51.カリブディス
少し遠くで何か物が壊れる音が聞こえ、まずグエンダルが、続いてシィアが耳をピクリと揺らした。
「聞こえたグエンダル?」
「ああ、たぶん上の階だな」
トーリが怪訝な顔でこちらを見たので説明しようとしたが、この部屋でもすぐに異変は起こった。
食堂の外壁に何かが沢山ぶつかる音がして、場所が窓にかかるとパリンッとガラスを割った。
「キャアァッ!!」
「わっ、何だ!?」
食堂にいた人々から混乱の声があがり騒然とした空気が広がる。そして一部は痛みを訴える人の声。
何が起こったのか?
眉を寄せ辺りへ視線を走らすシィア。だけど自分のすぐ横にあった窓ガラスもその何かによって砕け、それは割れた破片の隙間を抜けてシィアに迫った。
( ――っ!! )
けれどそれがシィアに届くよりもグエンダルの方が早かった。
「…何だこいつ」
握った手を開き、手のひらにあるものを見て眉間を寄せたグエンダル。シィアも覗き込むと、そこには細長い魚らしきものがいた。
いや、紛れもなく魚だろう。グエンダルに握られたので弱々しくはあるがピチピチと体跳ねさせる。
「ニードルフィシュだ」
トーリがシィアの背後から覗き込み言う。
「普通の魚なの?」
「そう。こいつは胸びれが羽のように開いて飛べるんだ。それで口先がニードル、釘みたいに尖ってるだろ。突き刺さったりするから割りと危険な魚なんだ」
「ああ…! そうか、これがあいつらが言ってた鋭い刃か!」
グエンダルが納得の声を放つ。それはグエンダルがカリブディスの件について聞いてきたことのひとつ。
「だろうな。それとこいつは明るい光に向かって来る習性があるから、窓や灯りの側からは離れた方がいい」
トーリのその声は周囲にも伝わり、食堂にいた人々は物かげや窓の下へと避難した。それでもまだぶつかる音や窓から飛び込んでくる魚は後を絶たない。
グエンダルがしかめた顔をトーリに向ける。
「このニードルフィシュってのは大所帯で移動する習性でもあるのかよ」
「そんな話は聞いたことはないな。でも、お前が聞いてきた話の中の流れでいけば一目瞭然だろ」
「……は…、なるほどな。…つまりは逃げてきたってことか」
逃げてきた?
眉を寄せるシィア。苦い顔で零したグエンダルにどういうことかと尋ねようとしたらグラリと船が揺れた。体勢を崩したシィアをトーリが支える。
「シィア、危ないから伏せて」
「何が起こってるの?」
「おそらくカリブディスだ」
「え!?」
「ニードルフィシュはカリブディスに追われて逃げて来たんだよ」
「――!」
その時、再び船が大きく揺れて。割れた窓の向こうに白く長いものが横切った。
「来たな!」
鋭い目をギラリと光らせたグエンダルが、揺れる床をものともせず駆け出す。それについて行こうとしたシィアは、でもトーリに止められる。
「ダメだよ、シィア」
「でもっ、このままじゃ船が!」
「それはそうだけど、」
「なら行かなきゃ! シィアだって何か出来るはずだよ! それにここに籠ってたって船が沈んじゃったら一緒でしょ!」
シィアの正論に、苦い顔をしながらもトーリが「…わかった」と頷いたのは割とすぐ。
「じゃあ僕も行こう。シィアにそこまで言われては僕も立つ瀬がないからね。その代わり危ないと思ったらすぐに引くこと」
「うん!」
さらに騒然とした食堂を抜けてロビーに出る。そこにはもうグエンダルの姿は見えず、代わりにやたらと煌びやかな服の人々が大きな声をあげながらひしめき合っていた。
「おい、どうなってる!」
「私の顔が! 医者はどこよ、医者は!」
「助かるのか!? 船長を呼べ!」
騒がしく集まる人が邪魔で先に進めない。
シィアは眉を寄せたままトーリを見あげる。
「このうるさい人たちが上の階の人?」
「そうだね、たぶん上の階の方が被害は多かったと思うから」
「ふーん…、何で?」
「外の景色をよく見えるようにと窓を広く取り入れ、尚且つ灯りもどの階よりも豪華だ。ということは、…わかるだろ?」
「なるほど」
トーリの説明を受けて同情の気持ちはさらさらなくなった。とにかく邪魔でしかない。
人混みをかき分け進むトーリの背を追い進んでいると、不意に腕を掴まれた。
「お前っ」
