものではなくて?」

「失敬。僕は熱がりなのですよ」

「ミルクを入れますか?少しは飲みやすくなりますよ」

「ああ、それはいいですね。助かります」

リョーハはミルクをたっぷりといれた。ズボッと下品極まりない音を立てて飲む。

「これは失敬、どうにも癖になってまして」

「……それで、あなたはどちらの医者?」

「ごくふつうの医者ですよ」

「そうではなくて、国から認可を受けた医者ですか?それとも医者を騙るだけのただの詐欺師ですか?」

婦人は気弱だが気丈な態度を貫く。リョーハはお茶請けの焼き菓子をボタボタお茶に漬けて食べつつ答える。

「…そんな事を知ってどうされます?あなたはどうやって医師が国の認可を受けるのかご存知の上で僕にそれを尋ねているのですか?」

「いえ、知りませんわ」

「じゃあこの話に意味はないですね」

「では」

「なんでしょう?」

「うちの、主人は、主人の病気は悪魔憑きですか?それとも試練でしたか?どうだったんですか?」

リョーハは首を傾げて婦人をじっと見る。何を言っているのか分からないと言いたげな顔をした。

「…どう、とは?」

「ですから、治療をしたのでしょう?その治療の成果ですとか、ありますでしょ?医者なら病人の事を家族に説明するのはふつうのことではありませんの?」

リョーハは目を瞬かせ一拍置いた。まだ口の中に焼き菓子がべったり張り付いていたからだ。にちゃにちゃ音を立てながら口の中を綺麗にしてお茶を流し込んで言った。

「それ、義務ですか?」

「は?」

婦人の呆れ返った顔。リョーハは億劫そうにそして、その婦人にも理解出来そうな単語を探して言った。

「すいませんあの、つまり、それは必要ありますか?」

「ひ、必要です!ふつうは何故そうなったのか気になって当然の事ですわ!」

「ふつうふつうって、貴女の物差しで世間を理解した気になっては僕も困りますよ…じゃあそうですね、貴女に説明出来る事はありません。まだ治療は終わってませんから」

「え?」

「ですから貴女に説明しても意味がないのです。例えば、まだ完結してない物語について詳細を述べられますか?それと同じことですよ」

「で、ではあれは?さっきのあれは?」

「…それより、お茶をもっとください」

開いた口がふさがらないとはまさにこの事である。リョーハは「気が利かない女性だなぁ」とでも言いたげな顔でポットの中を確認する。もうお茶は無かった。やれやれと髭についた食べカスをテーブルに落としつつ立ち上がる。婦人も立ち上がりつつ「どちらへ?」と尋ねた。

「ご主人の様子を見にですよ」

婦人は乳母から「針を刺して水を直接体に入れていた」という旨を聞いていた。リョーハの前へ立ち塞がる。

「今度は私も!」

「構いませんけど、あの、僕の前に立たないでくれませんか

、通れないですよね?」

そう言って婦人を押し退けて居間を後にした。婦人は真っ赤になって怒りそうになった。あの頬をもう一度、今度は強く叩きたくなっていた。主人はまだ意識が戻らずにいる。ただ先程よりかは幾分、呼吸も落ち着いているようにも見えた。下女が婦人へ会釈する。冷や布巾を取り替えていた。リョーハは主人の手を取り指を当てた。婦人はそれを怪訝に見た。リョーハは少し上目に何か考え込むように黙ると頷く。

