女子サッカー選手として有望視されていた女子高生が「失明する」と突如告知される。『光を』
待合室で待っていると、名前を呼ばれた。
診察室に入ると、医者がパソコンの画面を見ながらこちらを振り向きゆっくりとした口調で
「私が思っている病気であれば大変な病気で失明するかもしれません。
一度、大きな病院で診てもらった方がいいです、ご家族の方と一緒に」
愛知県の名古屋市で生まれ、物心がつく前に両親が離婚していて、
私は母に育てられ、父の顔を覚えていなかった。
母は、近所のスーパーで働いていて、平屋の6畳2間に、4畳位の台所のある、家に住んでいた。
幼稚園に入園するまでは、保育園に預けられていて。
小学2年生の時にテレビで見た女子サッカーに感動をして、母にサッカーをはじめたいと言ったが、あまり裕福ではなかったので、母にダメだと言われて、泣いた事があった。
小学3年生になり、誕生日の日に、母から「家の近くでしている、市民サッカークラブに、入部の手続きを済ませて来た。」と言われ、サッカーボールをプレゼントしてもらい、大喜びをしてサッカーに夢中になった。
中学3年年生の頃、女子サッカー部がある、私立の高校から特待生としての誘いがあり、
学費が掛からないと言う話しだったので、母にお金の心配を掛けないですむと思い、喜んで行く事に決めた。
高校での部活はとてもきつく、先輩との上下関係も厳しく、
全国から女子サッカーで名前の知られた子達が集まっていたが、1年もつづかずに辞めて行く子も多かった。
私は人一倍、負けん気が強く、絶対に上手くなると心に誓い、頑張り
、高校2年生の頃には日本の代表選手にも選ばれて、スターティングメンバーでは無かったが、何度か試合に出場して、活躍をしていた。
高校3年生になって、5月頃に上手くプレーが出来なくなっていて、
練習後に監督に呼ばれ「最近、おかしいな。どうしたのだ。」と聞かれ、
「目が、少し変なのですけど、大丈夫です。」と答えると、監督に
「何か合ったら、チームに迷惑が掛かるから、1度、病院に行っとけ。」と言われ、母にその事を話して、家の近くの眼科に行く事になった。
母に話をした翌日に、学校を休み、小さな眼下に行くと、
待合室には、1人しか待っていなくて、すぐに名前を呼ばれた。
病室に入ると、女性の先生がいて、「今日は、どうしたのですか。」と聞かれて、
「最近、目が見えにくくなって、視野が狭くなっている様に、感じるのです。」と、答えた。
先生が「何時頃からですか。」と、聞いてきたので、笑いながら
「よく分からないのですけど、1年位前だと、思います。
少しずつなので、慣れてきて。」と言うと、先生は少し顔をこわばらせ、真面目な顔をしながら「大丈夫だと思うのですが、私の思っている病気だったら、大変な事なので、1度検査をしましょう。」と言って。看護師さんを呼んだ。
看護師さんに診察室を出て、右奥の部屋に連れて行かれ、視力の検査や、目に空気を当てる検査などをして貰い、待合室で待つ様に言われた。
少しの間、待っていると、名前を呼ばれて診察室に入ると、先生に「目の写真を撮ります。目を大きく開いて下さい。」と言われ、写真を撮った。
先生は、真面目な顔をしながら「今日はこれで終わりです。検査の結果は3日掛かりますので、3日後以降で、今度は、いつ来れますか。」と聞かれて、少し考え、早い方が良いと思い「3日後でお願いします。」と言って、3日後に、診察の予約を入れて、家に帰った。
3日後に病院に行くと、先生が深刻な顔をしながら「正直、最悪の病気です。
病名は網膜色素変性症、この病気の症状は、視力が低下して、だんだん視野が狭くなって行き、失明する事があります。ここでの治療には、限界がありますので、大きな病院に紹介状を書くので、身内の人と、行って、そちらで見て貰ってください。」と言われ、私は茫然とした。
先生に「名古屋国立医療センターが、良いと思いますが。」と言われて、その病院に行く事にした。
「日にちと、時間なのですが、身内の人と、一緒に行ってもらった方が、良いと思いますので、今から身内の人に、連絡をとれますか。」と聞かれて、
母は今日、仕事だったが、私が「今日、病院に行くから。」と言っていて、母が「今日はケータイ電話を、常に持っているからね。何かあったら直に、電話を掛けてくるのよ。」と、言われた事を、思い出し、電話を掛けた。
電話を掛けると、5回位のコールで、電話に出て「どうしたの。何かあったの。」と、母の声が聞こえた。
