四歳年下の生意気な彼女
「先生、好きです。つ、付き合ってください」
卒業式シーズンになってくると、顔を真っ赤にしながら俺に告白してきた卒業生の事を思い出してしまう。
あの日、新卒一年目の新任教師だった俺は、一人の女子生徒に告白された。
その卒業生は、真面目な生徒だった。授業で分からないところがあると職員室まで質問しに来たし、テストではいつも高得点を取るような子だったことを、今でも覚えている。
だから、まさかその女子生徒が俺に告白してくるなんて、思ってもいなかった。
ただ、その生徒に告白されて、嫌ではなかった。むしろ、嬉しかった。それは間違いない。
それでも、俺はその告白を断った。
当時、俺は二十二歳。相手は十八歳。十八歳といえば、まだ、無限の可能性を秘めている時期だ。
俺がその生徒の告白を受けてしまったら、その子の将来の可能性を潰してしまうのではないか。
そう思うと怖くなって、俺はその子の気持ちに応えることをしなかったのだ。
だから、その卒業生との関係は、そこで終わる——
——ことはなかった。
「お先に失礼します」
「成瀬先生、今日は早いですね。何か用事でもあるんですか?」
「まあ、はい。人と待ち合わせをしているので」
「そうですか。それじゃあまた、月曜日」
同僚の先生に挨拶をしてから、務めている高校を後にして、足早に最寄り駅へと向かった。
待ち合わせ場所の近くに到着して腕時計を見ると、まだ少し時間に余裕があったので、トイレの洗面台の前で鏡を見ながら柄にもなく前髪をいじり、それから待ち合わせ場所に向かう。
すると、まだ待ち合わせ時間まで十分以上余裕があったはずなのに、見覚えのある人影が見えた。
「せんせ~ 遅い! 遅刻だよ! 高校教師としての自覚が足りないんじゃないですか?」
「待ち合わせの時間まではまだ13分もあるだろ。それに、俺はもう、君の先生じゃない」
「駄目ですよ、言い訳したら。彼女を怒らせたときは、まず謝ってください」
そう言いながら、待ち合わせ相手は目の前でわざとらしく頬を膨らませている。
いかにも面倒くさそうなこいつは榛名由紀。二年前から付き合っている、四歳年下の、まあ、一応、彼女だ。
二年前の卒業式の日、俺は当時卒業生だった由紀に告白された。
その時は、「気持ちは嬉しいけど、これからの人生できっといい人に出会うよ」とかなんとか言って断った。
その日はそれで引き下がってくれたのだが、由紀は次の日から、俺の退勤時間を狙って校門で待ち伏せをしてくるようになったのだ。
そして、俺が根負けする形で今に至るという訳だ。
「……悪かった」
「よくできました」
仕方なく謝ると、由紀は満足そうにうなずいてから、左手を差し出してくる。こんなに寒い日だというのに、彼女は手袋を着けていなかった。
「はい、先生」
ため息をつきながら、自分の右手で由紀の冷えた手を包み込む。
「だから、俺はもう君の先生じゃないってば」
「そう? 私は高校卒業してからの二年間、先生に色々教えてもらったよ? ハジメテの事とかもね」
由紀は「ハジメテ」という言葉を強調して、ニヤニヤしながらウインクしてきた。
「はあ、二年前はあんなに真面目ちゃんだったのに」
卒業式の日に顔を真っ赤にして告白してきた時の由紀は黒髪ロングで、高校生だったので当然化粧もしておらず、名実ともに優等生と言った感じだった。
しかし、大学生になって二年も経った今。由紀は髪を明るい茶色に染め、パーマをかけている。化粧はそこまで濃くはないが、元々整っていた顔立ちをさらに強調させており、垢抜けていた。
そして、それに伴ってなのか、言動もなんだか生意気になった。
「あの頃の私の方が良かったですか?」
「……そうは言ってない」
確かに昔の由紀はかわいかった。でも、今の由紀も十二分にかわいい。それは間違いない。
「えい!」
目をそらしながらそう答えると、由紀が俺の胸に飛び込んできた。