「じき目を覚ますでしょう」

「ほ、本当ですか?ああ、よかった…神様、よかったです」

リョーハはその言葉に対して何やら言いたげな目を向けたが直ぐに興醒めしたかのように向き直る。

「紙をください」

「え?あ、は、はい、こちらに」

リョーハは羽根ペンを手にして汚い字と絵で何か書いてそれを差し出す。

「この通りに水を作ってきてください。水は必ず一度煮たものを使ってください」

「わ、わかりました」

その後下女から冷え布巾を借り主人の額へ手を置く。

 ─熱は高過ぎてもあまり良くはない、か。

リョーハは下女の方を見た。

「君、濡れ布巾をあと四つほど用意しなさい」

下女は「は、はい!」と返事をして布巾を用意する。それから胡散臭い医者の行動を見逃すまいとじっと見つめた。リョーハは布巾を主人の首と脇の下へ入れている。

「あ、あの、なにを」

「体を効率的に冷やしているのです」

「は、はあ」

リョーハは下女が「なぜ理解も出来ないのに質問をしてくるのだろう」と首を傾げた。ややあって婦人が戻ってきた。

「こちらでよろしいですか?」

婦人はポットをふたつ用意していた。リョーハはそれらを見て匙で舐める。少し考える素振りをしたあと首を傾げ、それから頷く。

「結構です」

「あの、これをどうするのですか?先生の記したように煮沸した水と砂糖と塩を混ぜましたが…こちらとこちら、匙加減が違うみたいですが」

「そうですよ」

それ以上言わなかった。リョーハにとって婦人たちに説明した所で理解を得られない事がわかっていたし、理解を得られた所で何の利益もないのである。片方の水を先程よりもひと回り大きな注入器に入れた。婦人は不審そうにそれを見つめる。

「お待ち下さい!」

「お断りします」

「主人に何をなさるんですか」

「…人間には水が必要なのです。今は意識がありませんので口から飲めないのなら体へ流し込むしかないでしょう?」

そう言うと掛布を捲り上げる。体の状態を見つつ肌を触って指の感覚を研ぎ澄ませた。

 ─ここなら問題はない。裕福な人間でよかった。ハリのある良い脂肪だ。

そう考えると比較的色艶の良い腹部に針を刺す。脂肪を押し分けて皮膚が膨れ上がっていった。婦人は悲鳴を上げそうになった。下女に縋り付く。下女はすかさず声を上げた。

「お、おやめください!おやめください!こんな事は神の冒涜です!」

「…嫌なら見なきゃいいでしょう」

二回ほど分けて注入する。主人の下腹は言わずもがな水膨れになった。婦人は発狂しかけた。

「ああ!ああ!うちの人になんてことを!」

「これはですね。皮下に」

「そうゆうことではなくてよ!」

「…では、どうゆうことでしょう?」

「いったい何をしているの!?わけがわからないわ!」

「貴女は僕に“救ってください”と言いましたよね?ですから僕は救っているんです」

「こんなものの何処か“救い”だと言うのですか!?祈祷もしない、香炉もない、こんなやり方で“治療”だと言うんですか!こんなことは有り得ません!!馬鹿にしてるんですの!?」

婦人は感情的に掴みかかろうとするのでリョーハは手を翳しながら後退って大切な器具の入った鞄を抱える。下女が「奥様!」と後ろから抱えるように制止させた。婦人の情緒はぐちゃぐちゃだった。下女に泣きつく。

「奥様あちらへ、少しお休みになって、当分眠っていないのでしょう?」

リョーハは下女のその言葉を聞いてどこか納得した。人間は眠らないと情緒がおかしくなるのを理解していた。しかし、何故眠らないのだろう、と疑問に思ったがすぐにどうでもよくなる。リョーハはハッとしたように婦人へ声をかけた。

「僕のお茶でも召し上がりませんか?よく眠れますよ!」

婦人はキッと振り返ると下女を振り払ってリョーハの頬を叩いた。どこかスッとしたような顔をすると下女と共に部屋を後にする。残されたリョーハは首を傾げつつヒリつく頬を擦りながら「僕のお茶は美味しいのに…」とボソリと呟いた。独り残されたリョーハは主人の体の下に丸めた布を敷き詰めたり、手首を握ったり、瞼を開けたりなどして、異常者のような行動を取っていた。一方、婦人は庭師と下男に馬車を手配させている。庭師は泣きながら婦人に縋り付いていた。

