5.朝食
いい匂いがする。スープの匂い。
おかあさんが朝ごはんを作ってくれている。
そしてもうすぐしたら大きな足音がしておとうさんがシィアを起こしにくる。
………ううん…、そんなはずない。
だって、おとうさんもおかあさんも亡くなった。
ゆっくりと目を開けたシィアは一瞬ここがどこか考える。――が、周りは見覚えのある景色。自分の家の居間であり、そこにあるソファーで寝ていたようだ。
起き上がると体の上に掛かっていた服がずり落ちた。大きな服、でもおとうさんのものじゃない。だって匂いが違う。
朝の森のような、前に見た海のような、風が運んでくる遠くの世界の匂い。そしてこれは昨日も嗅いだ記憶がある。
けれどそこに美味しそうな匂いが混ざり込みお腹がグゥーと鳴った。
そういえばここ数日何も食べてなかった。
匂いは台所から漂って来ていて、そちらからは知らない人の気配がする。…いや、知らなくはない、昨日シィアがすがりついた匂いのない人だ。
不意にその気配が動いて、台所から人が顔を覗かせた。
「あ、起きたね」
そう声を掛けられ咄嗟にローブを探すが近くには見当たらない。なので仕方なく先ほどの服を頭から被るけれど、隠そうとした耳は服の隙間からピョンと飛び出てしまった。
既に見られては隠すことも隠れることも今さらで。しかもこの人物には昨日しっかり見られている。
それでもまだ警戒を解くことなく、シィアは台所と居間の境に立つ男を観察する。
おとうさんやおかあさんと同じ白髪だけど二人よりは随分と若く見える。おかあさんのように長い髪を片側で編んでいるが、当然男性で、身長だっておとうさんよりも高そうだ。
シィアの無言の凝視に困ったように下げられた眉と少し細められた目は薄灰色。その表情も眉と同じで困った様子を示しているだけで嫌なものはひとつも感じない。
そして不思議なのは、この男の人からは匂いを感じないのだ。
もちろん普通の匂いはある。服から嗅いだ匂いや洗い髪の匂い、汗だってかくだろうからそういった匂いはある。感情からのものだって感じる。
けれどそういったことでなく。謂わば、道端にある石や今シィアがすわるソファー、窓枠にはまるガラス、窓枠本体だっていい、そういうものと同じで。
生きてるものが持つはずの匂いがない。
おとうさんとおかあさんが亡くなった時とも同じ。
でもどう見ても目の前の人物は生きている。
昨日は余りにも多くの強い感情と匂いにさらされて避難場所として飛びついてしまったけど、改めて考えるとやっぱり不思議だ。
シィアはスンと鼻を鳴らして目を瞬く。やはりあるべき匂いがない。
警戒より未知の興味が勝った。
ソファーから立ち上がったシィアは、困惑顔の男へと近づくとその手を掴む。
一瞬だけビクッと揺れた手。だけど振り払われはせず、シィアは肘辺りまで触れて確認したあとに零す。
「冷たくない…」
しっかりと体温を感じる。なんなら手首に触れた時にはトクトクと脈動も感じた。言うまでもなくちゃんと生きている。
「…ええっと…、それはどういう意味だろう?」
シィアの呟きを拾い、頭の上から返された不思議そうでいてやはり困った感じの声にシィアはハッとして距離をとろうとしたが、被っていた服に足を取られて仰向けに倒れる――ことはなく、大きな手がシィアの背を支えた。
「おっと、大丈夫?」
「――だ、……ぃじょうぶ…」
詰まりながらも答えれば、男は薄灰色の目を緩め目尻に小さくシワを寄せた。そしてシィアの背中からそっと手を離す。
急に冷えたように感じる背中に、離れてゆく体に、思わず手を伸ばしシィアは男の服の端を掴んだ。まるで離れていかないでというように。
「あっ…」
掴まれた方でなく掴んだシィアが驚いたような声を零してパッと手を離す。
何だろう? さっきから自分の行動が謎だ。手を掴み服を掴み、かといって驚いて直ぐに離す。まさに不審でしかない。
相手もそう思ってるだろうと恐る恐る視線をあげれば、男は緩く笑って「フッ」と息を零した。
「鍋に火をかけてるんだ。あれから夜も過ぎてもう朝だよ、君もお腹がすいたろ?」
問いかけにシィアが答える前に、お腹の方がグゥと鳴った。とんだタイミングである。
「フフ、わかりやすい返事だね。じゃあ取りあえず顔を洗ったら食堂においで食事にしよう」
男はそう言い、気まずさと恥ずかしさに耳を横にしたシィアは小さく頷いた。
鼻歌が聞こえる台所に顔を出すと気づいた男が振り返る。
「もうちょっとで出来るから座って待っててくれ……って、僕が言うのも変だな、ここは君の家だし。まあ、もう少ししたら出来るから」
それだけ言うと男は背を向けて、シィアは一瞬迷ったあといつもの自分の席についた。
程なくして目の前に皿が並ぶ。
湯気立つスープに厚切りベーコンと目玉焼き、それから切られたパンにはバターが塗られていた。
おかあさんが亡くなる前にひと通りの生活力は教えられた。けれど、それに反発をおぼえていたシィアが上達するはずもなく。食事といえば、チーズや干し肉や乾パン、温かいものといえば鳥小屋から採ってきた卵を茹でたものくらいで、こんなちゃんとしたものを見たのはおかあさんと食事をしていた以来だ。
ジッとテーブルに並べられたものを眺めていると、自分の皿を持って男が目の前に座る。
「ごめん、お皿とか鍋とか借りたけどちゃんと洗うから。――で、食べないの?」
そう言うからにはこれは紛れもなくシィアのための食事であるらしい。
シィアは男とテーブルの上の食事を一巡見渡してからフォークを取り、小さく祈りの言葉を唱えてから食事に取りかかった。
男に対しての警戒は驚くほど薄れていて、食事を取るシィアに視線が注がれていることにも気づかない。なので食事に一段落ついたとこで「ちょっといいかな?」と声をかけられ、男がこちらを見ていることにやっと気づいた。
「君の名前を聞いても?」
別に名前を聞かれて困ることはない。
「…シィア」
「シィア?」
「……うん」
「そう、シィアか。僕はトーリ。トーリ=ディディエだ。トーリと呼んでくれたらいいよ」
「…トーリ…」
さらにもう一度、トーリ、と小さく口の中で呟く。人の名を呼ぶのも人に名を呼ばれるのもおとうさんとおかあさんの二人以外では初めで、そわそわした気分になる。
そういえば昨日の人たちはこの男の人――トーリを別の名でも呼んでいた。
「…先生?」
「えっ、あ、あー…」
「トーリ先生?」
「や! 違う違う、トーリでいいから!」
その慌てた声に驚いたシィアがビクッと背を伸ばすと、やはり慌てたように、けれど声を落して謝られた。
「ああごめん、シィア。別に怖がらすつもりは…。…いや、あの、呼び方はトーリでいいから」
別に怖かったわけでなく驚いただけである。なのにこの人はシィアを怖がるでなく、逆に怖がらさないようにとする。
そわそわした、そしてこそばゆいような気持ちにシィアは尻尾をゆらゆらと揺らし、トーリがデザートにと出してくれたベリーの実を口の中へと放り込んだ。




