2.別れ
二話目です
「ねえ、おとうさん、おかあさん。なんでシィアは外に出てはいけないの? 他の人たちと話してはいけないの?」
そう尋ねると、いつも二人は言葉なく悲しそうに眉尻を下げる。
この町外れの家に人が訪れることは滅多にないが、山に入るために近くを人が通ることはたまにある。その際、二人は窓のカーテンを素早く閉め、シィアを奥の部屋へと連れて行くとこう言い聞かせた。
「シィアよく聞きなさい。私たち以外の人の前に姿を見せてはいけないよ」
「見つかっちゃったときは?」
「そうならないように気をつけるんだ。でもどうしても見つかってしまった時は、前に渡したローブがあったろ?」
「あのおとうさんの大っきいの?」
「ああそうだ。私たちがいない時はあのローブを常に着ておくんだ」
「つねに?」
「いつでもってことよ、シィア」
「いつも? でも、大っきいし重いし…」
「シィア、これは約束だ」
「………わかった」
しぶしぶ頷くシィアの頭をおかあさんが優しく撫でてくれ、おとうさんは大きく頷いた。約束は大事だ。ちゃんと守ればおかあさんが甘いお菓子を焼いてくれる。シィアの好きな木の実が入ったクッキー。それに、約束を守っている限り二人が悲しい表情をすることはない。
だから、何故自分が外にでてはいけないのか? どうして他人と触れ合ってはいけないのか? という疑問も、二人にそんな顔をさせたくない思いからいつしか口にすることはなくなった。
でも大きくなるに連れ、その理由は何となくわかった。
だっておとうさんもおかあさんも、夜は灯りがないと何も見えないって言うし、遠くで降る雨の匂いも感じないって言う。
それにだ、物を裂くのに便利な爪もなければ、食べ物を噛み切れる鋭い歯もない。
そして決定的に違うこと。それは約束だとローブを被らせようとする理由。だって二人には大きな耳も尻尾もないから。
……ううん、逆だ。あるからこそローブが必要なんだ。
おとうさんとおかあさんには内緒でこっそりと通り掛かる人たちを見ていたけれど、やっぱり誰一人こんな耳や尻尾はついていない。
自分だけが皆んなと違う。
どうして?
――と、もっともっと小さな頃に、二人と違う自分の容姿について尋ねたことがある。
だけどその時の答えをシィアは覚えていない。
ただ、おかあさんが泣いていて、おとうさんがとても辛そうな顔をしていたことは覚えている。
だからこそ、この問いかけだけはもう二度と、絶対にしちゃいけないんだって心の奥にしまいこんだ。
緩やかに過ぎる、おとうさんとおかあさんとシィアの、三人の静かで穏やかな日々。
揺りかごの微睡みのような優しい時間。だけど流れる時間は止まることはないし戻ることもない。
いつもより随分と白い顔で目を瞑ったままベッドに横たわるおとうさんの横、目元を赤くしたおかあさんをシィアは見上げた。
「ねえ、おかあさん。おとうさんはずっと寝ているの?」
「いいえシィア、おとうさんは寝てるのではなく亡くなったのよ」
「なくなった?」
「そう…、もう会えないの」
「でもおとうさんはここにいるよ?」
「そうね、でももう二度と目を開けることはないし話をすることも出来ない。それにこの体ももう少ししたら土の中に埋めてしまうのよ」
「え、そんなっ!? そんなことしたらおとうさんに会えないよ!」
「そう、そうよシィア。それが死ぬということ。おとうさんはね、亡くなったの」
「……でもっ!」
おかあさんがシィアをぎゅっと抱きしめる。
「シィア、シィア、人は何れ亡くなるの。それは当然のこと、誰にも覆せないわ」
「でもっ、でも…!」
「貴方も、私も、…そう、私も…」
「おかあさんも…っ!? そんなの嫌だ! だめ! 絶対にだめ!」
「………シィア…」
首を振るシィアを宥めるかのように抱きしめる力が強くなった。「…ごめんなさい」と震えた声がする。
「……ごめんなさい……」
もう一度聞こえたおかあさんの声はやっぱり震えていて。でもその謝る意味がシィアには理解出来なかった。
そして、おとうさんが土の中へと埋められてゆく。
集まった人たちが白い花を捧げるのを、ローブを深く被り離れた場所からシィアは一人見守る。
初めて出た外の世界は細かく降る雨で灰色に染まり、微かに届く花の香りは寂しく悲しい匂いがした。
