44.魔獣アンガルダドゥ
枯れ葉で火種を起こし細かい枝を放り込むと、やがてパチパチと音を立て始める。その焚き火の出来を満足そうに眺めていたグエンダルの、その耳が不意に大きく揺れて、バッと勢いよく森へと顔を向けた。
「……は?」
小さく声を零しグエンダルは眉間をシワを寄せる。相変わらずアンガルダドゥの気配はそこらをうろうろしていた。だけど自分の意識の範囲内にいるのならば脅威でもなんでもないと放置してたのだが。
それが突如消えて。しばらくして酷く弱々しい気配が再び捉えられた。
( …他のやつに殺られたのか…? )
縄張り争いは良くあることだ。だけど他の魔獣の気配は感じられない。しかもだ、アンガルダドゥだと思われる弱い気配は段々と近づいて来て、その上に地鳴りまで感じる。
その不審さに、グエンダルはいつでも動けるように身を低くして注意深く気配を追った。
気配が近づくにつれ地鳴りも大きくなり、グエンダルはさらに眉間を寄せる――が、そこでハッと思い浮かんだのは、アンガルダドゥの習性。
「…穴を掘りやがったのかっ!」
グエンダルは短く吠えた。
というのも、アンガルダドゥの強靭な爪は地面を掘ることにも特化しており、地中に潜った生き物たちをも捕らえることが出来るのだ。
つまりは自らも潜ることが出来る。
巨体に関わらずそのスピードは並ではない。しかも、その向かう方向はこちらではなくシィアのいる方角。おそらくこっちでは無理だと判断したのだろう。
ただの戦闘馬鹿だと思っていたが、考える知恵もあったらしい。
こちらの方が強いから大丈夫だと高をくくっていた。こういったところが、いつもワイズと父親から注意を受けるところだ。
「――チッ!」
大きく舌打ちをしたグエンダルは己の気配を一度最大限に解放して直ぐ様駆け出す。
自分からしたら再従姉妹であり、沢山いるその中で一番小さく脆弱なシィア。
ワイズの弟――ユージーンが急に姿を消し、再び姿を見せた時にその腕に抱かれていた赤子がシィアだ。…いや、あの時は名などまだなかったが。
見た目はほぼ人間の赤子であったシィア。小さな耳と尻尾がついた姿にギョッとはしたが、毛もなく爪も短い柔らかな手に、思わず伸ばした指がぎゅっと握られて。その握りしめられた力が意外と強かったことを覚えている。
たまたま近くにいたために会うことが出来た小さな再従姉妹。でもそのあとすぐ、ユージーンとシィアは姿を消してしまった。その理由は未だに教えてもらえていない。
狼は身内を大切にする。多少姿が違っていてもそんなのは些細なことだ。
それよりも、握った手の先にあった小さな顔がグエンダルを見止めてぱちりと目を瞬かせたあと、にこりと笑ったのだ。
これは守るべき存在だ――そう思った。
一度は見失ったその存在。そして今、自分が近くにいて、再び失くすなんてわけにはいかない。
( 建物内を行くのはまどろっこしい! )
グエンダルは窓から身を乗り出すと一気に屋根へと上がった。
**
真っ黒な大熊――アンガルダドゥは長い牙を見せつけるかのように大きく口を開いた。
真っ赤な口内から吐き出された息は生臭く、驚きで暫し固まっていたシィアはその不快な臭いにハッと我に返る。
そしてすぐに距離をとろうと後退ると、それに追随するようにアンガルダドゥも前へと出た。
巨体の割に素早い。
だけど巨体ゆえに畳の床を踏み潰すことになり、それが進行を阻む。
距離に余裕は取れたが、同時に「しまった…」とシィアは思う。逃げる方向を考えるべきだったと。
今、森へと出る方向はアンガルダドゥの脇を抜けなければならない。そしてもうひとつ、建物内に逃げる道は多少無理をすればいけるだろうが、そうすれば追いかけて来るだろう大熊によって建物に甚大な被害が出ることは必須だ。
命には代えられないと言えばそうなのだけど。だけどそんなことになればトーリが悲しむような気がした。壊された木像を見つめていたトーリを思い出せば。
シィアは建物内ではなく森へ出ることに決め、ジリジリと体をそちらへと寄せながら隙を窺う。その間に、アンガルダドゥは畳の床から板の床に這い出て、床が重さにミシリと軋んだ。
体全体を表したアンガルダドゥ。今は四つ足となっているため高さはないがそれでも大きい。