私は病院での事を話し「お母さんと一緒に、病院に行った方が良いと、いわれたから、いつ仕事、休み。何時だったら行ける。」と聞くと、「5日後だったら、大丈夫。」と、返事が帰ってきて、5日後に名古屋国立医療センターに、予約を入れてもらった。
その日、家に帰ると、母がとても心配していて「大丈夫なの。」と、聞いてきたので、笑いながら「病院の先生が大げさに、言っているだけだよ。」と、答えた。母は深刻な顔をしながら、ため息をつき「夕食の準備をするね。」と言って、台所に向かった。
5日後、母と2人で、名古屋国立医療センターに行き、午前10頃に名前を呼ばれて、診察室に入ると、背が高く、少し太った先生がいて、紹介状と、前の病院で映した目の写真を渡した。
先生は紹介状に目を通し、写真を見始め、写真を見終えると、深刻な顔をして
「やはり、網膜色素変性症です。」と、いった。
私が、母の方を向き、顔を見ると、母は大きな声で「治るのでしょうか。」と先生に向かって、言っていた。
先生は母の顔を見ながら「正直、分かりません。
この病院で、もう少し、検査をしましょう。そうすれば分かるはずです。」と言って、テーブルの上に置いている、パソコンを触りはじめた。
パソコンを見ながら「つぎの検査の日ですが、1番早くて、6日後、その後は7日後、10日後が、空いていますが、もう少し日にちを、あけた方が良ければ、見直しますけど。」と、話してきた。
母は私の方を見ながら、手を私の肩に置いて
「早い方が良い。6日後にしましょう。検査だけなら、一人でも大丈夫でしょう。」と言ってきたので、
「うん。」と答え、6日後に一人で診察に行き、検査結果をを母と聞きに行く事にした。
その日から、イライラする事が多くなり、優しく、話しかけてくれていた母に、やつあたりをした事もあった。
検査が終わり、数日に母と診察に行き、診察室に入ると先生が優しく
「少し、お母さんと話がしたいから、診察室の前で、待っていてくれるかな。」と言われて、診察室を出た。
それから、10分位が経ってから、母に「純子、入って来て。」と言われ、診察室の中に入り、先生が座って居る前の、椅子に座った。
先生が優しい口調で「驚かないで、聞いて下さいね。お母さんが、話しても良いと言ったので、話をしますね。
あなたの目の病気は、進行が速くて、おそらく、3年後には、目が見えなくなります。
名古屋盲目センターを紹介しますので、これからの事をお母さんと良く相談をして、
1度、名古屋盲目センターに、言ってください。」と、話をされた。
私は何も言えず、肩を震わせて、泣いていると、母も泣きながら、私の肩にそっと、手を置いた。
病院から家に着くまで、母との会話はなく。
家に着くと、すぐに、自分の部屋に行った。
夕食の時に、母から、盲目センターの話をされたが、私は「今は、行きたくない。」と、言い。部屋に戻った。
翌日、学校にいくと、同じ部活の、同じクラスの子に「病院、どうだった。」と聞かれて、
「少し悪いみたいだから、今日は部活を休むから、監督に言っておいて。」と話し、その日から、部活を休む様になった。
1週間が過ぎた頃、監督に呼ばれて、職員室の奥の、小さな個室に連れていかれた。
部屋の中に入り、椅子に座ると、監督が
「目が、悪いのは分かるが、どうして部活に、顔を出さないのだ。」と言ってきて、私は、堪えきれずに、涙を流しながら、病気の事を話した。
監督は、大きなため息をつき、私を見ながら「そうだったのか。でも、純子は推薦で、学校に来ているから、部活に出ないと、学校を辞めさせられるかもしれない。俺が校長に話をしても良いが、試合には出られなくても、今まで一生懸命に頑張って来たのだから顔ぐらいだせばいいじゃないか。」と言われ、
「はい。」と、頷いた。
その日から、部活に出る様に為ったが、目は、どんどん悪くなっていき、大会には出られなくなり、
監督に言われて、グランドの隅で、1年生の体力作りや筋トレの指導をしていた。
レギラーだった仲間達は、広いグランドの中で、私の事など忘れているかの様に、練習をしていた。
みんなからは「純子が試合に、出られなくなったから大変だよ。純子の分まで頑張って、絶対に私達は、全国大会で優勝するから。」などと、言われて、そのたびに、笑顔を作り「頑張って。」と、答えていた。
でも正直、3年生の私達は今度の大会で引退する事になるので、早く終わってほしいと言う思いがあり、そんな自分が嫌になっていた。