「――!!」
「シィアと言ったな、あの狼獣人はどうした!?」
シィアの腕を掴んだのはあのイチャモンをつけてきた貴族の男だ。
「離して、グエンダルなら今はいないよっ」
「どこに行った!? あいつはバインガレエズだと聞いたぞ、ならばわたしが雇おう。だから連れてこい! それで私を守るように言え!」
「は? そんなの知らないよ! 離してってば!」
がっちりと掴まれた腕は振りほどけない。それなら爪でも立ててやろうかと思ったら、ついて来ていないことに気づいたトーリが戻って来て、シィアを捕まえる男を見て眉を寄せた。
「急いでるんだ、その子を離してもらえるか」
「は、なんだお前は? こっちだって急ぎだ!後にしろ!」
その高圧的な態度に、トーリは僅かに目元を緩め口の端をあげた。
見た目は笑顔だ。だけどそうではないというのは続いた声の低さでわかる。
「…ログニアの貴族であってるかな?」
「ん? ああ、そうだ! 私はダンドル子爵だ! わかったならとっとと失せ、」
「じゃあ――、尚さら離してもらおうかな」
「…は?」
「僕は、トーリ・デディエ、デディエ家の人間なんだけど?」
「え…」
動揺したように固まった男。その隙にトーリがシィアの腕を取り返し、「あ、おい――」という声を振り切りその場を離れた。
シィアはトーリを見上げる。今のやり取りはなんだったのか?
気にはなる、けれど今はそんな悠長に話をしてる場合ではない。船は何度も大きく揺れる進むこともままならないのだ。そして外からは爆発音も聞こえる。
外通路に出ると潮の匂いというには濃すぎる、不快な臭いが鼻につき。口元を覆い目を凝らすと、夜の真っ黒な海に浮かぶのは白く光っている皿のようなもの。
ただしその大きさは、砲撃をしている護衛船よりも大きい。
( …あれがカリブディス…? )
手すりに掴まり唖然とするシィアの目の前で、護衛船の一隻が海から伸びた白い腕――、触手のようなものに巻き付かれ海へと引きずり込まれた。
渦が巻きその反動で船が激しく揺れ、シィアは落ちないように手すりにしがみつく。
「シィア、ここは危ない甲板に行こう!」
トーリに支えられながら甲板へと出ると、気づいたグエンダルが白い触手の隙間を飛び跳ねながこちらに来た。ついでに邪魔だった二、三本を切り落としながら。
「シィアも来たのかよ!」
「シィアだって獣人だもん!」
「ん? んー、まあ、そうだけど…」
だからなんだという話だけどシィアには切実だ。グエンダルは軽く目を瞬き、トーリに視線をチラリと向けたあと「…ま、いっか」と頬を掻いた。
「取りあえず、あの白いウネウネしたのは切り落としてもしばらくすると再生しちまう感じだ。だから結局本体を叩かねえといけねぇ」
「本体?」
「シィアもさっき見た、海に浮かんでたあの丸いデカいやつだよ」
「ああ…」
トーリの答えにシィアは眉尻をさげる。
あんなのどうやって攻撃しろと言うのか。しかも海にあり手も届かない。
「それともうひとつ、白いウネウネの中に赤い筋の入ったやつがあるんだが、そいつには絶対に触れるなよ」
グエンダルがさらに付け足した条件に、トーリが視線をやる。
「触れるとどうなる?」
「そこでぶっ倒れてるやつがいるだろ。体が動かなくなる」
「なるほどね、そこで麻痺毒か」
「迂闊な奴らがそれで何人か海に落ちた。動かね体で海に落ちりゃあ あっという間に溺死だ――と!」
その赤い筋の入った触手がこちらへと伸びて来たところへグエンダルがナイフを投げた。
ナイフはスパッと触手を切り落として再びグエンダルの手へと戻る。有耶無耶になって結局見ていなかったあの曲がったナイフの実演に、そんな場合じゃないとわかっていてもシィアは目を輝かす。
そんなシィアの横で切り落とされた触手を見ていたトーリがポツリと零した。
「水に戻った…」
「え?」
「切り落とされた触手が水に戻ったんだよ、ほら」
「え…」
見てみると確かに溶け出した氷のように周りに水が染み出している。
不思議なことだと思うけど、それがどうしたんだろうとトーリを見上げると、見返したトーリはきゅっと口角をあげた。今度は本当の笑顔だ。そして軽やかに言う。
「なんとかなるかも」――と。