それからおかあさんは度々シィアを外へと連れ出すようになった。もちろんローブは被ったままでだ。
物の買い方、店の場所。船が泊まる港にも行った。
広大な海を見て目を大きくするシィアに、この向こうにはたくさんの国があるのだとおかあさんが教えてくれた。そして。
「私になにかあった時はこの家の人に――」
「なにかって何? おかあさんはなんにもならないよね?」
「そうね、何もないけど、もしもの場合よ」
「……………聞きたくない」
「……仕方ないわね、じゃあまた今度にしましよう」
外に出られることは楽しいけれど、その度に教えられる知識がまるでこれから先の準備をしている気がしてシィアの心を重くしてゆく。
「おかあさん…、おかあさんはどこにもいかないよね?」
「ええシィア、私は貴方の側にずっといるわ」
「約束だよ」
「……ええ」
約束は大事だ。なのに。
冷たくなったおかあさんの体の傍らでシィアは掠れた声を零す。
「…おかあさんの嘘つき…」
結局、おかあさんも、シィアを残して亡くなった。
どこにもいかないって、側にいるって言ったのに。
日に日に小さくなっていく背中に何もしてあげられないまま、おかあさんはベッドの上にいることが多くなり。静かに静かに、まるで眠るように。閉ざされた目は二度と開かなくなった。
呼びかけても返事はない。泣き叫んでも起きてはくれない。
それが死ぬということ。大好きな、大事な人であっても何れ必ず訪れる別れ。
このところずっと続く細かい雨の音を聞きながらおかあさんの傍らにいる。けれど、シィアの鼻はとてもよい。だからその匂いを敏感に嗅ぎ取っていた。
ものが腐ってゆく匂い。
おかあさんの体が朽ちてゆく匂い。
( …離れたくない )
けれど離れないといけない。
そしてどうすべきかは知っている。おとうさんと同じようにおかあさんも土の中に埋めるのだ。
「……おかあさん…、おとうさん…、」
その声は静かな部屋に響くだけで。
シィアは、ひとりぼっちになってしまった。
それから三日ほどおかあさんの体の側に寄り添ったあとシィアは行動に移した。
夜の闇に紛れておとうさんが埋められた場所、お墓というらしい、そこへ向かい穴を掘る。
おかあさんも埋められるならおとうさんと一緒の方がいいはずだ。だから一生懸命掘る。
だけど幾ら鋭い爪を持っていても流石に一日では無理だ。それにもう辺りが明るくなってきた。なので今日のところはそれ以上断念して家に帰り、おかあさんの横で丸くなり眠りについた。
トントンと控えめなノックの音が聞こえてシィアの意識が浮上する。
家の前に人の気配を感じて身を強張らせるが鍵は掛けてある。シィアの耳が会話を拾う。
「どうする? 鍵を壊すか?」
「確かにここのところ全く姿を見ていないって嫁さんも言ってたけど…。だが、今日はまだ墓が荒らされたことを伝えに来ただけだからなぁ」
「じゃあ一旦持ち帰るか」
「ああ、他の奴らにも話してみよう」
そのまま人の気配は去りシィアはほっと息を吐いた。だけど先ほどの言葉、墓と言ったそれは、たぶんおとうさんの墓ことだ。でも、荒らされた? シィアはそんなことをした覚えはない。
どういうことだろう?
そなことをもんもんと考えていると人の気配が再び近づいてきて、今度こそ家の扉が開けられてしまった。
今回は起きていたシィアは奥の部屋へと直ぐに身を潜め、耳をすませる。家の中の物音なら簡単に聞き取れるから。
でもそこからがとても騒がしかった。
おかあさんを見つけた人たちの声とそこからさらに増えた人。入れ替わり立ちかわり人が行き来し。やっと静かになったのは真夜中、雨に滲んだ月が空の一番上まで昇った頃。
シィアは潜んでいた場所から這い出ておかあさんの元へと向かい、真っ白な服に着替えさせられたおかあさんの横に丸くなる。
雑多な人の感情と匂いがシィアを疲弊させたがこうしているとそれも解れる。
ずっと皆んなの話を聞いていた。明日にはおかあさんもお墓へと入るようだ。
自分の思わくとは違い、おとうさんと同じところではなくその横だということらしいが、二人が隣り合えるなら問題はない。
だからおかあさんと共にいられるのはこれが最後。最後の夜だ。
「…おかあさん」
零した声に当然返事はない。それでも小さく繰り返す。目を瞑れば聞こえないはずの声も聞こえた気がした。
『シィア、私の可愛い子、愛しているわ、ずっと』