そして、だんだんと目が、見えなく為って行き、怖い、苦しい、つらい、悲しい、どうして私なの、私が何か悪い事をした、死にたい。と、思う様に、なっていた。
高校生活、最後の大会が始まり。
地区予選を勝ち上がって全校大会に出場が決まり、決勝まで勝進んだ。
私達の学校が3対1で勝っていて、後半が終わり、ロスタイム3分と掲示板に表示された。
その時、監督が、ベンチに座っていた私の背中を強く叩き
「交代だ。行けるな。」と言ってくれて、私は急いで、グランドに向かった。
グランドの中に入ると、応援席から、大きな歓声が湧き上がり「頑張れ、純子、頑張れよ。」と、声が聞こえて、グランドの中でも大きな声で「あと3分だ。頑張るぞ。」と、みんなが、私に言う様に、大きな声を掛け始め、みんなの気迫が伝わってきた。
私はグランドの中を走り、自分が出来る事を、精一杯して、試合終了の笛が鳴り、試合が終わった。
みんなが私のもとに集まって来てくれ、みんなで抱き合い、涙を流した。
ベンチに戻り、涙を流し喜んでいるみんなに、私が泣きながら「ありがとう。ありがとう。」と、言い続けていると、監督が、グランドからボールを持って、私に近づき「今日の試合で、使ったボールだ。持って帰れ。」と言って、私はボールを受け取り、深く頭を下げて「ありがとうございました。」と、言い。私の、最高のサッカー人生は終わった。
その日の夕食の時、ほとんど会話をしていなかった、母に話かけた
「今日が最後の試合で、監督が、ラスト3分の時に試合に出してくれたの。」と、照れくさそうに、話しをした。
母は嬉しそうに笑いながら「見ていたよ。本当に、かっこ良かった。」」と、喜んでくれて、私は久しぶりに見る、母の笑顔に嬉しくなり「「うん。」と言い、「今日で、部活終わりだから、盲目センターに、行って見様と思うのだけど、一人で行くのは心細くて、お母さん、いつ休み。」と、聞いた。
母は涙を流しながら、頷き「明後日、お休みだから、明日、1度電話を掛けてみて、明後日に、行ってみようか。」と、優しく言ってくれ、「うん。」と頷き、答えた。
盲目センターには、家から駅まで歩いて5分、電車に乗って、6つ目の駅で降り、歩いて7,8分位の所にあった。
盲目センターに着き、ビルを見ると、30坪位の、5階建てのコンクリート作りのビルで、職員の人の中には目が見えない人もたくさんいて、私に盲目センターの中を案内してくれて、話をしてくれた人も目が見えない人だった。
案内してくれた人は、女性で、身長は160センチ位で、少し太っていた。
その女性に案内されて2階の個室に入り、椅子に座ると、その女性が笑顔で
「初めまして、私の名前は浜田恵と申します。
見てのとうり私も目が見えなくて、徐々に目が見えなくなる不安や恐怖、辛さは分かっていますが、それを乗り超えて生きて行かなければ、いけません。
そのためには、点字やパソコンなどを覚えて、自分の遣りたい事や、遣れる事を見つける事が必要だと思います。
今はまだ目が見えていると言う事なので、目が見えなく為ってもここまで通える様に今の内に何度もここまで通い、遣りたい事や遣れる事を見つけて勉強する事をおすすめします。」と話してくれ、
翌日から出来るだけ、盲目センターに通うようになった。
私の目の病気の進行は早く、それかれ1年半後には視力を完全に失っていた。
私は白い杖を突きながら盲目センターに行けるようになっていて、目の見えない人にパソコンを教える仕事についていた。
歩行者専用道路には、黄色い、でこぼこ[凸凹]した視覚障害者誘導用ブロックがあったが、携帯電話を見ながら自転車の乗っている人や、歩いている人、何人かで立ち話をしている人、視覚障害者誘導用ブロックの上に自転車を置いている人などが多くいて、怖いと思った事が何度もあった。
ある日、家から電車に乗り、
盲目センターの、ある駅の改札口で定期券を見失って鞄の中を探していると
「邪魔だ、どけ。」と、男性の怒鳴る声が聞こえて、
怖くなって盲目センターには行かずに、家に帰って母にその事を話し
「怖くて少しの間仕事を休むから、盲目センターに電話を掛けておいて。」と言って、部屋に戻った。
仕事を休み、3日目の朝に家のチャイムが鳴る音がして、
母が私の部屋に来て「浜田さんが、来てくれているわよ。中で待っていてもらっているから、着替えて来てね。」と、言ってきた
私は急いでパジャマから私服に着替えて、浜田さんが待ってくれている部屋に向かった。