「勘弁してくだせえ、お許しくだせえ、奥様、俺ときたらあんなヤブ医者だと少しも思わなんだ!あんな悪魔憑きの気狂いだとぁ夢にも思いやせんで、勘弁してくだせぇ、俺はあん方にいちんちでも早くよくなってほしかっただけなんでさぁ!」

婦人は庭師の肩に手を置く。庭師はこの街で開拓を始める前からずっとこの家の庭師として働いていた。真面目で勤勉な人間なのである。

「では馬車を急がせて、教会から神父様を連れてきて、一日でも早くおねがいよ」

「へい、へい、奥様、わかっとります」

庭師と下男は馬車に乗ると教会までの道を真っ直ぐ走っていった。それを見送ると婦人は疲れ切ったように柱にもたれながら倒れ込む。「奥様!」と乳母と下女は抱えた。婦人は憔悴しきっていた。そこへリョーハがぬっと現れる。乳母と下女は振り返って睨む。リョーハは「どうも。はじめまして」と挨拶した。

「失礼ですが、お茶を飲みたいのですけれど」

乳母は言った。

「この国にはまともな医者はいないのかしら!」


 二刻が過ぎようとしている。リョーハは主人の部屋で独りでお茶を飲んでいた。下品な飲み方が乳母の癪に障ったのである。話し相手もいないのでお茶はあまり進まない。治療に使った物や主人の状態を手帳に記載する。リョーハの鞄の底には聖書ように分厚い本が三冊も敷き詰められていた。それらの一冊を開く。無数の付箋、更に頁の余白を補う為に糊でメモ紙が貼られていた。字は余白がないほどに敷き詰められているが第三者には解読不能なくらい乱れた字である。それらを一枚一枚捲りつつ、ズボッと茶を啜る。不意に「うっ」という呻き声。リョーハは素早くぽんと本を閉じてカップを置いて主人を覗き込む。意識が戻ろうとしていた。

「いた、痛い…痛」

掠れた声だが聞き取れる。

「聞こえますか」

「は、ぃ」

「痛いのは当然かと。貴方は全身に炎症を起こしていますので」

「は…ぇん?失礼、どな、どなた、ですか」

「はじめまして。僕はリョーハです。しがない医者です」

「そう、ですか。あの、すみませんが、水を…水を、どうか」

「お待ち下さい」

リョーハは予め婦人に作らせた水を飲ませる。体を支えられながら主人は喉を鳴らして全て飲み干そうとした。リョーハは「慌てずに」と伝えたが彼は渇きに飢えて仕方なかった。普段の調子で飲もうとしたが、嚥下がこれほど難しいものだとは思わず「ごぶっ」と噎せこむ。

「…言わんこっちゃない。大丈夫ですか?」

咳をする度に全身に響いて激痛がする。それでも咳が止まらなかった。リョーハに背中を擦ってもらう。水を噴き溢してしまったことに申し訳なさと恥ずかしさがあったが、痛みでどうでもよくなる。落ち着いた頃には起き上がっていられなかった。リョーハは布巾で水を拭いた。甲斐甲斐しい医者の姿に主人はどうしても謝罪をしたかった。

「すいません」

「それには及びませんよ」

「あの、私の…妻は?」

「生きてます」

主人は顔を顰めた。

「そうではなく、どこに?」

「奥の部屋です」

会話が終わる。主人は眉間を寄せた。リョーハにしてみれば婦人とは話しが合わないのでこれ以上の摩擦を起こしたくはなかったのだ。しかし、主人はそんな事情など知る由もない。