そして、すんすんと服の匂いを嗅ぎだす。
「ふむ。他の女の匂いがしますね」
「いや、そんな訳ないだろ」
「もしかして先生、私という彼女がいるというのに、現役JKに手を出してないよね?」
「誰が出すか。高校教師舐めんな。今の時代、そんなことしたらあっという間にSNSで拡散されて仕事を失うわ」
胸に縋りついてくる由紀を追い払う。しかし、俺に追い払われたのに、なぜだか由紀は嬉しそうに笑っていた。
「へへ、先生のそういう責任感が強いところ、安心できます」
「人として当たり前だろ」
「そういう事じゃなくて、浮気しなさそうだなって」
個人的に大学生に手を出している高校教師という時点でかなりグレーな気もしているのだが、由紀に信頼されているのなら、まあいいか。
「じゃあ、そろそろ行こうか。何食べたい?」
「う~ん。今日は焼き鳥がいいな」
「なんか、好みがずいぶんジジ臭くなったな」
「あ~! 先生酷い! 大人になったと言ってください」
「まだ子どもだろ」
「もう二十歳です~! お酒もたばこも、車の運転だってできます~」
「お酒とたばこはできれば控えてほしいな。それと、車の運転は十八からできるぞ」
「ふん! 彼女にジジ臭いとか言う先生のいう事なんて聞きませんから!」
由紀はぷい、とそっぽを向いてしまった。
つないだ手を離さないので、本気で怒っているわけではないだろうが、せっかくのデートなのに、いつまでも機嫌を損ねられていては困る。
「ごめんって。焼き鳥屋で奢るから、許してくれ」
「デザートにダッツが食べたいです。コンビニの」
「なんでわざわざ高いところで買わせようとするんだよ。まあ、いいけど」
「やった。じゃあ、許す」
すっかり上機嫌に戻った由紀がニッコリ笑顔でこちらを向く。
まったく。一体どこでこんなあざとさを身に付けてきたのか。高校時代の由紀とのギャップが凄まじい。
最近の大学では真面目ちゃんでもあざとくなれるような講義が開校されているのかと疑いたくなってくる。
「先生、早く行こ! お腹空いたよ」
「だから、もう先生じゃないって言ってるだろ」
「えー 私にとって、先生はいつまでも先生なんだけど」
「じゃあ、由紀はいつまでも俺の生徒って事になるけど、それでもいいのか?」
「……それは嫌です。私、もう彼女ですから」
由紀が拗ねたように呟いた。これでしばらく大人しくなるだろう。そう思ったのだが、由紀はにまりと笑って俺の顔を覗き込んできた。
「分かった。先生、私に名前で呼んでほしいんだ」
「な、ち、違っ」
「あー 照れてるー やっぱりそうなんだー そうならそうと言ってくれればいいのにー」
くそ…… 四歳年下の、元生徒に手玉に取られるなんて……
せめてニヤニヤと生意気な笑顔を浮かべる由紀を追い払おうとすると、由紀は俺の耳に手を添えて、息を吸い込む。
「拓海」
そして、吐息交じりの声で俺の名前を呼んだ。
「…………っ!!!...............」
「拓海、顔真っ赤だよ」
「……うるさい」
「あはは! ほら。拓海、行くよ!」
俺は、ご機嫌な様子で俺の手を引く由紀の手を少しだけ引っ張り、わずかながらの抵抗をすることしかできなかった。
◇ ◇ ◇
「レモンサワー もう一杯飲んじゃおー」
「由紀、あんまり飲み過ぎるなよ」
「大丈夫だって。私、拓海よりもお酒に強いし」
まあ。確かに由紀の言う通り、彼女はお酒に強い。しかし、由紀の頬がほんのり桃色に染まっていたので、一応声をかけておいたのだ。
すると、由紀は美味しそうにねぎまを頬張ってから、俺に串の先を向けてきた。
「拓海。さっきから私のこと、子ども扱いし過ぎじゃない?」
「……実際、子どもだろ」
由紀に睨まれてしまったので、ビールを飲みながらそうごまかす。
ただ、俺が由紀を子ども扱いしているというのは事実だった。
だって、そうでもしないと、由紀が四歳も年下であることを忘れてしまいそうになるのだから。