私が部屋に入ると、浜田さんの
「純子さん。」と、言う声が聞こえて、「はい。」と答えると、
椅子から立ち上がる、音が聞こえて「センターに、行きましょう。」と言う、浜田さんの声が、聞こえた。
母の声で「お茶でも飲んで、いって下さい。」と、言う声が聞こえ、
「ありがとうございます。お構いなく。」と、話す声が聞こえた。
私が「1人で家まで来たのですか、すごいですね。」と聞くと、
浜田さんの笑い声が聞こえて、
「人に聞きながら、来たのよ。
不親切な人もいるけど、親切な人も沢山いるよ。
沢山の人に、手をもって誘導してもらいながらここまで辿り着いたのよ。」と言って、
力強い声で「純子さん、誘導して、センターに行きましょう。」と言われて、盲目センターに、行く事になった。
私が浜田さんを誘導しながら、
昔、サッカーをしていた事を話しながら盲目センター向かい、盲目センターのある駅に着いた。
浜田さんが「ここからは、私の方が、先輩だから分かるわ。」と言い、歩き出し、改札口で止まった。
「ここで少し、待ちましょう。」と言われて、
私は、このあいだ、文句を言って来た人を待っているのだ、来たらどうしようと思いながら、少しそこにいていると
「またお前か、邪魔だ。」と、声がした瞬間、
「うるさいんじゃ。白い杖、持ってるのが見えんのか。目、見えへんのじゃ。」と、大きな浜田さんの、怒鳴り声がして、一瞬、周りが静かになり、ざわつきはじめた。
文句を言って来た男の声がして、
「すいません、知りませんでした。」と、大きな声で言われて、ホームの方に、足早に、歩いて行く音が聞こえ、浜田さんに、「行きましょう。」と言われて、私達は、盲目センターに向かった。
センターの個室の部屋に入ると、浜田さんが
「さっきは驚いたでしょう。
高校に入るまで、大阪に住んでいたから、大阪弁が、出る時が合って。」と、笑い声が聞こえ、
「白い杖の意味を、知らない人も、多いからね。」と、言われて
「そうだったんだ。浜田さんといると、心強いよね。」と、答えると、
「純子さん。さっきサッカーをしていたって言っていたけど、何かスポーツをしたら良いのに。
目が見えなくても、出来るスポーツは沢山あるよ。頑張ったら、パラリンピックに、出場出来るかも、分からないしね。」と言われて、
目が見える時に見た。大阪女子国際マラソンで、中谷歩が走っている姿を思い出し
「私、体力はあるから、マラソンを、して見たい。」と言って、私のマラソンっへの、挑戦がはじまった。
盲目センターでマラソンをしている人を紹介してもらい、走る事に為ったが1人では走れず、
1つのロープを持ち合って誘導してもらうのだが、目が見えないので息が合わずに転ぶ事もよくあり、
何処を走っているのか、タイムはどれ位なのか、ペースはこれで良いのか、誘導して走ってもらっている人に教えて貰わなければ何も分からない自分に腹立たしく思い、何度か走る事を辞めようかと思った事も有ったが、
私を誘導してくれながら一緒に走ってくれている、武田さんが
「ゆっくりでいい。時には歩いてもいい、走りつづける事が大事なんだ、頑張れ」と、いつも励ましてくれて、私は必死に頑張った。
私のマラソンに協力してくれている人達は、ほとんどの人がボランティアの人達で、
ありがたい思いで一杯だったが、練習時間は限られていて、大会に出場するには私を誘導してくれる人を2人見つけ、1人の人に約20キロずつ誘導してもらい走ってもらわなければ為らなかった。
私が速くなればなるほど、ボランティアで私を誘導して走ってくれる人を探すのはとても大変で難しい事だったが、みんなに協力をしてもらい、努力をして、パラリンピック出場を決めた。
この物語は次回作
「東京オリンピック・パラリンピックにそれぞれの思いを抱き、マラソンに挑む少女たちの物語『ゆっくりと前え』の一文の中に入ります。
あらすじ
養女であり、生まれつき片腕が無い 歩
歩の母と親友であり最大のライバルとしてオリンピック日本代表を争い、オリンピック金メダリストの母を持つ 優
脳神経外科大学教授の、父の「医者になれ」と言う言葉より、走る事を選ぶが、脳の難病になってしまう 春奈
女子サッカー選手として有望視されていたが、高校生の頃「失明をする」と告知されてしまう 純子
それぞれの思いを心に抱き、東京オリンピック・パラリンピック、金メダルを目指す物語。
東京オリンピック・パラリンピックで金メダルを手にするのは一人。果たして・・・・・・