そのアンガルダドゥがグッと後ろに下がるように身を屈めた。おそらく飛びかかる手前の動作だ。
相対するシィアも身構える。突撃を躱して周り込めば森へと出られるし、素早さでいえばシィアの方が上だ。
( …落ち着け、大丈夫… )
目つめ合うシィアと黒い巨体の大熊。絶対に目は逸らせない。二人の間に走る緊張感。
だけどそこに、割って入るように強い気配が届いた。
それは強者の気配、――グエンダルだ。
突然のそれにシィアの毛がブワリと逆立ち、同じく動揺したのだろう、アンガルダドゥは一歩後退るように体を起こした。
けれど今は床上にあった巨体、立ち上がれば当然天井に頭が届く。
バキバキッ、メキッ――と、派手な音を立て天井が破壊され、バラバラと埃と瓦礫が落ちる。
せっかく配慮したのに結局は壊されてしまった。
けれどそれで隙が出来た。
( ――今だ! )
シィアは立ち込める埃で視界を遮られているアンガルダドゥの横をすり抜ける。――が、その気配を追うように丸太のような腕がブンッと振られ。そして運悪く、アンガルダドゥの強靭な爪はシィアのローブに引っかかり、そのまま勢いよく外へと飛ばされた。
( しまった…っ!! )
不意な軌道の変化に受け身は間に合わず、シィアは背中から地面に叩きつけられた。
「……ぐっ!!」
息が詰まる。呼吸が上手く出来ずに「カハッ!」と小さな空気が口から漏れる。
痛い。苦しい。
でもそんなことを言ってる場合ではない。
痛みを堪えシィアはすぐに起き上がり、アンガルダドゥは建物の天井を破壊しながら同じく外へと出て来た。赤い目は大きく見開かれ白目が血走っている。完全に興奮状態だ。元から意思の疎通など不可能な相手、当然こちらの状態など汲んではくれないだろう。
( このまま見逃してくれる、…てことはないよね… )
アミュレットのおかげか、痛みはあるが体は動く。
アンガルダドゥの攻め手は直情的で、力にものを言わせ真っ直ぐに突っ込んでくるタイプのもの。躱し続けていれば逃げる隙も出来るはずだ。
だけど――。
シィアはほんの一瞬だけアンガルダドゥの頭上に視線をやり、小さく安堵の息を吐き力を抜いた。
急に身構えを解きその場から動かなくなったシィアに、怯えて硬直しているとでも踏んだのか、ゆっくりと外へと体を乗り出してきたアンガルダドゥ。その愉悦に歪んだ赤い目はシィアから逸らされず、屋根の上に現れた気配を殺した黒い影には気づかない。
そして体が全て外へ出た時に、屋根から飛び降りた黒い影――、グエンダルの踵がアンガルダドゥの眉間へと痛烈に刺さった。
急所への強烈な蹴りにアンガルダドゥはもんどり打つ。
その間に、一撃を与えたグエンダルは反動を利用してくるりと回転するとシィアの目の前へ降り立った。
「シィア、大丈夫か!」
「うん、アミュレットを持ってたから大丈夫」
「は? いや大丈夫じゃねーよ、アミュレットが発動するようなことがあったってことだろ」
「ああ、うん、飛ばされて背中から落ちただけ」
「あ? …あの熊やろう…」
低く喉をグルルと鳴らしたグエンダルがアンガルダドゥの方を向くと、よろめきながらももう立ち上がっている。急所に決まったはずなのに何ともタフだ。
「頑丈すぎんだろ」
グエンダルも同じ意見だったらしい、呆れた声で言う。
そんなグエンダルをアンガルダドゥは血走った目で見下ろし、唾を飛ばしながら大きな咆哮をあげた。
振り上げていた前足を下ろし四つ足で突撃してきたアンガルダドゥにシィアはビクッと体を揺らすが、グエンダルはとても冷静だ。
「隙を見て建物に逃げろ」
それだけ言うとシィアの側から離れるように突進するアンガルダドゥを誘導し、襲いかかる巨体をヒラリと躱しながら背の上に乗り上げた。
鋭く伸びたグエンダルの爪がアンガルダドゥの右目に突き刺さる。
「グガアアァァァッ!!」
耳をつんざく絶叫が空気をビリビリと揺らす。
ペタンと耳を倒したシィアは、アンガルダドゥの背中から飛び降りたグエンダルからの一瞥を受けて小さく頷くと、言われた通りに建物へと走った。
シィアがいては邪魔になるだけだ。
アンガルダドゥは怒りで冷静さを欠き見えていないようだが、グエンダルとのその力量の差は明らかだった。




