43.後悔と魔獣
全速力で森を駆けていたシィアは木の根に足を取られ盛大に地面へと転んだ。
幸い地面は深い苔に覆われていて然程ダメージはないが、でもシィアは突っ伏したまま起き上がる気配すら見せない。
普段ならあり得ない失態だけれど、今はそんなことどうだっていい。
( トーリに、嫌いだなんて言ってしまった… )
そんな後悔が心の中をぐるぐると回り、起き上がる気力を削ぐ。
シィアは苔の地面に置いた手へと額を押し付けた。
トーリが嫌い? あり得ない。トーリはおとうさん、おかあさんと同じにシィアの一等大切な人。
なのにあんなことを言ってしまった。
( どうしよう… )
トーリのあの表情。あんな言葉を言いたかったわけじゃない。あんな顔をさせたかったわけじゃない。でも一度放った言葉はなかったことにはならない。
鬱鬱とした感情をもてあまし、大きく息を吐き出す。その深いため息は地面を覆う苔の前に霧散し、シィアはのそりと起き上がる。
本当に、あれじゃあただの癇癪だ。だからこそトーリにも子供扱いされてしまうのだ。
もう一度息を吐き、ヨシッと気合を込めて今度は立ち上がった。
( トーリに謝りに行こう )
――と、そう思うのに。その場からなかなか動けず、まだ心の奥にある燻っている何かがシィアの足を止める。
自分でもよくわからない衝動。これは一旦落ち着いた方がよいかもしれない。
そう考え直し、取りあえずは水場の方へと戻ることにした。
「…仕方ないか」
トーリにごめんなさいと言いたいけど、これ以上の失言を増やしたくはない。
しょんぼりと肩を落として元来た道を辿るシィアの、その背に「おい、シィア!」と大きな声が飛ぶ。グエンダルだ。
「勝手に先に行くな」
「……何? シィア、一人でも大丈夫だけど?」
「そーかよ、でも今は無しだ。ちょっと面倒な気配がする」
「気配?」
グエンダルは周りに広がる森へと視線を定めぬままに首を巡らせ、シィアよりも立派な耳が何度か向きを変える。
それを見て、シィアも同じく辺りを探ってみたけど何も感じない。色んな意味で眉を寄せてグエンダルに尋ねる。
「…魔獣がいるの?」
その微かに硬い声にグエンダルはシィアを見下ろし目を瞬かせた。
「なんだ、ビビってるのか?」
「…っそんなことないし! シィアだって魔獣と戦えるもんっ」
「へえ、そんなちっさい爪と牙で?」
「そうだよ!」
「ふーん?」
シィアを見る褐色の目は緩く細まり、これぽっちも信じてない顔だ。そしてトーリより上背のあるグエンダル、そこから見下ろされているのも何となくムカつく。
毛を逆立て睨むシィアを笑って歯牙にもかけず、グエンダルはまた森へと目を向けた。
「こいつはたぶんアンガルダドゥだ」
「アンガ、ダ…何?」
「アンガルダドゥ。この辺りに住む人間は『コルガルの黒い悪魔』って呼んでる黒熊の魔獣だ」
「熊…」
「ああ。だだしシィアの三倍くらいの大きさで、爪も牙もそれに以上ある」
「……!」
そのサイズ感にシィアは驚くが、「まあ、だとしてもオレの敵ではないけどな」とグエンダルは得意げに鼻先をあげた。
だけどそのあと、ただ――、と。
「こいつはちょっと…」
「強い?」
「は、馬鹿言え!オレの方が強い! ただ本来なら早々に遠くに逃げてくんだけどなー」
「やっぱりグエンダルが弱いんじゃない?」
「だから違ぇって。これは好戦的な馬鹿か、怖いもの知らずの馬鹿か…。ともかくどう動くか予測がつかねえから面倒だ」
どちらにしても馬鹿で決定らしい。でもグエンダルだってトーリに似たようなことを言われていたけど。――と、そんなことを考えて、自分で持ち出したトーリの名前に「あ…」と零す。
せっかく紛れていたものがまたぶり返して落ち込む。完全に自業自得である。
シィアは何度目かわからないため息を吐いたあと、止めていた足を再び進める。
「戻るのか? …あいつは?」
待たなくていいのかと、当たり前のようについて来てそんなことを尋ねるグエンダル。
あいつとはもちろんトーリのことだ。シィアはぎゅっと眉を寄せた。
「トーリは…、…トーリはまだ忙しいから、だからシィアは先に戻って火の準備をするんだよ」
「へえ、…ふーん」
シィアの答えに対するグエンダルの返答の声はどこか楽しげな響きがあり、横を歩く狼を怪訝に見上げればとんでもないことを言う。
「まあ、あいつが邪魔になったらすぐに言えよ。どうとでもしてやるから」
「…は!? トーリが邪魔なんて――、…嫌いなんてっ、そんなのあるわけないし!」
キッと睨みつけて力説する。
そうだ、嫌いだなんてあるわけないのだ。でも、本当にそう伝えたかったのはグエンダルではない。