由紀は俺より年下で、守らなければいけない存在なのだ。
絶対に自分の勝手な欲望で、由紀を踏みにじるわけにはいかない。
「ねえ、拓海」
不意に由紀が俺の名前を呼んだ。
「私、もう子どもじゃないよ。お酒だって飲めるし、たばこだって吸えるし、車の運転だってできるんだよ」
「そうだな」
「では、ここで問題です」
由紀は人差し指をピンと立てる。
「車の運転は18歳からできますが、18歳以上ならできることが、他にもあります。それは何でしょう?」
分かっている。多分、由紀は本気だ。本気で俺の事を好いてくれているのだろう。
俺だって、由紀が大好きだし、結婚したいとも思っている。
由紀は贔屓目なしでもかわいいし、最近は生意気だけど、素直で優しくて、善い子だ。
きっと、大学でもモテているんだと思う。
いつ他の男に取られてもおかしくない。その前に結婚して、自分の物にしてしまいたい。
そんな身勝手な思いが、ないわけではない。
でも、由紀は俺の彼女である前に、元生徒だ。
もし。今、俺が由紀と結婚したら、確実に由紀の未来を狭めることになる。
自分の生徒の未来を奪うなんてこと、俺にはできない。
「選挙に投票できるようになる、かな」
だから、俺はごまかす。ヘタレだと呼ばれても構わない。
「拓海、わざと言ってるでしょ」
目の前の由紀が、そう溜め息をついたタイミングで、追加で注文していたレモンサワーが届いた。
由紀は届いたばかりのレモンサワーをごくごくと三分の一ほど飲んでから、ジト目で俺の事を見てくるが、俺はだんまりを決め込む。
「私のお父さんもお母さんも、成瀬先生だったら安心だねって言ってるんだよ?」
「ごめん。でも、由紀が大学を卒業するまでは、待ってほしい」
「まあ、ここで軽々しく結婚するって言わずに、しっかり責任を取ろうとしてくれるのが拓海のいい所なんだけどさ」
由紀はそう言うと、いきなり席を立ち、テーブルに身を乗り出しながら、俺の顔を両の手で挟んできた。
突然の事に、俺は思わず固まってしまう。
「ゆ、由紀——」
それ以上、言葉を発することはできなかった。
由紀の柔らかい唇に、俺の口が塞がれてしまったからだと理解するのに、少しの時間が必要だった。
初キスはレモンの味だと言うが、今日のキスはアルコール風味のレモン味と、焼き鳥のタレの味だな。
そんな現実逃避をしていると、ようやく唇が解放された。
「拓海。私だって、いつまでも子どもじゃないんだよ」
パーマのかかった髪の毛を耳にかけながら、いつもよりも低い声で、由紀がそう囁く。
桃色に染まる頬も。ニヤリと少し上がった口角も。酔いのせいか少しとろんと下がった目尻も。
ともかく、由紀の全てが、妖艶な雰囲気を醸し出していた。
俺はそんな由紀に惹かれ、息をすることすら忘れて見入ってしまった。
ああ。もう、あの頃の、顔を真っ赤にして、子どもっぽい告白をしてきた由紀ではないんだな。
月並みな言い方しかできないが、大人のレディになったのだな。
目の前でしてやったりという顔をしている由紀に、俺は嫌でもそう理解させられた。
「拓海」
由紀に名前を呼ばれ、俺ははっと意識を取り戻す。
「もし、私が大学卒業するまで待てなくなったら、いつでも教えてね」
由紀は両手で頬杖をつきながら、ふわりと笑う。
由紀が大学を卒業するまで、あと、二年。
俺は、あと二年も、待てるのか?
動揺する俺の様子が面白かったのか、由紀はいつの間にかニヤニヤと生意気な笑顔を浮かべていた。
俺はそんな由紀から目をそらし、ジョッキに残っていたビールを一気に飲み干す。
とりあえす、結婚できるだけの貯金は、今のうちからはしっかりとしておこう。
俺はアルコールが回った頭で、そんな決意してしまった。
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