「……あの、会いたいのですが…」

「それはつまり、お呼びした方がいいということで?」

リョーハの言葉に主人は何か言いたくなったが何も浮かんでこないので苦しみ紛れに「はい」と頷く。

「分かりました。お待ちを」

少しして、バタバタという足音。婦人が咽び泣きながら部屋に飛び込んでくるとひしと主人の首元へ縋り付く。

「神よ感謝します!」

主人は嬉しくも少し動揺する。

「よさないかお前、皆が見ているぞ」

「今はどうぞ勘弁なすって!どれほど心細かったか!ずっと目を覚まさずに!」

「ずっと?」

主人はさめざめ泣き続ける妻の言葉に首を傾げつつ乳母を見る。乳母は産まれたばかりの息子を抱いていた。息子の頭を撫でて不思議そうに乳母を見る。乳母も目元を潤ませていた。

「…よかったです。御主人様」

「今日はいったい何日だ?俺は…」

「御主人様、本日は二十日でございますよ」

「なんだって?気は確かか?昨日が十六日で今日は十七日だろう?」

乳母と下女、そして婦人たちが目を合わせる。婦人が主人の頬を撫でさする。

「あの…今日は二十日で間違いないですわ。いえ、無理もないですもの。あんなに魘されて…」

「そうか。そうだったか、それはひどい悪夢だな」

「ええ、本当に」

婦人はいま一度この奇蹟と幸福を噛みしめるように主人を抱き締めた。

「ああ、神様…神様、感謝しています。ありがとうございます、ありがとうございます」

主人は妻の絹のような髪の房を撫でた。

「なあお前、あの医者は?彼にも礼を言わないとならないよ」

「…心配しないで、あのお医者は追い出しましたわ」

「追い出しただって?」

「ええ、あんな下品なヤブ医者いりませんもの。私たちには神がいます。神はあたたかい懐と慈しみで今も私たちを包んでいます。そうでしょう?私たちの祈りがきっと天に届いたに他なりません。でも安心なすって、代わりに神父様をお呼びしてますから」

主人は「そうか」と頷いて妻の頭を撫でて頬にキスをした。

「君がとても敬虔だから、神が俺たちを生かしてくれたんだね。では、共に感謝しよう」


 それから数日後の事である。小さな街の日の当たらない街角。虫食いと焦げ跡のある外套を纏った大きな鞄を手にした男は、貧相な老婆の肌けた胸元に耳を当てていた。すれ違う人々は何か見てはいけないものを見たかのようにサッと目を背けて早足に通り過ぎる。男は老婆の垂れ下がった胸元に耳を当てて目を閉じて言った。

「はい、息を吸って…吐いて。はい、結構ですね…問題はなさそうです」

老婆は微笑んでいる。

「ありがとうねお医者さん。あれからすっかり呼吸が楽になったの」

「そうでしょうね。僕の薬はよく効きますから…夜はなるべく温かくして過ごしてください」

ちょうど、その向こうで黒い馬車が通り過ぎていく。リョーハは振り返った。老婆は喪章を見るとハッとして持っていたボロボロの十字架を手に祈りを捧げる。

「…あれはこの街の地主さんよ。私たちに本当によくしてくださった方なの…やっぱり亡くなったのね。ひどい熱病だったそうよ」

「そうですか。それは気の毒でしたね」

「ええ本当に。いっときは良くなったそうだけど、病は見境ないものね。こんな年寄りばっかり生き永らえたってしょうがないのに、若い人が生きなくちゃ、そうでしょ先生」

男はちょっと困ったように笑う。

「先生、もしそうゆう若い人がいたら、治してさしあげてよ」

「ええ、もちろんですよ」

「神様はきっと見てくださるわ」

「……ええ、本当に見ていればね。では、僕はこれで」

老婆はこっくり頷くとハッとした。

「ああ、先生、お名前は?」


「…僕はリョーハです。無神論者の…しがない医者です」


 ─神様、主人はあなたのお膝元へ往かれました。あの冒涜医者をもっと早く追い出すべきだったのでしょうか。罪深きわたくしたちをどうかお赦しください。



END.


最後まで読んで頂きありがとうございました。

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