シィアはグエンダルを置き去りにまた駆け出す。立ち止まってると色んなことを考えてしまうから体を動かしている方がいい。
もっとも、後で追いかけて来たグエンダルに余裕で併走されたけれど。
息を弾ませ水場まで戻ると、そこには大量の枝が山積みで置いてありシィアは目を瞬かす。
これだけあれば何度でも焚き火が出来そうだ。そしてその功労者であるグエンダルを見上げれば物凄くドヤ顔である。
とは言え、頼んだのはシィアだ。
「グエンダルありがとう」
「はっ、こんなの朝飯前だ」
シィアのお礼にやはりドヤ顔で答えたグエンダルは、朝飯前を示すようにグッと力こぶを作ってみせる。
盛り上がった筋肉はとても立派で。シィアもこっそりと腕を曲げてみたが、どうしたって力こぶなど出そうにない。それに、ここに着いた時もグエンダルは息ひとつ乱していなかった。
それは性別の差か、年齢の差か、純粋な獣人との差か。
ひとつも盛り上がらない自分の二の腕を見てシィアは小さくため息を零す。
でもまあそんなことよりも、だいぶん日も傾き出したし、さっさと火を起こして夕食の下準備をしよう。トーリが戻って来て困らないように。
( ……うん、大丈夫 )
動揺はない。体を動かしたおかげか随分と気持ちは落ち着いた。
「ね、グエンダルって焚き火作れる?」
「当然」
「じゃあお願い。シィア食材持ってくるから」
「食材? もし肉がいいなら森で狩ってきてやるぞ」
「いらないよ、干し肉がまだあるし」
「そんなの取れたての方が美味いだろ」
「取れたてって…」
完全に狼然としたグエンダルに言われるとちょっとアレだが、干し肉は硬いので調理するのにも生肉がいいのはわかる、美味しいし。だけどシィアはまだ、獲物を狩ってそれを捌くという行為が苦手だ。生きるためには必要だというのはわかっているけど。
狩りが本能であるグエンダルは渋るシィアの気持ちがわからず首を傾げる。
でも確かに、狼獣人なら狩りとか上手そうではある。
「今日はいいよ。でも、今度狩りをする時ついて行っていい?」
「おう、いいぞ。本来狼は仲間で狩りをするもんだからな。ちゃんと教えてやる」
「うん」
そこは素直に頷いたシィアは、荷物を置いてある建物の入口へと向かう。その背にグエンダルの声がかかる。
「何か異変を感じたらすぐに呼べよ」
肩越しにもう一度頷いて、壊れて立て掛けてある扉の隙間から建物内へと入った。
藁で編んだ床、トーリ曰く畳と言うらしい――は避け、部屋の隅の床板の上に荷物は纏められていた。
誰もいないとは言えこんな不用心なと思うが、この遺跡の成り立ちを知ればそれは要らぬ心配だとわかる。
でもトーリだって、それをわかっていたからこそこの状態なのだろう。そして、そんな状況を憂いてもいる。
皆んなが落し子を疎んでいる。
それが世間の、世界の、常識。
だから、だからこそ――、
落し子は全てを排除しなければならない。
でもその考えは、結局ナドレーにいた人間たちと同じだ。獣人を疎んでいた人たちと。
自分はそれに対して憤っていたはずなのに。
確かに罪に走ったロブレンのような獣人もいたが、それを解決しようと動いたバインガレエズの獣人たちもいて。シィアの適当な頼みで大量な枝を集めてくれる狼獣人もいれば、山羊獣人の…、…シィアにお昼ご飯を作ってくれた少年もいた。
皆が皆そうでないように、落し子だってが全員そうではないのだ。
そういった偏見を、トーリはシィアに持って欲しくはなかったのだろう。
「……うん、ごめんなさいって、ちゃんと言わなきゃね」
今なら素直に謝れそうだと思いながら食材を纏めた袋を取りあげる――と、
「…?」
足元に微かな振動を覚えた。
それは徐々に強くなる。
( 地鳴り…? )
シィアは辺りを探るように耳を揺らす。
建物が土砂で埋もれていたのをみると、この辺りは地震だったりが多いのだろうか?
それもやはり魔力の影響だったりする?
そんなことを考えていると揺れがさらに強くなった。このまま建物内にいるのは危ないかもしれない。
袋を抱え手っ取り早く開いた壁の一面から森へと出ようとしたシィアは、今度は嫌な気配を感じて足を止めた。
それは凄い勢いで近づいて来て、シィアの全身の毛が逆立つ。
ここに居てはいけない。
早く逃げないと。
シィアの本能がそう訴えかけ再び足を動かしたところで、目の前にあった床が勢いよく吹き飛んだ。
舞い上がった畳がバラバラに崩れ落ちてゆく中、その向こうにいたのは天井に頭がつくくらいの大きな熊。しかもまだ体の一部は床下にある。
グエンダルが言っていた魔獣、――アンガルダドゥだ。




